第1話 黒煙は目覚める
蒸気機関車が歴史の表舞台から姿を消して久しい現代。
しかし日本の片隅には、蒸気の力を信じ、鉄の魂を守り続ける者たちがいた。
株式会社蒸気帝国鉄道――。
かつての国鉄を凌ぐほどの情熱と技術を胸に、消えかけた黒煙の灯を再び現代に甦らせる、〝独立系〟の奇妙な鉄道会社である。
その中心にあるのは、京都。
往年の鉄路を象徴する巨大な扇形機関庫は、最新技術を纏いながらも、失われた蒸気の鼓動をもう一度響かせようと静かに呼吸していた。
そして今――
長い眠りについていた名機、C62 2号機・シロクニが、時代を越えて再び目を覚まそうとしている。
黒煙はただの煙ではない。
それは、走り抜けた者たちの記憶、歓声、誇り、そして…失われた影の嘆きでさえも含んでいる。
人と機関車の運命が再び交わるとき、過去に封じられた“亡霊”もまた姿を現す。
この物語は――
蒸気に魅せられた者たちが、時に誇りを、時に命を懸けて挑む、鉄と魂の叙事詩である。
カン、カン――
金属製の菜箸が、鉄のフライパンに響く音。卵焼きを返すそのリズムは、まるで整備中の機関音のようだった。
「つばめ、鈴音。制服と作業着はもう鞄に入れた?」
キッチンに立つのは、九条静。蒸気帝国鉄道のベテラン整備士であり、九条家の母。
彼女の手元では、弁当の仕上げが丁寧に進んでいた。
「うん、入ってるよー! 工具セットも!」
階段の上から返ってきたのは、次女・鈴音の明るい声。今日の運行に向けての準備が整った証だった。
「つばめは? 緊張してない?」
静の問いかけに、一瞬の沈黙があったが、やがて落ち着いた声が返ってきた。
「……大丈夫。今日の蒸気はきれいに上がる気がする」
長女・つばめ。彼女は今日、C62 2号機の運転士として初めて営業運転に臨む。
静は三つの弁当を並べる。
「つばめは軽め、鈴音は多め。あなたのは、たくあん入りよ、烈さん」
「ありがたい」
新聞を畳んだ九条烈が、椅子から立ち上がる。
彼はこの蒸気帝国鉄道の“総機長”であり、鉄道のすべての運行に責任を持つ男である。
「もうこんな時間か。よし、行くぞ。みんな、車に乗れ!」
「車でしょ? 鈴音、ヘルメット忘れないでねー!」
九条家は、家族全員が蒸気帝国鉄道に関わっている“鉄道一家”だ。
父は運行の責任者、母は整備士、そして娘たちは運転士と機関助手。
その朝、四人の足取りは自然と一つに揃っていた。
車で到着した先は、京都の旧・梅小路機関庫――
今は「帝国中央機関庫」として蘇った、蒸気帝国鉄道の心臓部である。
朝日が、半円状の巨大な扇形機関庫を金色に染めていた。
「おはようございます!」
若手整備士たちの声が飛び交い、白い整備服が行き交う中、つばめと鈴音は制服の襟を正す。
転車台の中心で眠っていたC62 2号機――通称「シロクニ」が、ゆっくりと動き始めた。
ゴウン、ゴウン……
「——まるで心臓の鼓動だな」
烈が呟く。
その声に、整備を終えた静がうなずく。
「息を吹き返したわ、C62。完璧よ」
やがて、運転士台に登ったつばめが敬礼する。
「本日、帝国一号、発車準備完了しました!」
静まり返る整備区画。
烈が腕を組み、静かに言う。
「総員、注目。これより、蒸気帝国鉄道の本格営業が始まる」
鈴音が釜の中を覗き、火床に薪をくべる。
つばめはブレーキを確認し、ゆっくりと前方を見つめる。
黒煙が昇る。蒸気が唸る。
C62 2号機が、鉄の軌道の上で目を覚ました。
「帝国一号、出発進行!」
汽笛が空を裂き、初運行の幕が切って落とされた。
その音は、京都の空に響き渡る祝砲であり——
遠く、まだ目覚めぬ“亡霊”への、目覚ましの音でもあった。
ーー蒸気に満ちた夜のトンネルの奥で、
それは静かに息をひそめていた。
京都を発つ観光列車《帝国一号》。
C62 2号機・シロクニの力強いドラフトが、
いつしか奇妙な“ざわめき”に飲み込まれてゆく。
まるで、過去に散った機関車たちの魂が
甦ったかのように……。
暗闇の中に現れた謎の女、朱鷺野鏡花。
彼女の瞳に宿るのは、深い恨みと、
どこか哀しげな微笑みだった。
次回――
「亡霊の排気」
蒸気が泣くのか。
人が泣くのか。
列車は、誰も知らぬ影の世界へ滑り込む。




