第3話
昼前の教室は、ゆるい空気に満ちていた。
「なぁフィル、今日の授業って座学だよな? 俺もう眠気やばいんだけど……」
机に沈み込みながら、カイルが魂抜けた声を漏らす。
「まだ昼前だよ。早すぎない?」
「いや無理。魔法理論とか聞くと脳が拒否反応起こすんだよ……」
カイルは机にほとんど顔を埋めたまま、くぐもった声で訴えるが、フィルは苦笑するしかない。
教室の反対側では、ユウナが女子たちと楽しそうに話していた。
「ユウナ、今日のお弁当また可愛いね!」
「えへへ、ちょっと頑張ってみた!」
飾り切りの果物を見せ合い、きゃあきゃあと盛り上がっている。
その空気に、カイルがぼそりと呟いた。
「女子ってなんでああ元気なんだ……? 俺、もう無理なんだけど」
「知らないよ……」
フィルは肩をすくめつつ、ふと窓の外へ目を向けた。
空は晴れ、風は少し強め。
どこからどう見ても普通の、平和な昼前。
「そういや、今日ウィルム先生だよな?」
「うん。そのはずだけど」
「なんか嫌な予感しない?」
「カイル、それ毎回言ってるよ」
「いや、ウィルム先生って平和な授業してる記憶ゼロじゃね?」
フィルはあいまいに笑った。否定できないからだ。
そんなゆるい空気を断ち切るように、
コン、コン。
扉が軽く叩かれた。
「席に着け、諸君。授業を始めます」
満面の笑みを浮かべたウィルム先生が入室した瞬間、教室の空気が一段階引き締まる。
フィルは何気なく視線を向け、ウィルムの手元にある何かを見た。
見たこともない刻印が刻まれた魔力装置が教卓に置かれる。
「さて、今日は魔導演習を行います」
微笑んだウィルムの声が、やけに軽かった。
鐘が鳴った瞬間だった。
教室の床に刻まれた魔法陣が、ふつりと光り始めた。
淡い青のラインが床を走り、音もなく広がっていく。
「……え?」
フィルが思わず足元を見る暇もなく世界が反転した。
重力がふっと消え、視界が黒で塗りつぶされる。
次の瞬間、空気を切り裂くような風とともに、光が広がった。
ドォンッ!
全員がまとめて地面に叩きつけられた。
そこは教室ではない。
広大な森、岩場、砂地まで混在する、巨大なフィールド。
生徒たちは一斉に落下し、フィールドへと叩きつけられた。
「いってぇ……! な、なんで急に!?」
悲鳴があちこちから上がる中、演習フィールドを見下ろす高台の上で、ウィルムが腕を組んだ。
「今回は二人一組 でペアを組んで挑んでもらう。互いに支え合い、協力し、助け合うのも授業のうちだ。仲良くな?」
「魔導演習の目的は生存。三十分間、各自、生き残ること。以上」
「以上じゃねぇよ!!」
「説明は! 心の準備!」
抗議の声が飛ぶが、ウィルムはにやりと笑うだけ。
カイルがフィルの肩をぽんっと叩いた。
「よし、フィル。どうせ組むなら俺とだよな?」
「まぁ、そうだと思ってたけど」
「だよなー。ユウナとか女子と組むと気使うし。お前となら適当にやっても文句言われないしな」
「言い方ひどくないか?」
二人とも、ちょっと苦笑しながら自然にペア成立。
他の生徒たちも散り散りにペアを組み始める。
ウィルムは満足げに頷いた。
「よし、ペアが決まっていない者は、適当に近くの者と組ませるからな。逃げても無駄だ。諦めろ」
「フィールド内には《演習魔獣》が多数放たれています。注意してください」
「魔獣ぅ!?」
「多数!? ねぇ多数って聞こえたよね!?」
生徒たちの悲鳴が一段階ボリュームアップする。
「大丈夫大丈夫! 危険は最低限に抑えてあるぞ~」
演習モード:起動
「授業開始だ、諸君」
フィールドが赤く点灯し、生徒たちがざわめく中。
ガサッ。
最初に茂みから出てきたのは、手のひらサイズの、丸っこいスライムだった。
「……ちっさ。」
