第2話
――それから月日が流れ、13歳。
現在は、街にあるアストラル魔導院というところに寮から通っている。
呪文を唱える声と、ガラスの器具がぶつかる微かな音。
教室の天井には、いつ見ても綺麗な星空が広がっている。
真夜中の空を模したそのドームの下で、俺たちは魔法を学んでいた。
「はい、今日はここまで」
先生が黒板を叩くと同時に、教室にざわめきが広がった。椅子が引かれる音、友人同士の会話、窓から差し込む午後の光。放課後の空気だ。
「フィル、このあと一緒に帰らない?」
隣の席の少女が、鞄を抱えながら首をかしげてくる。柔らかな栗色の髪が揺れた。
「ごめん、今日は用事があるんだ。また今度な」
微笑んでそう答えると、彼女は少し残念そうに頷いた。
フィルは急いで教科書をまとめ、教室を後にした。
向かったのは学舎の奥、ほとんど人の来ない石造りの図書館だ。
扉を押し開けると、古い紙の匂いが迎えてくれる。天井に伸びた本棚の間を、慣れた足取りで進む。
「えっと、今日はここからだな」
フィルは一冊の古びた魔法書を取り出すと、図書館を出て、校舎裏の空き地へ向かった。放課後でもほとんど誰も来ない、静かな場所だ。
腰を下ろし、魔導書を開く。
あれからフィルは魔力のコントロールと総量の改善のため、毎日のように練習を続けていた。
魔力量というものは生まれつきの差が大きい。だが、コントロールさえ洗練すれば、同じ魔力量でも威力も効率も段違いに変わる。
言ってしまえば、魔力のコスパが良くなるのだ。
「ふむふむ……魔法って奥が深いな」
ページを指でなぞりながら、フィルは一人頷いた。
それにしても……。
魔導書を読み進める手を止め、フィルはふと疑問を抱いた。
この世界に来てから、当然のように言語が理解でき、文字が読めている。まるで、生まれた時からこの世界の住人だったかのように。
どうして、この本が読めるんだ? 読めること自体は喜ばしいが……。
もしかして、俺にはこの世界の言語に関する記憶があるのか? それとも、何らかの力がこの知識を直接、脳に流し込んでいるのか?
かつて自分がいた世界では、異国の書物を読むには、まずその国の言語を必死に学ばなければならなかった。それが当たり前だった。だが、今の自分には、その必死に学ぶ過程がすっぽり抜け落ちている。
魔導書に目を戻しても、そこにあるのはただの文字の羅列ではなく、理解すべき情報として飛び込んでくる。
魔法の練習よりも、そっちの方がよっぽど魔法みたいだ……。
フィルは答えの出ない問いを頭の隅に追いやり、再び魔導書に集中し始めた。今は目の前の課題に集中すべきだ。
夕日が赤く差し込み、空き地に長い影が伸びている。額に汗が滲んでいたが、心地よい疲労感だ。
「ふぅ……今日はこれぐらいでいいか」
中級魔法はまだ不安定だ。下級魔法なら、狙った場所に、狙った強さで、ほぼ確実に放てるようになった。
だが、最近魔力を出す時に、わずかな引っかかりを感じることが増えてきた。
これは、自分の生まれ持ったものなのか? それとも、訓練を重ねたことで、体に変な癖がついたのだろうか?
