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第5話

 フィル・ステラ――それが俺に与えられた名前だと聞かされている。

 昔、とある魔導士が、鬱蒼とした森の奥深くを歩いていたときのことだ。

 かすかに、赤ん坊のような泣き声が耳に届いたという。

 声のする方へ慎重に歩み寄ると、苔むした根元に、ひっそりと置かれた籐のカゴが一つ。

 その中には、生まれたばかりの赤ん坊。まだ目も開かぬ小さな命が、ひとりぼっちで眠っていた。

 傍らには、たった一枚の紙切れ。そこには、簡素な文字で「フィル・ステラ」と書かれているだけだった。

 それが唯一の手がかりだったそうだ。

 魔導士は、そっと赤ん坊を抱き上げ、アストラルの街で誰かに託した。

 それが、俺の知らない過去。

 だから、俺には親がいない。理由は、そういうことらしい。

 

「親か……」

 

 夜空を見上げる。満点の星が、冷たくも優しく瞬いている。

 どんな親だったのか。今は、どこで何をしているのやら。


 すると、背後の茂みで、ガサゴソと物音がした。

 思わず振り返り、声を張る。

 

「誰だ!」

 

 茂みの向こうから現れたのはカイルだった。

 

「よ! フィル」

 

「なんだよ……カイル、お前か。魔物でも出てきたのかと思ったよ」

 

「わりぃ」

 

 カイルはそう言うと、俺の隣に腰を下ろす。


「お前、最近忙しいみたいだからよ。だから、ここにいるんじゃないかなぁって思って来てみたわけ」


 それを聞いた俺は、なんだかほっとして、ついはにかむように笑った。


「なぁ、カイル。世界って広いよなぁ……」


「急にどうしたんだよ」


「いろんな本を読んだんだけど、魔法は奥が深いし、この街周辺だって俺たちにしたら結構広いだろ? でも世界はこんなの比じゃないくらいでかいんだ」


 フィルの視線は夜空の星々を映し出すかのように輝き、まるでその光を胸の中に取り込んでいるみたいだった。


「俺、いつかはいろんな所を旅して回るのが夢なんだ。だけど、魔法は使えないとだろ? ほら、魔物とかたくさん出るだろうし。そのために勉強してるんだ」


 一呼吸置き、声を落として、さらに続ける。

 

「あとは親に会ってみたい」

 

「ほら、俺ってさ、森に捨てられてたって話じゃんか。なんでそんなことしたのかなって。あと純粋にどんな人なのか気になる。悪い人かも知れないけどな」

 

 自嘲するように、冗談めかして笑った俺の横顔を、カイルはじっと見つめる。


「フィルってすげーよな。そんなことまで考えてるのかよ。俺らゆーてまだガキだぜ」


 カイルは少し驚いたように口を開き、続ける。

 

「旅かぁ……お前の夢ってやつ応援してるぜ。あとは、親に会えるといいな」


 そう言うと、カイルは突然、目を輝かせて立ち上がった。


「そうだ! その旅、おれも付いてってやるよ。ほら、魔物もいっぱいいるんだろ? フィルはすぐやられちまいそうだしな。おれが手伝ってやるよ!」

 

 未来への希望に満ち溢れた笑顔で、カイルはフィルを見つめていた。


「そりゃあ、いてくれた方が助かるけどさ」


「じゃあ決まりな。お前は俺が助ける!」


 カイルは力強く拳を前に突き出す。

 

「約束な」


 彼の熱い視線に応えるように、俺も拳を前に出す。

 

「約束だ」


 互いの拳が軽くぶつかり合い、月の光に照らされて小さく火花が散った気がした。

 

