第2章 脱出
わたしの物語の続きは、やっぱり目が覚めるところから始まるみたい。ずいぶん長く眠った(という体感だけど)後で、今度は実に緩やかな目覚めだった。パターン①の団らんが終わって毛布に潜り込んだところでパチリ。意識が切り替わった。前触れも、夜明けを知らせる馬鹿うるさい鬨の声もない。まるで今起きている世界が夢であるかのよう。
ところでわたしは、相変わらず、あかあかとランプ輝く、昼も夜もない部屋の中にいる。眠る前に思った、寝てる内に家に戻ってたらいいな……いや、また働きに行くのはいやだ……そんな逡巡は一瞬で砕かれた。嬉しいんだかがっかりしたんだか自分でもよく分からない。
だけど退屈ね。こうもかわりばえがしないと。
さてこれからどう時間を潰そうかしらと、腕を組んだその時だ。
どこからともなく、小さなくしゃみの音が聞こえた。
全身が総毛立つ。決して恐怖だけじゃない。誰かいる! わたし以外の誰かが、現実に。当たり前のことなのに、すごく嬉しい。一体誰。 知ってる人? それとも……?
声を上げて相手を呼ぼうと思った。けどその前に、小部屋の扉を外からいじる音がした。いつのまにか四角四面の白壁に鍵穴がついていたの。前までは絶対に何もなかった、滑らかな壁に。まるで魔法みたいに。
何となく不気味だ。どうしてノックもしないんだろう。わたしが中にいることを知らないのかしら?
とにかく、黙っていても誰かには必ず会える。わたしは待った。たっぷり手間をかけて扉はようやく内側に開いた。鈍い音が響く。隙間から覗く向こう側は真っ暗だ。
入ってきたのは、背の高い青年だった。
頬が少しこけた、でも人好きのする顔だ。枯れ草のような柔らかい色の髪。形の良い茶色の瞳。みどり色のランプの明かりに照らされて顔色が恐ろしく悪く見えた。何かイヤなことがあってすっかり参っているのか、食べ物が口に合わなかったかのどっちかだと思う。
わたしは青年を真正面から見つめた。けれど彼の方はちらりともわたしの顔を見ない。見ないふりかもしれない。
見覚えは……ない。わりにかっこいいから、近所を歩いていたら女の子がさぞ大騒ぎするだろう。
そんなことを考えていたら、青年がぽつんと言葉を落とした。
「寝てるようだな」
いやいや、がっつり起きてますけど。思い切って話しかける。
「あの、あなたは誰ですか?」
しかし青年は当然のように無視した。それどころか、ずかずかと近づいてきて、とっさによけたわたしには目もくれずにランプを取った。ひどい、あんまりだ。まるでいない者みたいに。
村の人たちを思い出す。用がある時だけ呼びつけて、それ以外は空気みたいに知らんぷりする奥さんたち。侮蔑の目しか向けてこない娘。あの人たちと同じだ。
「可哀想に」青年が言った。どきっとした。
「わたしのことを言ってるの?」
「すっかり魔法をかけられて。本当の自分を忘れてしまっているね」
「ねえ?」
「だけど……仕方がないんだ。君もきっと分かってくれるはず」
わたしの方を一切見ないで、青年はしゃべり続ける……。
「君をここまで連れてくるのに、どれだけ時間がかかっただろう? その間、ずいぶん辛い思いもしたんだよ。家族や友と縁を切らなきゃならなかった。愛する人を裏切って、絶望の底に突き落とした。世にもおぞましい化け物のねぐらに手をつっこみさえした……」
「何を言ってるの?」
この人、おかしい。まともな頭じゃない。誰もいない寝具に向かって自分の不幸を訴えている!
「ねえ、返事をしてくれる?」
「君はずいぶんぼくにわがままを言ったね。不愉快だったけど君のために耐えたのさ。来たる時のために」
「あなたなんて知らないわ」
「良い夢を見てるんだろうね。ずっとそのまま目覚めなければいい。君もそう思うだろうよ!」
ずっとそのまま、目覚めなければいい。
恐ろしさに頭がしびれたようになった。
何よりも戦慄したのは、青年の冷たく投げ出すような口調と声音だった。今ここに一人、わたしをひどく嫌って……憎んでさえいる人がいる。その事実だけで精気が抜けていく。知らない人なのに。
「わたし、あなたに何もしていないのに」
すると、青年が振り向いた。聞こえたのかしら。けれど、すぐに別の理由があるのだと分かる。
扉の向こうから、女の人のすすり泣きが聞こえてくる。青年は素早く振り向いた。そして、やっぱりわたしに見向きもせず、飛び出していった。