第6章 11
そして今、わたしは異界に立ち尽くしている。
見たことのない__想像もできなかった景色だ。真夏の熱気がわたしを包んでいる。暑い、と思った瞬間に肌寒いほどの突風が吹きつけた。鼻の中はどこか懐かしいような、得体の知れない甘い匂いでいっぱい。目に映るものの全てが不思議だ。見たこともない汁気たっぷりの実がなった木々や、音もなく飛び交う青い羽虫の群れ。アム・ダリヤのように豊かな流れの川には火が浮かんでいた。足元の砂は銀色で、一つ一つがくしゃりと輝きを放っている。一粒拾い上げると霧になって消え失せた。見上げると空はなんと紫だ。数え切れないほどの星がゆったりと回っていた。人間らしきものはいない。魔物だって。
「オグマさん! クレー! ハルア?」
誰の返事もない。ここはどこだっていうんだろう。夢の中? 一体誰の?
ざわざわと木の葉さんざめく音がした。空色の木々がひとりでに揺れ、涼しい風を送ってくれる。そのせいで白いものが地面からいくつも舞い上がった。そのうち一つを捕まえる。真っ白な羽だ。すごく小さい。鳥がいるのかしら。鳴き声などは聞こえないけど。自分以外の誰かがいるのならどんなにか嬉しいだろう……。
その時、晴れやかな歌声が上から落ちた。見上げると、星の一つが歌いながらのんびりと空を舞っている。それが呼び水となって他の星たちも歌い出す。美しいのに、何故か恐ろしい。
「オグマさん……」
「遅くなった、すまない」
オグマはいつの間にか隣に立っていた。みどり色の火が灯ったランプを片手に提げて。
「ここはどこ?」
「リートの夢の中でもあるし、君の見ている夢でもある」
「どういうこと? ここは夢なの?」
「そうだ」
落ち着き払った様子に腹がたってきた。
「どうしてすぐに来てくれなかったの?」
「少し調整しなければならなくてね」
「もう!」
わたしはオグマさんの腕をつかんで乱暴に振った。「どれだけ心細かったか、分かる?」
「すまない。歩きながら話をしよう」
わたしは自然にオグマの隣に並んだ。
「あの男たちにまた遭遇するのはどうしても避けたかった。逃げるにしても立ち向かうにしても手間と危険が伴う。だから最も簡単な手段をとることにした」
「それがこれ?」
魔術師が言う「カンタン」はよく分からない。
「ハルアに頼んで、特別にルートとリートの夢をつなげてもらった。この先を行けば、魔法の通路を使わずにリートに会える。簡単だろう?」
歩き出した道程は長い。だけど、水の球が飛んできては霧に変わる様子や星の踊りやらを見ているとちっとも退屈はしない。
「これ、リート君の夢の中? リート君はいつもこんな素敵な夢を見ているの?」
「ああ。これも修行の一環なんでな」
「修行? 魔法の?」
「……の、ようなものだ。きっとどこの魔術師もやっていないだろう」少し得意げな調子でオグマは言った。
「リートは翼ある魔物の血を引いている。しかしリート自身は翼を持てなかった。だから後天的に翼を持たせることにした。この夢がその手段だ。ここは……一体どこだと思う? リートの頭の中? その通り。夢幻の世界? ある意味では。そしてもう一つ、ここは星が生まれ育つ魔法の大地でもある。ご覧、歌っているのは星の子だ。空色の若木はやがて星の住む家に成長する」
「よく……分からないわ」
「だろうな。だからこうして、君には話せるんだ。魔術師どもにもらすことはないだろうから。こんな聖域は誰にも知られないくらいがちょうど良い」
「でも、どうやってリート君は……」
「翼を育てるか? 良い質問だ。三つの段階がある。一つ目、言葉で表現できるほどくっきりと夢の内容を胸に刻印する。二つ目、とにかくここで動き回る。三つ目、自分に翼があることを信じ込む。ここで飛び回ってもいい。とにかくこの空間をものにすることが、夢を現実にする何よりのやり方なんだよ」
生きた魔術師がまだ誰も試していないことだ。オグマはそう付け加えた。
「熱心ね」これだけしかいえなかった。オグマはさらに興奮して話し出す。
「リートには、魔物の血を引いていることを負い目にしてほしくない。大抵の人間は魔物やその子どもを忌み嫌う……だが、そんな悪意をはねのけるほどの実力をあの子に与えたいんだ。世界を恨まずに済むように。そして幸せに生きられるように。__間違っていると思うかね?」
「……いいえ。ただびっくりしただけ」
「そうか。ならよかった」
わたしは思う。こんな小娘に同意を求めるくらい、オグマは実は不安なんじゃないかって。魔法のことはまだよく分からないけれど、これは魔術師にとって恐ろしいタブーか、恥ずべきことなんじゃないかしらって。でもやっぱり、わたしは魔術師じゃないから。オグマの主張を拝聴するだけ。それでいいんだ。
不意にオグマが立ち止まった。大きな鳥が悠然と飛んでくる。……いや、あれは鳥じゃない。
「リート!」
オグマが口に手を添えて叫んだ。少年はすいっと着地する。その背中に生えていたのは銀色に鈍く輝く大きな翼だった。ついみとれてしまう。
「師匠!」
オグマに抱きつくリートの翼がわたしにぶつかった。
「あ、ごめんなさい!」
痛かったけどね、あまりにも嬉しそうだから許してやるしかない。オグマは翼ごとリートを抱き締め、そっと目を閉じて息を吐いた。
「怪我はないか?」
リートはぶるっと震えた。焦げ臭い。よく見るとリートの肌に火ぶくれがあった。
「あの……平気です。ほんとに」
嘘だ。一瞬でオグマの顔が鬼のように引きつった。思わずリートが離れたくらい。
「誰がやった?」
リートは少しためらい、それから口を開いた。
「ガイール。たしかそう言ってました」
さっき耳にした名前だ。
「そいつ一人か?」
「ううん……あっ」
リートが口を押さえる。「そういえば……モリたちが追っかけてきて」
とっさにわたしは辺りを見回した。
「リート……ここには誰も侵入できない。許された人間以外は」
「でも、本当なんです」
リートは訴えた。「師匠をガイールの前に引きずり出してやるって、ぼくをその囮にするんだって」
「あの親子が言っていたのか?」
オグマの声は優しい。だけど恐ろしくて顔を見ることができなかった。
「リート、お前はハルア……大地の子たちのところへお行き。皆お前のことを待っているから。この道を真っ直ぐ行けばオルバから抜け出せる。後で会おう」
「後で、ですか」
リートは少し顔を曇らせた。
「怖がるな。必ずお前を迎えに行く。大地の子の元で大人しくしているんだ」
リートはまだ納得いかないようだったけど、ついにうなずいた。オグマが持っていたランプをリートに渡す。
「夢を終わらせるやり方は覚えているな?」
リートはまたこっくりして、走っていった。