「それじゃあ、そろそろ帰るわ。たまには飯食いに来いよー」


 そう言って、カイルは嬉しそうに笑いながら、風に揺れる髪をなびかせて帰っていった。

 俺はその背中を見送りながら、胸の奥に小さな熱を感じた。


 ――次の日。

 空はどこまでも青く、果てしなさを示すかのように澄み渡っていた。行楽日和というよりも、冒険の幕開けを告げるような、そんな朝だった。

 俺は自然と早起きし、魔導院へと足を運ぶ。

 尖塔は青空を貫くようにそびえ立ち、光を反射して煌めく。廊下の窓から差し込む光は、石の床に影のストライプを描き、心地よい冷たさと相まって、歩くたびに心をしゃきっとさせた。


 ……だが、どこからか冷たい視線がこちらを射抜く気配がした。

 俺は足を止め、耳を澄ます。


「おい、そこのお前」

 

 その声に反応し、俺は振り返る。

 心臓が一瞬跳ねた。校則でも破っただろうか?

 それとも、誰かに迷惑をかけたのか……頭の中で考えが巡る。


「えっと、俺……なにかしましたか?気に障ることでも?」

 

 なぜ呼ばれたのか訳も分からず、何か校則でも破ったのかなどと、考えを巡らせた。


 しかし、声の主はすぐに核心へと迫ってきた。

 

「エリシアとはどういう関係だ!」


「はい?」


「俺は知っている。エリシアと二人で楽しそうに話しているところを、あらゆる場所で見ている!」

 

 その異様な執着に、俺は咄嗟に問い返す。

 

「あの、ちなみにどなたでしょうか……?」


 冷たい声が返ってきた。

 

「人に名前を尋ねる時は、まず自分から名乗るのが礼儀だろう」


 面倒くさいタイプだと直感する。

 心の中で軽くため息をつき、自己紹介する。

 

「俺は一年のフィル・ステラといいます」


 その直後、声が鋭く切り込む。

 

「二年、名はルイ・アルフェルト、それだけ覚えていればいい」


 その声には、余計な情報を許さない、静かで強い命令のような響きがあった。

 

「本題に入ろう。エリシアとはどういう関係なんだ」

 

 挨拶も礼儀も省き、彼は問答無用で核心に踏み込んできた。


「なにか勘違いしてるみたいですけど、あなたの思っている関係ではないですよ。ただの友達です」


 その言葉に、ルイの瞳が一瞬、暗く鋭く光った。


「嘘をつくなあああ!」


 突然の叫びに、廊下の空気が震えた。

 怒りだけではない。絶望と裏切りが混ざった、胸を刺すような痛切な響き。

 

 「あの距離感、あの間柄……そんなはずはない。フィル・ステラ」


 まさか、このあと決闘!?

 頭の中で警鐘が鳴る。

 ベタすぎる展開、めんどくさい流れが目の前で現実になろうとしていた。


「決闘だ!」


 ……うわぁ、言っちゃったよこの人。

 思わずフィルは頭を抱えたくなった。


 ルイは、それだけ言うと光の速さで廊下の奥へと去っていく。


 ん? どっか行ったぞ。何かの手違いで忘れていてくれ……と、切実に願った。


 授業中、さっきの出来事が頭から離れず、俺はぼんやりとノートに目を落としていた。

 ふと、机の中に手を伸ばすと、一枚の紙が指先に触れた。

 

「ん……なんだこの紙?」


 好奇心に駆られ、そっと紙を開いてみると、そこには。

 

 『果たし状 フィル・ステ……』

 

 続きを読む前に、反射的に机の中に戻す。

 ん? 何これ……見なかったことにしよう。

 ため息をひとつつき、肩を落とす。


「フィルくん、どうしたの?顔色が悪いよ」

 

 隣の席のミナが心配そうに顔を覗き込んでくる。


「いや、なんでもないよ……はは」


 その声は、思った以上に乾いていた。


 ……無視したらまずい、そう思い直し、もう一度机の中から紙を取り出す。

 そこには、はっきりと書かれていた。


 『果たし状 フィル=ステラ殿貴殿との決闘をここに申し込む。明日の早朝、魔導院訓練場にて待つ』

 

 さて、この状況、どうすればいいんだ?