「さて、帰るか〜」
リュックを背負い、フィルは軽い足取りで駆け出した。
角を曲がった瞬間、ふいに背筋から粟立つような悪寒が走った。
影のように静かで、気配すら感じ取れなかった。
心臓がひとつ跳ねた。身体の奥で、ピリッと電流が走る。
魔力が一瞬、逆立つような感覚。
咄嗟に振り返る。
だが、そこには誰もいなかった。
ただ、曲がり角の向こうから、誰かが通り過ぎたような。いや、誰かがいたような、希薄な残滓だけが残っている気がした。
足音も、気配すらも、何も感じ取れない。まるで最初から誰もいなかったかのように静まり返っていた。
「気のせいか……。多分、俺疲れてるんだろうな」
自分に言い聞かせるように呟き、深呼吸を一つ。
違和感は胸の奥に小さく残ったまま。けれど、それ以上追及する気にはなれず、フィルは再び走り出した。
次の日。
フィルはいつものように図書館の片隅で、魔法書に目を走らせていた。静まり返った空間に、紙をめくる音だけが響く。
「ねぇ、きみ。いつもここで本読んで熱心だよね〜」
柔らかく弾む声に顔を上げると、そこには同じ学年の少女、エリシアが立っていた。好奇心に満ちた瞳がこちらをのぞいている。
「あ、エリシアさん! こんにちは。つい夢中になっちゃって。この本、めちゃくちゃ興味深くて……。エリシアさんは何をしに?」
「本探しに決まってるでしょ。図書館だし?」
涼しい声でそう言い、エリシアは髪を耳にかけながら棚を眺める。
「もしよかったら、探すの手伝いましょうか? 最近、よく図書館にきてるからちょっとだけ場所わかるし」
「いいの? 助かる! 実は元素の調和の本を探していてね。どこにあるか全然わかんなくて」
「元素の調和……それなら奥の棚だったはず。案内するよ!」
エリシアは軽く息をついて、フィルの後ろを歩きだした。
「それにしても、君って本当に努力家ね」
「え?」
「だっていつも魔法の勉強してるでしょう? 理由、ちょっと気になるのよ」
不思議そうに聞いてくる。
「いやぁ……人の倍努力しないと、凡人にすら届かないんで。エリシアさんは優秀だから、わかんないかもですけど」
照れ隠しに笑うと、エリシアはクスッと微笑んだ。
「そう見えないよ? でも、努力って大事よね。私もそうだもの」
「確かにそうですね」
二人で静かに笑い合う。
本を手渡すと、彼女は満足げに頷いた。
「本ありがとう。またね」
指先をひらりと振り、優雅に図書館を出ていった。
「おいフィル。今、エリシアさんと何楽しく話してたんだよ」
図書館を出た直後、肩を軽く叩かれた。振り返ると、同じクラスのメットがニヤニヤとした顔で立っている。
「別になんもないよ」
「いやいや、なんもないってのが一番怪しいんだよ。まさか……二人、付きあってたりしないよな?」
「ねーよ」
フィルはメットの頭を軽く小突く。
「ただのクラスメートだっての」
「でもさぁ、エリシアさんっていつもニコニコしていて可愛いよなぁ……」
言った瞬間、メットの耳まで真っ赤になる。
「まあ、たしかに明るくて……可愛い人だよ。けど」
「けど?」
「なんというか……あの明るさの裏に、重いものを抱えてる気がしたんだ。努力してる、って言葉もさ。あれは謙遜っていうよりは必死、って感じだった」
「重いもの? なんだよそれ。大袈裟だな、お前」
メットは笑い飛ばすように言う。
「もしかして変な魔法でもかけられたんじゃね?」
「変な魔法か……」
「でも、ああいうふうに笑う人ほど隠してたりするって言うだろ。まあ俺には関係ないけど。メットの方が興味あるなら、自分で話しかけてみろよ。見た目通りのただの可愛い子じゃないと思うぞ」
「お前ほんっと大袈裟だよ。でも……まあ、たしかにエリシアさんの噂なら聞いたことある」
メットは周りに人がいないか確認し、声をひそめた。さっきまでとは違う、妙に真剣な目つきだ。
「エリシア=セラム。あのセラム古代魔法研究の家系だよ」
「ああ、それは聞いたことある。由緒正しい家なんだろ? だから優秀……」
「違うらしい」
メットの声は低くなる。
「彼女の……魔力の暴走が原因で、家が没落したとか、家族が怪我したとか。詳細は誰も知らない」
フィルの足が止まる。
「魔力の……暴走?」
「そう。だからあんなに魔導書を読んでるんじゃないか? 自分の魔力を制御する方法を探してるんじゃないかって。制御できなくなった過去を抱えてるから、とか」
あの笑顔。その奥にふっと落ちた影。
「……その噂、どこで聞いた」
「どこって、授業の休憩時間とか。みんな小声で話してるよ。有名な話だぜ。まあ噂だから、本当のところはわからないけど」
メットは唇をすぼめ、少しだけ表情を引き締めた。
「でもさ……あんなにずっと笑ってるのが、逆に怖いって言う奴、多いよ」
図書館の静けさを引きずったまま、周囲の空気が冷たく感じる。
その言葉が空気に落ちた瞬間、世界が少しだけ寒くなった気がした。
フィルは返す言葉を見つけられない。
ただの噂だと笑い飛ばせればどれほど楽だったか。
ふと陰りを見せたエリシアの瞳が、胸の奥に重く沈んでくる。
あれが、本物だ。
そう思った。
彼女が本を必死に探していた理由が、今なら分かる気がした。
放課後。彼女はクラスメイトに囲まれ、笑い、軽やかに次の予定へと向かう。完璧な笑顔。
だが、フィルには、その笑顔の輪郭が、わずかに揺らいでいるように見えた。
どこかへ一人で向かうのだろうか?
