縮まった距離
思わぬシスルの反論にグルナード同様、呆気にとられていた元部下だったが、シスルの可愛らしい顔を覗き込むと下卑た笑みを浮かべた。
「何だ? グルナードのかわりにお嬢ちゃんが恵んでくれんのか? アンタなんだろ? 王太子を唆した男爵令嬢ってのは。いつも連れてる女とはだいぶ毛色が違うから一目で解ったぜぇ?」
シスルの身体を上から下まで舐めるように見た男が嘲笑する。
「なんなら王太子を篭絡したその身体で慰めてくれてもいいんだぜ? 幼児体形でも穴さえあるなら構わねぇからな」
「バカにしないで! 貴方みたいに下品な男なんて死んでもお断りよ! 人にたかることしか出来ないハゲタカみたい!」
暗に元部下の薄い頭を揶揄しながらシスルが気丈に言い返すと、男の表情が瞬時に歪んだ。
「このっ! 阿婆擦れのくせに!」
そう言うなりシスルの空色の髪を掴もうとした男だったが、伸ばした手はグルナードによって払いのけられていた。
「俺の妻に手をあげようとしたこと、死んで後悔するんだな」
15年前の戦争で蛮族を根絶やしにした英雄を彷彿とさせるグルナードの冷たい声音に、元部下の男だけでなく騒ぎを遠巻きに見ていた民衆の背筋にも冷たい汗が伝う。
「な、なんだよ。そんなに怒らなくてもいいだろ? な? 冗談だって」
「俺は冗談が嫌いだ。冗談で人は殺せないからな」
射殺すような視線を向けられ男が慌てて弁解するが、グルナードの怒りは収まらない。
「ひっ!」
腰に下げた帯剣へ手をかけたグルナードを、恐怖で悲鳴をあげた男と周囲の野次馬達が固唾を飲んで見守る。
今にも男を斬って捨てそうなグルナードを止めたのはシスルであった。
「ダメです! 英雄であるグルナード将軍が往来で人を殺めては輝かしい経歴に傷がつきます!」
「こいつも言ってただろ? 俺は15年前の戦争で大勢の蛮族を殺した。今更一人二人殺すことなんてわけもない」
グルナードは自嘲するように吐き出すが、シスルは首を横に振り懇願する。
「それでもダメです! 今は戦争中ではありません!」
「だが先に手をだそうとしたのはこいつの方だ!」
「私は平気です! それよりもグルナード将軍が捕まってしまう方が嫌です」
必死に説得するシスルにグルナードも折れ、忌々しそうに息を吐くと漸く帯剣から手を離す。
そのことに安堵した周囲の人々から、窮地を脱した元部下の男へ厳しい非難の声があがった。
「英雄に金を無心するなんて罰当たりめ!」
「しかも奥方にまで手を出そうとしたんじゃ、殺されても文句は言えないよ!」
「汚らしい暴言ばかり吐きやがって、不敬罪でひっ捕らえてもらえばいいんだ!」
逃げられないようにグルナードが英雄であることを自ら広めた男は、今度はそのせいで自分が不利な状況に追い込まれている。
周囲に責められ這う這うの体で逃げ去る元部下を、警吏にでも突きだすつもりなのか数名が追いすがってゆくのを遠目に見ながら、グルナードがシスルへ頭を下げた。
「シスル、変な騒ぎに巻き込んで済まなかった」
「え? そんな! グルナード将軍が謝る必要なんて全然ありません!」
突然の謝罪に慌ててフルフルと首を横に振ったシスルだったが、何故かその顔は嬉しそうである。
「何故、笑う?」
シスルの笑顔は可愛いが、あんな目にあったのに何故笑っているのか意味が解らずグルナードが怪訝そうに訊ねると、シスルは頬をほんのり染めた。
「だって私、嬉しかったのです! グルナード将軍が私を俺の妻って言ってくださったから」
「……シスル!」
屈託なく笑ったシスルに愛しさが溢れて堪らなくなったグルナードは、妻を横抱きにすると猛然と歩き出す。
グルナードの中で王命や政略、それに王太子のことなどどうでもよくなっていた。それよりも健気なシスルに応えたい、それだけがグルナードの足を動かしていた。
往来の真ん中で横抱きにされ恥ずかしがるシスルと、そんな妻を抱えて微笑む英雄の姿に集まっていた群衆が色めき立つが、グルナードはお構いなしにそのまま屋敷へ戻ると勢いのままシスルを抱いた。
シスルは処女であった。
破瓜の痛みに涙するシスルとシーツについた鮮血に、てっきり王太子と関係があると思い込んでいたグルナードは呆然とする。
「初めてだったのか……何故言わなかった?」
処女だと解っていたらもっと優しくしたはずだった。感情の昂りのまま抱いてしまったことに後悔と困惑が渦巻き、つい責めるような口調になってしまったグルナードに、シスルは零れる涙を拭いながら困ったように微笑んだ。
「……言っても信じてくださらないと思っていたので……」
「……! すまない、すまない、シスル」
シスルの言葉にグルナードは謝罪することしかできない。
だがどんなに謝ったところで、噂に惑わされてシスルを蔑ろにしてきたことを反省しても過去は変えられない。
けれども謝ることしか出来なくて、眠りにつくまで謝罪を繰り返したグルナードは、この日を境にシスルを溺愛し始めた。
恋人へ手切れ金を渡して(渡すように言い張ったのはシスルだが)きっぱりと別れると、シスルから片時も離れなくなった。
街に買い物へ行く時も当然二人一緒で、手を繋ぎながら時折シスルの空色の髪を撫で、瑠璃色の瞳を見つめて愛を囁く英雄の姿を、街の人々は胸やけがしそうだと揶揄いながらも幸せそうに笑い合う二人を温かく見守った。
市場での一件も相まって、王太子の不祥事を隠すための政略結婚だと噂されていた二人の仲睦まじさはあっと言う間に王都へ広がり、例の婚約破棄騒動についても非はシスルになかったのではないかという風潮になっていったのだった。