 まだ勘違いしてるのだろうか、あの人は。


 頭の中がモヤモヤしていると、隣から声がかかった。

 

「フィル、その紙、なに?」


 ミナがじっとこちらを覗き込んでくる。焦りで心臓が跳ね上がる。

 必死で誤魔化そうと、俺は咄嗟に答えた。

 

「え、あ、テストの裏紙だよ」


 集中しなきゃいけないのに、頭の中は「果たし状」でいっぱいだ。

 先生の声が遠くなり、黒板の文字が呪文のように踊って見える。

 ポケットの紙を握りしめ、俺は重い足取りで下駄箱へ向かった。


「フィルくん!」

 

 振り向くと、息を切らしたミナが立っていた。

 彼女の瞳には、真剣な色が宿っている。

 

「ねえ、その紙、もしかして、ルイ・アルフェルト先輩から?」

 

 ギクリ。肩が跳ねる。まさに心臓が飛び出しそうになった。

 

「なんで名前を……」


「だって、最近ずっとあなたのこと探してたみたいよ」


「なんで……おれを?」


「さあ? でも、噂では、自分の愛する人を誑かしたやつって言ってたらしいけど」


「誑かすって、人聞きが悪いだろ……」


 このままじゃ、みんなに誤解されてしまう。いや、それ以前に、明日の訓練場でどうなるんだ。


 ――翌日、早朝。

 俺は重い足取りで、魔導院の訓練場へ向かっていた。

朝日が低く差し込み、石畳に長い影を落としている。胸の奥で鼓動が速まる。心臓が跳ね、手のひらは微かに汗ばんでいた。


「きたか、フィル・ステラ」


 訓練場の中央、冷たい朝の光の中に、ルイは腕を組んで立っていた。鋭い眼光が俺を射抜く。

 


「あの、一つお聞きします。ルイ先輩は誤解しているのですが、伝わっているのでしょうか……?」


「そんなたわごと、聞きたくはない!」


 やっぱり、言葉で通じる相手じゃない。

 腹を決める。やるしかないのだ。

 

「これを使え」


 ルイがそう言うと、一本の木剣が勢いよく投げられる。

 俺は反射的にキャッチした。木の感触が掌に伝わる。


「手加減はせんぞ。貴様も本気で来い!」


 腰に手をかけるルイ。その姿勢からは、冷徹な自信と静かな殺意が滲んでいた。

 

「さあ、始めようか、フィル・ステラ。貴様のような誑かしに長けた者に、正々堂々という言葉は意味をなさない」


 俺は木剣を両手で握りしめ、自然と構えを取った。

 訓練場の床には、古い魔法陣の跡がうっすらと刻まれている。早朝の冷たい空気が、肌を刺した。


 ルイが一歩、踏み出す。

 そのわずかな重心移動だけで、張りつめた空気が弾けた。


「風よ、唸れ――ウィンド・エッジ」


 詠唱の最後の音が消えると同時に、鋭い風の刃が地を滑って飛ぶ。

 視界に映った瞬間、俺は条件反射で横に跳んだ。


 「っぶな!」


 風の刃は俺のいた場所の石床を、まるで紙のようにスパンと切り裂いた。

 粉塵が舞い、地に新しい深い傷が刻まれる。

 

「いきなり容赦ないな!」


 ルイは微動だにせず、木剣の柄から手を離し、両手をこちらに向ける。

 

「貴様がただの友達だと言うのなら、その言葉を力で証明してみろ!」


 ……え、何? その理論どっから出てくんの?