「いや、これは……さすがに怖くないな」
フィルとカイルは顔を見合わせる。
スライムはフィルの靴先にぶつかり、ふよんっと跳ね返った。
「これなら三十分どころか、昼寝できそうなんだけど」
周囲の生徒たちからも安堵の声が上がる。
「なーんだ、弱いじゃん!」
「よかったぁ~! もっとでかいの来ると思った!」
ウィルムは、高台からただ見下ろす。
フィルたちは一応身構えつつも、スライムに脅威は感じない。
攻撃といっても、跳ねてぶつかるだけ。
痛くも痒くもない。
カイルはしゃがみ込み、スライムを指でつつく。
「おいフィル、完全にもちもちなんだけど。これペットにしたくなるレベルだぞ」
「おい……演習中なんだから」
スライムはカイルの指にくっついてぷるぷる震えているだけだ。
その様子を見た女子の一人が笑って言った。
「かわいい~! これなら全然大丈夫じゃん!」
本当に、最初は平和そのものだった。
だが突然、指にくっついていたスライムが地面に落ち、弾けて消えた。
「え?」
カイルが目を瞬かせる間に、周囲の無数のスライムたちが、一斉に弾け飛んだ。
スライムが消滅した場所から噴出したのは、淡い青い光の粒子。その粒子は空中に浮遊し、まるで霧のようにフィールド全体に広がっていく。
岩陰と木陰、砂地の向こうから、別の魔獣たちがぞろりと姿を現した。
「さあ、準備運動は終了だ。ここから本番いくぞ~!」
ウィルムの声は楽しげだが、その言葉と共に現れた魔獣たちは、先ほどの魔物とは次元が違った。
岩陰からは、 巨大な甲殻を持つ蠍のような生物が、カタカタと毒々しい音を立てながら這い出てきた。体表は黒い装甲に覆われ、尾の先端は鈍い光を放っている。
木陰からは、 赤い体毛を持つ、体長二メートルほどの狼型魔獣が、低く唸り声を上げながら獲物を探すように目を光らせる。
砂地の向こうには、 砂煙を巻き上げながら、巨大なトカゲのような生物がその姿を現し、大地を揺らした。
「な、なんだよあれ……! 冗談だろ!?」
カイルが慌てて立ち上がる。
フィルは顔を上げ、高台にいるウィルムに目線をやった。
「先ほどのスライムは、このフィールドの魔力密度を上げるための触媒だ」
ウィルムは愉快そうに笑った。
「この非日常的な環境で、突如現れる脅威に対して、いかに生存し、協力し、自身の真価を発揮できるか。健闘を祈る」
上空を漂う淡い青い粒子が、フィールドにいる魔獣たちの体へと吸い込まれていく。
「きゃあああ!」
女子たちの悲鳴が響いた。ユウナたちがいた方角からだ。
赤い体毛の狼型魔獣が、空気を切り裂く速さで駆け出し、一人の女子生徒に襲いかかった。
「フィル、後ろ!」
カイルの叫びが響く。フィルの背後に、スコーピオンの黒い甲殻が迫り、尾の針が鋭く煌めいた。
フィルは反射的に地面を強く蹴り、横に身を投げた。
蠍の尾がフィルのいた場所を打ち抜き、土煙が爆発するように舞い上がる。
巻き起こった衝撃波がフィルの体を横へ弾き飛ばした。
「うっ……!」
転がりながらも必死に受け身を取り、フィルは痛む肩を押さえつつ立ち上がる。
「カイル、一旦逃げよう! ここじゃ分が悪い!」
「チッ、わかった!」
スコーピオンが岩を砕きながら迫る中、カイルは振り返りざまに魔力を叩き込んだ。
「泥の弾!」
カイルが放った泥の塊が、スコーピオンの小さな目に正確に着弾した。
アイアン・スコーピオンが苦悶の咆哮を上げ、巨体を左右に振り乱した。
視界を失った巨獣は、尾を振り回しながら地面を抉る。
二人は反転し、一気に岩場エリア目掛けて駆け出した。
「ハーッ、ハーッ……! フィル、正解だ。真正面からじゃ、マジで一瞬で終わってた」
カイルは息を切らしながらも、フィルの素早い判断を評価する。
フィルは走る速度を落とさず、周囲の地形を観察していた。
