プロローグ
朝、目が覚めて最初にするのは、静まり返った台所で自分の朝ごはんを用意することだ。
お父さんとお母さん、妹が事故でいなくなってから、もう数年。
親戚の家でお世話になっているけれど、みんな忙しそうで、ぼくはなるべく迷惑をかけないように手のかからない良い子でいようと決めていた。
朝ごはんは、いつも簡単に済ませる。
冷蔵庫から出した冷たい牛乳と、トースターで焼いた食パン。そこにマーガリンを丁寧に塗るのが、ぼくの朝のルーティンだ。
時計の針が進む音だけが響く部屋で、少しだけ溶けたマーガリンの味を感じながら、黙々とパンを口に運ぶ。
……いつか、誰かと笑いながら、温かいごはんを食べられる日が来るのかな。
そんな叶いそうにない願いを振り払うように、ぼくはランドセルを手にした。
「いってきます」
誰もいない玄関に小さく挨拶をして、ぼくは学校へ向かう。
学校では、なるべく目立たないように過ごしていた。
たまに、わざとぶつかってくる意地悪な子が「お前、親いないんだろ」なんて言ってくることもある。
言い返したい気持ちをグッと飲み込んで、ぼくはただ笑ってごまかす。
だって、ケンカをして親戚の人に迷惑をかけるわけにはいかないから。
テストの結果はボロボロ。
掃除の時間には、クラスのやんちゃな子がバケツをひっくり返したのを、なぜかぼくのせいにされた。
先生も、ぼくなら怒らないだろうと思っているのか、「次は気をつけるんだぞ」とため息をつくだけ。
……ぼく、なにか悪いことしたかな。
いつもと変わらない通学路を、ぼくはとぼとぼと歩いていた。
「はぁ、今日は最悪な一日だったなぁ……」
テストは全然できなかったし、掃除の時間には友達の失敗をぼくのせいにされた。
ランドセルの中には、返したくない算数のプリントが重くのしかかっている。
手提げ袋の中では、図工で作った少し不恰好な粘土の怪獣が、少しだけ欠けて転がっていた。
今にも雨が降り出しそうな空を見上げて、ぼくは力なく笑った。
「……まあ、こんな日もあるよね」
ふと、遠くの公園から楽しそうな声が聞こえた。
お母さんと手を繋いで笑っている子や、お父さんに肩車されている子。
それを見ないようにして、ぼくはわざと、いつもは通らない細い裏道へと曲がった。
古い街灯がポツン、ポツンと灯り始めた細い道。
誰の姿もなく、風がカラカラと空き缶を転がす音だけが聞こえる。
アスファルトを踏む音を聞きながら、ぼくはゆっくりと歩き続けた。
「静かで、意外といいかも」
嫌なことを少しだけ忘れられた気がした、その時だった。
お腹のあたりに、ドンッとした鈍い衝撃が走った。
びっくりして手を当てると、生暖かいものが指の間からじわっと溢れてきた。
「え……?」
手のひらを見ると、真っ赤に染まっていた。
何が起きたのか分からなくて、後ろを振り向く。
そこに立っていたのは、光る刃物を握った見知らぬ男だった。
薄暗い道の隅で、そのナイフの先から赤いしずくがポタポタと垂れている。
「……っ、……あ……」
叫ぼうとしたけれど、声がうまく出ない。
男は何も言わず、ただぼくのことを見下ろしていた。
やがて、その口元が、気味悪くゆっくりと歪んだ。
「……バイバイ」
その一言だけを残して、男は道の向こうへと消えていった。
冷たい風が吹き抜けて、ぼくの手提げ袋が地面に転がった。
中から粘土の作品が飛び出して、バラバラに壊れて道に散らばった。
それを見て、なぜか涙が止まらなくなった。
どうして……ぼく、死んじゃうの……?
痛いというよりも、わけが分からなくて悲しかった。
どうしてぼくなんだ。
運命のいじわるさに、ただ呆然とするしかなかった。
だれか……だれか助けてよ……。おねがい、一人はいやだよ……
息が苦しくなって、視界がぼやけていく。
街灯の光が、どんどん遠くなっていく。
最後に聞こえたのは、自分が地面に倒れ込む音と、どこかで野良猫が小さく鳴く声だった。
それが、ぼくという子どもの最後だった。




