第2章 3
本当にどうしようもない時って、涙も出せないのね。泣くと今まで見ないふりをして積み重ねてきた不安や焦り、恐怖が一気に崩れて押し寄せてきちゃいそうで。
「頑張れ、わたし」声に出す。自分を鼓舞できるのは自分だけ。負けないで、ノール。きっと平気。きっとこんなの何でもない。
一歩、また足を踏み出した。闇がさらに濃くなった気がした。また一歩。しんと静まりかえっている。三歩。ランプの火が揺らめいた。
生暖かい風がうなじに吹きつけた。
「ひゃ」
気持ち悪い。しかも耳元でハッハッと荒い息の音がする。後ろを見ようと首をひねった時、
「ちょいと、そこのお嬢さん」
もぐもぐした低い声。思わず前に飛んだ。
そこにいたのは、わたしの胸までの大きさがある犬だった。待って、わんこが喋ってる? そんなことある?
「どこへ行こうというんだい?」
驚いたことに、わたしは普通に返事をしていた。
「分からないの」
「分からない? なら、元いた場所に戻ればいい」
「それは嫌」
犬は音もなく近づいてきた。思えば、何故こんなに近くにくるまで気づけなかったんだろう。
「すると、逃げ出したい訳だ」
「そうかも」
「なら、オレと同じだ。ここから出たい」
「犬なのに?」
「犬であってもこき使われたら逃げたくもなるさ。ここの主は無茶ばかりさせやがる。……怪物犬を二十頭だなんて」
「え? 何のこと?」
「さてね。それよりもお嬢さんにお願いがあるんだが」
なんだろう。耳を傾ける。
「オレの首輪を外してくれ」
灯りをかざすと、確かに銀色の鎖が犬の首に巻き付いていた。わたしが黙っていると、犬は必死に訴えた。
「こいつが痛くて、何もできないんだ。ここから出ることも、術を解くことも」
「術?」
「あ、何でもない。な、簡単なことだろ? あんたには何も悪いことないだろ? 後で背中に乗せてやってもいいぜ」
「でも、犬に乗ったことなんてないもの……」
「弱っちいこと言うなよ、誰でも乗れる。頼むよ、本当に痛いんだ。ほら」
犬は頭をもたげ、首筋を見せてくれた。光を反射してきらめく銀の輪に沿って、ぐるりと赤い痕がついていた。その部分だけ毛が抜けて、とても痛そう。
こんなのを見せられて、断ることなんて出来ない。
「いいわ」
鎖はあっさり取れた。犬は後ろ足で立ち上がり、跳ね回って喜びを表現した。
「ありがとう。おかげで、ここを抜け出せる!」
思わず尋ねた。
「どうやって?」
「一緒に来るか?」
「ええ!」
「じゃあ、そのランプを下に置きな。それからオレに乗るんだ」
言われた通りにするのには少し手間取った。動物に乗るコツなんて知らなかったしね。
「準備はいいか? おっと、毛は引っこ抜くなよ。首にしがみつけ。それじゃ」
犬は、ランプを前足で蹴り倒した。ガラスが割れる激しい音がして火が消えた。
「ちょっと!」
「何か?」
犬は平然としている。なにか? じゃない!
「なんてことを……」
「オレは諸悪の根源を絶っただけ」
どういうこと? 今や視界は真っ暗だ。犬の首にすがりついた。「この忌々しいランプがある限り、ここからは出られなかった、そういうこと。ほれ」
わたしは瞬きした。静かだった世界に、虫の声や水車が回る規則正しい音が広がっていく。ひんやりと涼しい夜風が、わたしの髪をくすぐった。
そこは暗闇でも、外の世界だった。わたしはもう閉じ込められても、迷ってもいない。
「どうして……?」
「そのうち会う魔術師どもに聞くがいい。出発!」
一声高く長く吠え、犬はわたしを乗せて駆けだした。
外は風がバシバシ顔に当たるから、目をつむった。しっかりつかんでいないと、振り落とされてしまいそう。
でも、気持ちいい! 両手を広げて風を受けたい。 思いっきり大声を出してみたい!
「あなた、名前は……?」
犬が怒鳴り返す。
「クレー!」
クレーが何者なのか、今はどうでもいい。
「どこに行くの?」
「アマンドラ!」
知ってる街だ。オルバから一日かかるくらい遠い。(もっとも、他の町はもっと遠い)人がものすごく沢山いて、贅沢な料理が山盛り用意されていて、何もかもキラキラしたところなんだろうな。
「おっとまずい! 我々は追われているようだ」
クレーが吠えた。振り返れるほどの余裕はないけど、何人分もの馬のいななきや足音が聞こえた。
「一体誰に?」
「さあね! ひょっとすると嬢ちゃん狙いかもしれないぜ」
「まさか。わたしの追っかけなんているはずないわ」
「鏡を見てみろよ」
クレーは速度を上げた。振り落とされないよう必死だ。舌を噛みそう。
「ねえ、それってどういう意味?」
クレーは答えなかった。何となく馬鹿にされてる気がした。これ以上突っ込むのはやめておこう。
追っ手との距離は縮まりつつあるみたい。もう怒声や金属の擦れ合う音がはっきり聞こえる。本当に盗賊集団かもしれない。わたしもクレーも売られちゃう?
「ねえ、もっと急げない?」
「馬鹿言うなよ、これで全力疾走だ。落ちるぞ」
「わたしは大丈夫」
「やめとけ。落ちたら死ぬ」
わたしは一層きつくクレーにしがみつく。後ろから見たらなかなか無様だと思う。街にいるお金持ちの姫様ならこんな乗り方は絶対にしないだろうな。きっと選ぶのは純白か栗毛の馬ばかりで、黄金の鞍とか鈴のついた手綱をつけて悠然と乗ってるんだ。
「嬢ちゃん。着いたぜ」
「えっ?」
目を開けると、夜の闇の中でとてつもなく巨大な門がわたしたちを見下ろしていた。クレーが足取りを緩め、門の手前で止まった。弾みで体が小さく揺れた。
ここが、アマンドラ!
何百ものランプに照らし出された門の奥の景色は、まるで虹のようで、オルバより遙かに色が多い。あの中にずっといたら目がちかちかしてしまいそう。
「でも。きれい……」
「あそこに行きたきゃ、オレから降りろ」
「どうして?」
「オレは中には入らない」
「どうして?」
犬は溜息をついた。
「こんな狼が、のこのこと街の中に入って行ったらどうなると思う?」
大騒ぎになるわね。
「そういうことだ」
「じゃあどこに行くの?」
「仲間の元へ。皆待ってる」
これ以上引き留めることはできなそうだった。
「怖いか?」
「うん、ちょっと」お別れの前に、クレーの喉をわしわしと撫でた。クレーは尻尾をぶんぶん振る。
「助けてくれる奴は必ずいるさ」
「そうかしら?」
「ああ。元気でな」
最後に一発、破裂するような吠え声を残してクレーは消えた。わたしはしばらくその場を動けなかった。また独りぼっちになっちゃった。が、感傷に浸れるのも束の間のこと。重たい現実がすぐそこに迫っている。
「逃げなくちゃ!」
わたしは門を走ってくぐった。