「逃げ切るだけじゃ、生き残れない。倒す方法を考えないと」
額に汗を滲ませながらも、フィルの瞳は冷静だった。
岩場エリアに入ると、風が変わった。
木々は途切れ、代わりに大小の岩が折り重なるように積み上がった複雑な地形が広がっている。
「フィル、どうする!? まだ追ってきてるぞ!」
背後で、甲殻を擦り合わせる不快な金属音が響く。
振り返らずとも、あの巨体が執拗に追いすがっているのがわかる。
フィルは荒い息のまま、素早く周囲の地形を見渡した。
「ここなら、まだ戦える」
「マジで!? ここ岩だらけだぞ!」
「逆に、あの蠍の動きは制限される。狙うなら関節部しかない」
スコーピオンの甲殻は、正面からの攻撃をまるで受け付けない。なら、動きを奪うしかない。
岩陰を縫うように駆け抜けながら、フィルは更に状況を整理した。
「カイル、さっきのまたいける?」
「おっけー」
カイルは大岩の影に滑り込みながら、魔力を集中させた。
手のひらに集まった土砂が渦を巻き、再び球状になる。
ドガァァンッ!!
岩壁の一部が粉砕された。
スコーピオンの巨大なハサミが振り抜かれたのだ。
「来るぞ、フィル!」
岩を踏みしだきながら迫る。
尾の針が空気を裂くように掲げられ、黒く毒々しい光が集まり始めた。
「カイル、前脚の関節めがけて撃って!」
「了解!」
カイルの泥の弾が放たれた。
高速で回転する泥弾は蠍の右前脚、甲殻の継ぎ目へ吸い込まれるように着弾した。
ズグッ……!
泥が関節にめり込み、蠍の動きが一瞬止まる。
「ナイス!」
フィルは全身に力を込め、岩場の斜面を駆け上がる。
スコーピオンが怒りの咆哮をあげる。
岩の上から、彼は蠍の前足へ向けて真っ直ぐに跳ぶ。
空気が鋭く割れ、視界が一瞬だけ光に包まれた。
右手へと魔力を押し込み、掌の先に細く猛る炎刃が走る。
胸の奥で息を整え――
集中しろ。
甲殻の隙、関節の奥。その奥底にある核だけを、焼き切れ。
「はあぁぁっ!!」
炎刃が閃光のように突き刺さり、脚を断ち切る。
巨体が震え、体勢を崩した。
「フィル!!」
カイルの叫びと同時に、尾が暴風のように振り回される。
針が軌道を描く直前にフィルは身体をひねり、尾をすり抜けるように後方へ飛び退いた。
肺の中の空気が一気に押し出され、視界が白く揺れる。
「ぐっ……!」
痛みが背中に走る。
スコーピオンの動きは明らかに鈍っていた。
彼は右手を深く、躊躇なくその傷口へと突き立てた。
「燃えろ……中から、焼き尽くせ!」
掌の中で炎刃が膨れ上がる。
ジュウウゥッ! と焦がす凄まじい音が響き、フィルの右腕を灼熱が包む。
蠍が狂ったように暴れ、フィルを押し潰そうと身をよじる。
歯を食いしばり、魔力を流し込み続ける。
「はああああああっ!!」
フィルの咆哮と共に、蠍の甲殻の継ぎ目という継ぎ目から、目も眩むような白光が溢れ出した。
内部で膨張しきった熱源が、ついに臨界点に達する。
内側からの小規模な爆発。
スコーピオンの巨体がビクンと大きく跳ね、直後、糸が切れた人形のようにどさりと地面に沈んだ。
「やった……」
フィルは肩で息をしながら、ようやく安堵の色を浮かべた。
「危なかったな……本当に、紙一重だ」
カイルも額の汗を拭い、ようやく緊張をほどく。
その時だった。
背後の岩陰から、低く、獣じみた唸り声が響く。
「……って、嘘だろ。」
カイルが振り返った瞬間、赤い光を宿した目が、闇から飛び出してきた。
《ブラッド・ウルフ》
体長は人間の倍以上、赤い体毛は逆立ち、筋肉は張りつめ、牙は月光を反射して冷たく光る。
「おいおい、まじかよ……!」
フィルの背筋に冷たいものが走る。
ウルフが地面を蹴り、空気を裂く速度で飛びかかる。
その姿はまるで赤い流星。
終わった……!!
