第4話
魔導院の図書館は、昼下がりの光に満ちていた。
高い天窓から差し込む陽光は、棚に収められた膨大な本の背表紙を照らし、どこか神聖な雰囲気すら漂わせている。
「ふぅ……やっと片付いた……」
フィルは紙をぱたんと伏せ、ぐっと伸びをする。
図書館にはページをめくる音と紙の香りだけが満ちていた。
そんな静けさの中、ふわりと柔らかな気配が隣に現れた。
「フィルくん、ここ……空いてる?」
「あ、エリシアさん。どうぞ」
エリシアは微笑みながら腰を下ろし、そっと本を広げた。
その横顔は穏やかで、まるで、時間がゆっくり流れているかのような落ち着きがあった。
「フィルくん、最近ずっと図書館で見かけるけど……集中できてる?」
「うーん、まあなんとかね。でもページが多くて追いつかない感じかな」
そう答えると、エリシアは肩を揺らしてクスッと笑った。
「そういうとこ、真面目だよね。ちょっと羨ましいかも」
「いやいや、真面目すぎるのも疲れるんだよ……でもこうやって話すと少し息抜きになるね」
二人で小さく笑い合い、その空気が図書館の静けさに溶けていく。
やがてエリシアは、一冊の分厚い古文書をパタンと開いた。
「これ、今日の参考文献なんだけど……『星の理と魔力の相関』っていう本なの」
「星の……?」
「うん。人の魔力資質が星の配置で左右されるとか、星辰魔法の基礎理論とか……。面白いんだけど、理屈っぽくて難しくてね。フィルくん、こういうの得意そうで羨ましいな」
少し困ったように笑うエリシア。
その表情に、フィルはこそばゆい気持ちで頬を掻いた。
「得意ってわけじゃないけど……まあ、興味はあるかな。難しい理論を読み解くのは嫌いじゃないよ」
「やっぱり! ねぇ、この一節なんだけど……どう解釈したらいいかわからなくて。読む手が止まっちゃって」
エリシアは上目遣いのまま、そっと本を差し出してくる。
自然と距離が近い。甘い香りがふわりと鼻先をかすめた。
「いいよ。俺でよければ」
フィルは自然と身を乗り出し、エリシアの開いたページを覗き込んだ。
「ええっと、ここだけど。『星辰の巡りが、魔力資質を定める……』この部分は、要するに、人が生まれ持った魔力の色や流れやすさは、生まれた日の星の配置と関係がある、っていう昔からの定説を述べてるだけだよ」
「わぁ、そうなんだ! すごくわかりやすい! 私、これ、もっと複雑なものなのかと思ってた」
エリシアがキラキラした瞳を向けると、フィルは急に顔が熱くなった。
「いや、俺もつい最近、似たような概念の本を読んだからさ……」
「それでもすごいよ。フィルくんと一緒に勉強すると、頭にすっと入るんだ。一人だと、すぐ難しいって諦めちゃうのに」
エリシアがレポートのメモを終え、本を閉じると、そっとフィルを見つめた。
「ねぇ、フィルくん。本当にありがとう、助かっちゃった」
「俺も勉強になったし」
ページの端にある古い挿絵が、フィルの目を強く引き寄せた。
「……ん?」
図解の一部に、こう書かれていた。
星の加護を受けて生まれた子は、稀に魔力の流れが通常と逆になる。
魔力逆流は制御困難であり、暴走の危険性を孕む。
「これ……」
ページの文字を読みながら、背筋がひやりとした。
「フィルくん、どうかした?」
「ちょっと気になる言葉があって」
フィルは真剣なままページを指さした。
「この魔力逆流って……どれくらいあるのかな?」
「ほとんどないみたい。数百年に一人レベル。でも……」
エリシアは本を見つめ、眉を少し寄せた。
「暴走しやすいのは、この逆流型の傾向らしいよ。だから、研究者の間でも、星と魔力の関係はずっと議論されてるみたい」
「なるほど……」
エリシアは静かに本を閉じ、不安を振り払うように少し肩を伸ばした。そして、柔らかな笑みを浮かべる。
「勉強はおしまい! フィルくんは課題が終わったんだし、私も少し頭がスッキリしたから」
エリシアは両手を机に置き、身を乗り出す。
「そうだ、フィルくん! 明日って暇してる?」
「ん? まぁ、時間はあるけど」
「わかった! そしたら朝、中庭に来てね!」
エリシアは古文書を抱え、駆け出すように席を立った。その足取りは軽やかで、風が頬を撫でるような感覚さえあった。フィルの視線が追う中、彼女の背中には、どこか自分の中で決意を固めた光が差しているように見えた。
魔導院の中庭は早朝の光に包まれ、学生たちの声もまだまばらだ。
木陰のベンチで魔法書に目を落としていたフィルは、ふと背後から明るい声に呼ばれた。
「フィルくん、お待たせ!」
明るい声が、ふわっと空気を柔らかくした。
振り向くと、エリシアが両手を後ろで組んでこちらを覗き込んでいた。
「うん、ちょうどいいところだったよ」
フィルがにっこり笑うと、エリシアの目がキラリと輝いた。
「じゃあ、行こう! 今日は街をぶらぶら散策しようよ。ずっと本ばっかりじゃ疲れるでしょ?」
「確かに……たまにはそういうのもいいかもね」