「炎よ、形を成せ――ブレイズ・ジャベリン」


 掌から生まれた炎は槍のように伸び、赤い尾を引きながら一直線に迫る。


 


 おれは木刀を構えながら、自身の内に渦巻く微弱な魔力を、手のひらに集中させる。


「くそっ……やるしかない!」


 俺は自分の内側に渦巻く魔力を掌へと集中させた。

 

「アクア・ヴェイル!」


 パシャッ、と水膜が瞬時に広がる。

 炎の槍が衝突し、激しい蒸気が立ち上った。

 

 熱と水蒸気が入り混じり、視界が一瞬で白い靄に覆われる。

 肌にチリチリした刺激が残るが、今が好機だ。


「今だっ!」

 

 俺は靄の中へ駆け込む。

 真正面から突っ込んでくるバカがいるとは、誰も思わない。そう信じて。

 白い靄を切り裂き、ルイの影が見えた。

 

「もらった!」

 

 木刀を上段から勢いよく振り下ろす。

 

 「ゴンッ!」


 鈍い音。

 ルイは俺の攻撃軌道を既に読んでいた。

 構えていた木刀を軽々と持ち上げ、受け止めたその表情は、氷のように冷たい。

 

「小癪な」

 

 吐き捨てるように言うと同時、木刀が横へ鋭く払われ、俺の体勢が一瞬で崩れた。

 

 ルイは踏み込み、木刀の柄頭で俺の腹をズドンと突き上げた。


「ぐふっ!」

 

 息が詰まる。

 痛みよりも、体が硬直する方が先だった。

 

 そのまま木刀が振りかぶられ、俺の顔めがけて落ちてくる。


 ――来る!


 声すら出ない。

 俺はただ、反射と本能で魔力を身に叩きつけた。


「――っ!」

 

 ブォンッ!

 突風が爆ぜたような衝撃。

 俺の身体が後方へ弾き飛ばされ、床を転がりながらも、なんとか体勢を整えた。


「無詠唱だと……? やるではないか」


 ルイは驚愕の色すら見せず、むしろ獲物を見つけた獣のように口の端を吊り上げた。

 木刀を押しつけたまま、空いた左手に濃密な魔力を集め始める。

 

 まずい……! この距離で魔法だと!?

 しかも木刀で牽制されながらじゃ、防御すら満足に……!


 俺は歯を食いしばり、押し込まれる木刀の圧力に耐えながら、手にしていた木刀を左手へと持ち替えた。

 右手を地面へ叩きつけるように突き出す。

 

「っ……おおおおっ!」

 

 瞬間、魔力が炸裂した。

 

 ドガァンッ!!

 

 地面が砕け、破片と粉塵が爆煙のように一気に舞い上がる。

 視界が白く霞み、乾いた破片が肌に当たった。

 

「っ……!」


 ルイは反射的に顔をそむけ、片手で目を庇う。

だが、剣士の勘が、彼の身体を勝手に動かした。

 

「させるか!!」


 視界ゼロのはずなのに、ルイは迷わず木刀を横一線に薙ぎ払った。

 その軌跡は、まるで俺の位置を完璧に読んでいたかのように直撃する。


「うわっ!」

 

 俺の身体は弾き飛ばされ、訓練場の地面を数メートルに渡って転がった。

 背中を打ちつけるたびに粉塵が舞い上がり、肺が焼けるように痛む。


 ルイは目元の粉塵を軽く拭い、視界を取り戻しながら俺を睨みつけた。

 その目は怒り……ではなく、苛立ちと焦りを孕んでいる。


「小賢しい真似を……。もうこれ以上は興醒めだ」

 

 俺は木刀を杖代わりに、ふらつきながら立ち上がる。

 全身がギシギシと悲鳴をあげている。


「休む暇はないぞ!」

 

 ルイが地を蹴った。

 乾いた空気を裂くような疾走、一瞬で間合いが詰まる。


 まずい……! 魔法を……なんとか、魔法を……!