視界が赤く染まり、牙が目前に迫る。
すべてが凍りついたように静止した瞬間。
――パチン。
ウルフの姿が光の粒子となって弾け飛びた。
「はい、そこまで。」
上空から、やけに明るい声。
「演習終了だ、諸君!」
満面の笑みを浮かべたウィルムが、高台から手をひらひら振っていた。
「いやぁ、きみたちの判断力、連携、冷静さ……全部見せてもらったよ!」
「いやいやいやいや!! あれ完全に殺しに来てたから!!」
カイルは叫び、全身から力が抜けてその場にへたり込んだ。
「いつか、今日みたいな状況が起こるかもしれない。外の世界はな、こう甘くはない。判断一つ、動き一つで命が消える場所だ」
フィルの喉が小さく鳴った。言い返せない。
ウィルムは続ける。声は淡々としているのに、言葉だけが鋼のように重い。
「今立っている地面は、失敗すれば簡単に墓になる。その覚悟を持てる者だけが、生きて帰ってこられる。そういう場所だ。覚えておくように」
言葉が落ちた瞬間、風の音すら止んだようだった。
フィルもカイルも、ただ黙ってその背中を見ていた。
赤い警告灯が、ふっと消えた。
次の瞬間、視界が白に染まる。
フィルは反射的に目を閉じ、椅子の背に、背中を預けていた。
「……え?」
軋む木の音。机の感触。
顔を上げれば、黒板と窓。見慣れた教室の風景が、何事もなかったかのように広がっている。
誰も、喋らない。
生徒たちは全員、席に座ったまま固まっていた。
砂で汚れた制服。袖の裂け目。乾ききらない汗。
床の上に、ぽとりと汗が落ちる。
フィルは自分の手を見る。指先が、微かに震えていた。
「戻ったのか?」
誰かが呟いたその一言が、教室に落ちる。
それでも、誰も続かない。
教卓の前には、ウィルムが立っている。
いつもと同じ、柔らかな笑み。演習前と何ひとつ変わらない。
ウィルムは、軽く手を叩く。
パン、と乾いた音。
「はい。全員、戻ったな」
その声に、何人かが肩を跳ねさせる。
「先生、やりすぎじゃないですか!」
前方の席から上がった声だった。
ウィルムは、少しだけ首を傾げた。
困ったように、けれど楽しそうに。
「そうかい?」
間を置いて、穏やかに続ける。
「言っただろう? 本番で手加減してくれる敵などいないからね」
そう言うと再び手を軽く叩いた。
「今日は解散です。怪我のある者は治療を優先してください」
その言葉を合図に、教室の空気がゆっくりとほどけていく。
隣で、カイルが大きく息を吐く。
「はーマジで疲れた。寿命縮んだわ」
一拍置いて、呆れたように言った。
「今、普通にワクワクしてるだろ」
「うん。ちょっとだけ」
怖さは、まだ残っている。
でもそれ以上に知りたい。
強くなるって、どういうことなのか。
自分は、どこまで行けるのか。
魔導院の門をくぐるということは、単なる学問の探求ではない。戦場で死なないための術を、その身に刻み込むということだ。