エリシアは嬉しそうに弾みながら、フィルの手を取りながら街の大通りへと歩き出した。
魔導院はソレイユの街の小高い場所に建っているため、二人は石造りの階段をゆっくりと降りる。
途中、遠くで衛兵たちの剣の音や、露店の準備で賑わう商人たちの声が聞こえる。
「今日はいい天気だね!」
エリシアの声に、フィルも思わず空を見上げた。
「そうだね。買い物日和」
「買い物日和……ふふっ、なんか大人っぽい言い方!」
「そう?」
フィルが少し照れくさそうに笑うと、エリシアは小さく笑いながら腕を軽く振った。
階段を降りきると、二人は大通りへと足を踏み入れた。
休日のアストラルの街は活気に満ちている。
通りには色とりどりの露店が並び、魔導具や香辛料、甘い焼き菓子の匂いがふんわりと漂ってくる。
「わぁ、あの魔導ランプ可愛い……!」
エリシアは子どものように目を輝かせ、露店の一角に並ぶランプを見つめる。
花の形に光が咲く魔導ランプで、魔力を流すと色鮮やかな光が花開く仕組みらしい。
「フィルくんも触ってみて」
「え、上手くできるかな……」
「大丈夫、大丈夫!」
エリシアに励まされ、フィルはそっと手をかざす。少しだけ魔力を流すつもりだった。
「うわっ!?ちょ、ちょっと出しすぎ……!」
想像以上の勢いで、花の光がランプから溢れ出し、まるで小さな花畑が広がったかのように通りを照らす。
店主の目がまん丸になり、思わず叫ぶ。
「おいおいおいおい!?」
通行人たちも思わず目を細め、まぶしそうに顔をしかめる。
「フィルくん!? だ、大丈夫!?」
「ご、ごめんなさい!!」
慌てて魔力を止めると、花の光はしぼみ、周囲に笑い声と苦笑が広がった。
すると、店主は豪快に手を叩き、大きな声で笑った。
「いやぁ、元気があってよろしい!だが次はもうちょい控えめに頼むぞ!」
陽気な声に押され、フィルは思わず頭を掻いた。
「ふふっ」
「笑ったな!?」
「だって、フィルくんらしいんだもん。かわい……くはないけど……うん、らしいよ」
途中で「かわいい」を飲み込んだせいで、逆にそのもどかしさが伝わり、フィルは軽く顔を背けた。
「えっとね、行きたい場所があるの」
エリシアが指差したのは、小さな木造の雑貨屋。
窓から漏れる光が柔らかく、魔導具というよりも、可愛らしい生活用品が並ぶ店だ。
「しおりが欲しいんだよね?」
「うん! 少し、可愛いのが欲しくて」
店内に足を踏み入れると、木の香りと、優しい日差しのような温かみが混ざり合い、思わず深呼吸したくなる空気が漂っていた。
「これ、どう?」
エリシアが取り出したのは、細い金属製のしおり。小さな星型のチャームが揺れて光っていた。
「綺麗だ。エリシアさんによく合ってる」
「っ……!」
エリシアは思わず固まり、目を泳がせる。
「え……えっと……そ、そうかな……?」
「うん。そう思う」
素直に言っただけなのに、彼女の頬はじんわり色づいていった。
「じゃ、じゃあこれにする……」
エリシアはしおりをそっと手に取り、少し嬉しそうに微笑んだ。
フィルも自然と笑みを返す。二人の間に、ほのかな時間の余白が流れた。
「ねぇ、フィルくん。あそこのお店寄っていかない?」
エリシアが指差したのは、パン屋の軒先に設けられた小さなカフェスペース。
甘い香りが漂い、二人は自然とその席に腰を下ろした。
「クロワルっていう名物パンがあってね、外カリカリで中ふわふわなんだよ!」
「じゃあ俺もそれにする!」
運ばれてきたパンは見た目も可愛らしく、
砂糖がうっすらかかって光っていた。
「……美味しい」
「でしょ!?ほらみて、耳のとこがサクサクで」
エリシアは両手でパンを持ち、子どものように嬉しそうにかじりつく。
こんな顔するんだ。
涙を流していた姿とは違う。
ただ笑って、美味しそうにパンを食べている普通の少女の顔だ。
「ど、どうかした? じーっと見てるけど」
「あ、いや……楽しそうだなって」
「た、楽しいよっ! だって……フィルくんと一緒だから……」
最後の一言は小さくて、風に流れそうだった。
食べ終わったあと、エリシアがふとフィルを見上げ、少し照れくさそうに笑った。
「あの……お礼にフィルくんにも、栞あげる!」
「え、俺に……?」
「うん! だって、今日付き合ってくれたんだし、それくらいしなきゃ!」
差し出された小さな箱には、星の模様が控えめにあしらわれた栞が入っていた。フィルは思わず目を見開く。
「そ、そんな……ありがとう、エリシアさん」
「ふふっ、喜んでもらえると嬉しいな」
フィルは少し照れくさそうに笑い、そっと受け取った。
日が傾き、街がオレンジに染まり始めたころ。
二人は魔導院へ続く階段をゆっくり登っていく。
「今日は……すごく楽しかった」
「うん、俺も」
「また、一緒に街、歩こうね」
手は繋がない。
距離も詰めすぎない。
でも、なんとなく同じ歩幅で。
胸の奥が温かい、ただそんな帰り道だった。