 手を上げようとするが、全身の痛みのせいか、魔力がまるで糸が切れたように練れない。

 頭の中で防御魔法のイメージすらうまく形にならない。

 

 ――間に合わない。


 木刀が頭上めがけて振り下ろされる。

 視界が細くすぼみ、すべてが終わる予感が胸を締めつける。

 その瞬間だった。

 ルイの動きが――唐突に止まった。


 「……?」

 

 彼は、まるで幻聴を聞いたかのように目を見開き、訓練場の隅へ視線を向ける。

 

「……エリシア」

 

 その名を、ほんの小さく、けれど確かに呼んだ。

 ほんの一瞬。

 だが、その一瞬がすべてを変えた。


 今しかない……!

 

「――っ!」

 

 木刀を上へ突き上げる。

 

 ゴツンッ!


 鈍く重い音が、訓練場に響いた。

 木刀の先端がルイの顎を正確に捉える。

 ルイの身体が跳ね上がり、木刀が手からこぼれ落ちる。


 意識は飛ばなかったものの、瞬間的に膝を折り、地面へ崩れ落ちた。

 


「っ、く……!」


 咳き込みながら、彼は顎を押さえ、悔しさと羞恥が混じった目でこちらを見上げてくる。

 誇り高い男にとって、この姿を晒すことは死よりも屈辱に違いない。


 ――決着だ。


 俺は荒く上下する呼吸を整えながら、ゆっくり木刀を下ろした。

 勝った、という実感がまだ胸に落ちてこない。


「ルイ先輩。勝負は……これで終わりです。これ以上続けても無意味です」


 震えが混じる声を抑え、冷静を装って告げる。

 するとルイは、立ち上がろうとしていた動きを止め、痛みに歪んだ顔でこちらを見上げた。

 その目に宿るのは怒りではなく、もっと深い…自分への苛立ち。

 ルイはふと、訓練場の隅に視線を流し、そしてゆっくりと立ち上がった。

 

「…………」

 

 落ちた木刀を見ようとせず、ただ静かに唇を噛む。

 

「……ああ。俺の、負けだ」

 

 絞り出すような低い声。

 その中に宿るのは、屈辱でも怒りでもない。自分を責める痛みだった。

 

 そうだ。ルイ先輩が何かを見て、動きを止めたんだ。

 

 あれは……?

 

 俺はゆっくりと視線を向ける。


 そこに立っていたのは、ルイの口から漏れた名前。

 エリシア。


 朝日に輝く金髪。

 澄んだ青い瞳。

 訓練場の荒れた空気の中で、彼女だけが別の世界から来たように見えた。

 

 見られてたのか。全部……!


 その瞬間、戦闘よりも心臓が跳ね上がった。

 エリシアは立ち尽くしたまま動かず、ただ驚きと深い困惑を混ぜた表情でこちらを見ている。

 

 最悪だ……どう説明すれば……!? ルイ先輩の馬鹿げた勘違いから始まった喧嘩なんて、言えるわけがない!!

 ガンガンとうるさいほど心臓が鳴る。


 沈黙を破ったのは、エリシアだった。

 

「ルイ。それにフィルくん……? 二人とも、何をしてるの……こんなにぼろぼろになって」

 

 倒れた木刀。土だらけの顔。傷だらけの服。

 なのに彼女はそれには触れず、ただ真っ直ぐに状況を問う。声には心配がにじんでいた。

 

 ルイは答えない。

 情けない姿を見られ、理由を晒すこともできない──プライドがそれを許さなかった。

 

「エリシア、お前は関係ない! 早くここから立ち去れ!」

 

 怒鳴り声は荒く鋭い。

 けれどその裏にあるのは、動揺を隠す必死さだった。

 

 「関係ないって……そんなわけないでしょう!? ルイが怪我をしてるのよ!」

 

エリシアが駆け寄ろうとした瞬間、ルイは痛みに顔を歪めながらも、彼女を止めるように一歩踏み出した。

 

 「待て、エリシア」

 

 震える声。

そしてゆっくりと、フィルへ視線を向け、深い溜息をつく。

 