フィルは、エリシアが向かった方向を追うことにした。
廊下を抜け、人気のない裏庭を通り過ぎ、校舎の隅へとたどり着く。そこで、フィルは立ち止まった。
古びた校舎の裏側には、ほとんど使われていない小さな裏門があった。
そして、その門のすぐ脇にある、生い茂った木々の陰に、誰かが座り込んでいるのを見つけた。
近づくと、それは案の定、エリシアだった。
彼女は、いつも完璧にまとめられているはずの長い髪を乱し、膝を抱えて、地面を見つめていた。その瞳には、いつもの光は一切宿っていない。
顔には、疲労と、抑えきれない悲しみが張り付いていた。
まるで、太陽が地平線の下に沈んでしまったかのように、光を失った姿だった。
彼女は、泣いていた。
声は出ていない。ただ、肩がわずかに震え、服に、大きな水滴が一つ、また一つと落ちていくのが見えた。
フィルは、声をかけるべきか迷った。噂の話を持ち出すのは、あまりにも残酷だ。彼女の裏の顔を暴き立てることになる。
だが、このまま彼女を孤独にさせて立ち去ることも、今のフィルにはできなかった。
フィルは、派手な魔法も、相手を救う力強い言葉も持っていない。
フィルは、声をかけるべきか迷った。
「大丈夫?」と聞けば、彼女は反射的にいつもの笑顔で「大丈夫」と嘘をつくだろう。
噂の真偽を問えば、彼女をさらに傷つけるだけだ。
裏庭に吹く風が冷たさを増す頃、エリシアの震えが止まった。
彼女は深く息を吸い込むと、袖で乱暴に顔を拭い、膝から顔を上げた。
そして、その瞬間、彼女の瞳が、少し離れた木の陰に立つフィルを捉えた。
エリシアの顔から血の気が引いているのが分かった。最も見られたくない素の自分を見られてしまったのかと思ったからだ。
彼女は慌てて、いつもの笑顔の仮面を取り戻そうとする。
「あ……っ、フィルくん? どうしてここに?」
震える声。不自然なほど高いトーン。無理やり作り出した笑顔は、歪んでいた。今にも張り裂けそうだ。
「俺もたまにここに来るんだよね。えっと、隣に座ってもいい?」
そう言い、ゆっくりとエリシアの隣に座る。
フィルは何も言わなかった。
「大丈夫だよ」とか、「気にしなくていい」といった、安易な励ましは一切口にしなかった。そんな言葉では、彼女の抱える重さを軽くすることはできないと知っていたからだ。
ただ隣に座り、彼女の孤独を共有するという、凡人だからこそできる、最も誠実な行為を選んだ。
「……ねぇ、フィルくん。どうして、何も聞かないの?」
消え入りそうな声で、彼女が問いかける。
フィルは膝を抱えたまま、穏やかに答えた。
フィルは、しばらく考えた後、空を見上げて答えた。
「だって、誰にだって一人で座っていたい時はあるでしょう? 俺も、隣に誰かが黙って座ってくれたら、少しだけ楽だなって思うことがあったから」
その言葉に、エリシアは一瞬、目を見開いた。
そして、またぽろぽろと涙をこぼしながら、震える声で話し出した。
「私ね、もう分からなくなっちゃったの。みんなが好きなエリシアは、いつも笑っていて、魔法が上手で、完璧な女の子で。だから、私もそういなきゃって……ずっと頑張ってきたんだけど」
エリシアは自分の手のひらを見つめた。その指先が、わずかに震えている。
「でも、本当の私は、こんなに弱くて、泣き虫で……。みんなの期待に応えようとすればするほど、自分がどんどん空っぽになっていくみたいで、すごく怖いの」
フィルは彼女の方を向き直り、静かに微笑んだ。それは、いつもの照れ隠しの笑いでも、無理な明るさでもない、ただ包み込むような笑みだった。
「エリシアさんは、空っぽなんかじゃないよ。だって、こうして一人で泣くほど、一生懸命に自分の心を守ろうとしてるじゃないか」
地面に置いた自分の小さな手を見つめながら、フィルは続ける。
「エリシアさんの抱えてるものがどれほど重いのか、俺には想像もつかないけど……」
彼は、視線をエリシアの濡れた顔に戻した。
「でもさ、俺は……無理して笑ってるエリシアさんより、今こうして泣いてるエリシアさんの方が、なんだかずっと自然でいいなって思うんだ。俺の隣にいる時くらいは、ただの、そのままでいてよ。俺は、そのほうが……ずっと、話しやすいからさ」
そう言って、フィルは少し照れたように、隣で丸くなっているエリシアに笑いかけた。
その瞬間、エリシアは、心の底から救われたような感覚に襲われた。彼女を縛りつけていた鎖が、音を立てて外れた。
「……っ、うん……っ……」
そして、堰を切ったように、また涙が溢れ出す。だが、先ほどまでの絶望の涙とは違い、そこには微かな解放の光が宿っていた。