「フィル=ステラ。……貴様の言う通りだ。これ以上続ければ、敗北以上に無様だ」

 

「関係ないって……!ルイの怪我に関係ないはずないじゃない!」

 エリシアがルイに駆け寄ろうとした瞬間、ルイは痛む体を我慢し、自ら一歩、前に踏み出した。


「待て、エリシア」

 ルイは、震える声でエリシアを制止した。そして、フィルのほうに視線を向け、深い溜息をついた。


「フィル・ステラ。貴様の言う通りだ。これ以上、この茶番を続けるのは、俺の敗北以上に、無様だ」


 負けを認めるよりも、もっと痛い本音。

 ルイはそのプライドを絞り出すように、エリシアと向き合った。

 

 「エリシア。俺が……この男に果たし状を叩きつけ、朝から殴り合いを仕掛けた」


 その声は、ひどく震えていた。必死に取り繕っていた自尊心が、今まさに砕け落ちていくのが分かるほどに。

 

 ルイの瞳は、痛々しいほど真剣だった。


「この男、フィル・ステラが……お前を誑かしていると思った。お前と楽しそうに話している姿を見て、心配になった俺は、事実を確かめもせず、勝負を挑んだ。それが、この騒動の全てだ」


 言葉にするたび、ルイの顔から血の気が引き、また戻り、真っ赤に染まっていく。

 敗北の痛みと、自分の醜い嫉妬心をさらけ出す二重の屈辱。彼の呼吸は荒く、拳は震えていた。

 訓練場に重苦しい沈黙が落ちた。

 エリシアはルイの告白を聞き、驚き、困惑し、そして最後に深い悲しみの色を浮かべ、伸ばしかけた手をそっと下ろす。

 

「ルイ……あなた、何を言っているの?」


 その静穏が、ルイにとって最も鋭く胸を刺す刃になった。

 

「私の心配……? あなたは、私を信じてくれなかったの? フィルくんが、ただ話していただけで、私を騙していると……?」

 

 エリシアは、ルイの嫉妬そのものよりも、信じてもらえなかった事実に傷ついていた。

 

「ち、違う! そうじゃなくて……俺は、ただ、お前を……!」

 

 必死の言い訳。その声を、エリシアの低く冷静な言葉が断ち切った。


「ルイ。あなたが私を守りたいって気持ちは理解しているつもりよ。でも……その矛先をフィルくんに向けるのは、筋違いよ。フィルくんは、私にとって大事な友人なんだから」


 肩が大きく落ちる。

 体の傷より、心の傷が深かった。

 

「そう、か。俺が……間違っていたのか」

 

「フィル・ステラ……お前を信じよう。エリシアは、こう見えて気の弱いやつだ。何かあったら、助けてやってくれ」


 ただ、大切な人を守る男の、真っすぐな願いだった。

 フィルは、胸を張って、自信たっぷりに頷いた。

 

「困っている人がいたら、助けるのは当然です」


 その返事を聞いた瞬間、ルイはわずかに安心したように目を閉じた。

 

「馬鹿ね、二人とも。こんなにぼろぼろになるまで……まずは治療室へ行きなさい」


 エリシアは呆れながらも、にじむ優しさを隠しきれていなかった。

 

「僕は……少し落ち着いてから行きます」

 

 フィルがそう答えると、エリシアとルイは一瞬だけ目を見合わせた。

ルイはフィルに丁寧に一礼し、エリシアと共に訓練場を後にした。

 

「あー、しんどかった〜。正直負けてた」


 勝ったのは俺だ。

 でも強かったのは、間違いなくルイ先輩の方だった。

 戦いの中で、力の差を痛感していた。


「もっと……強くならないと」

 

 フィルは落ちた木剣を拾い上げ、重い足取りで治療室へ向かう。


 後日。エリシアは一連の騒動を、ただの友人同士の軽い喧嘩として、静かに収めてくれていた。

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