市場での出来事
懐中時計を壊してから数日が経った頃、いつものようにフラリと街へ出たグルナードだったが、恋人と逢瀬をする気にはなれず、そうかと言って賭博場や娼館へ行く金もないので、ブラブラと市場の通りを歩いていた。
あんな酷いことをしてもシスルの態度は変わらなかったが、グルナードの方は以前よりも彼女へ視線を向ける回数が増えていた。
「俺もヤキが回ったもんだ」
思わず舌打ちして視線を上げると、往来の人々の合間から見慣れた空色の髪が見える。
「シスル?」
呟いた名前は距離があるため当然彼女には届かず、グルナードはそのことに軽く苛立ちながらもその髪に吸い寄せられるように近づいていった。
買い物に来ていたらしいシスルはグルナードに気が付かないまま、八百屋の亭主と親し気に話している。
その姿をみて胸にモヤっとしたものが広がって、気付けばシスルの腕を掴んでいた。
「シスル」
「え? グルナード将軍? どうしてこんなところへ?」
「別に。たまたま通りがかっただけだ」
いきなり腕を掴まれ驚いたように振り返ったシスルだったが、相手がグルナードだと解ると相好を崩す。
そのことに少しだけ気分が良くなるが、ついいつもの癖で冷たい言葉が出てきてしまったグルナードにシスルは眉尻を下げた。
「そうですか。では、私はまだ買い物があるので、ここで失礼しますね」
シスルにしてみれば、たまたま外出先で見かけたグルナードが気紛れに声を掛けてきただけだと思ったのだろう、彼の邪魔をしないように早々に立ち去ろうとした妻の腕を、しかしグルナードは離さなかった。
「俺も付き合おう。荷物位なら持ってやってもいい」
「え?」
「何だ、不服か?」
「いいえ……いいえ! 不服だなんて滅相もありませんわ!」
瑠璃色の瞳をパチパチと瞬かせた後で、嬉しそうに破顔するシスルにグルナードの機嫌が一気に上がる。
今しがたシスルが購入したばかりの野菜が入った鞄を受け取ると肩に担ぎ、そのまま片手を差し出した。
「? グルナード将軍?」
「その将軍呼びも悪い気はしないが、いい加減やめないか? それに……」
キョトンとするシスルの手を強引に繋ぎグルナードはニヤリと笑う。
「貴族の常識では男が女に片手を差し出したら、エスコートするって合図なんだろ?」
シスルの手を引き歩き出したグルナードがチラリと視線を向けると、隣を歩くシスルは幸せそうに満面の笑みを浮かべている。
そのことが何だかとても嬉しくて、グルナードもつい笑みを浮かべてしまいそうになった時、後方から自分を呼ぶ声に一気に真顔に戻った。
「よぉ、グルナードじゃねぇか」
掛けられた声にグルナードは無視を決め込む。
声を掛けてきた男ならば良く知ってはいる。けれどシスルに紹介したくはなかった。
雑踏に紛れて気が付かなかったことにすればいいと考え、グルナードは歩を進める。
しかしグルナードに無視されたと思った男は早足で追いつくと、やや強引に進路を塞いできた。
「何だよ、貴族になったからって元部下を無視すんなよ。英雄グルナード将軍閣下様よぉ」
逃げられないようにするためなのか周囲に聞こえるようにわざと大声で名前を呼ばれ、グルナードの眉間に皺が寄る。
数年前に賭博場で再会した元部下のこの男は、15年前の戦争の終戦間際に利き腕を負傷し退役していた。
ちなみに元部下が負傷したのは戦勝に乗じて略奪した結果市民の抵抗にあったからで、グルナードとは全く関係ない。
だが自分だけ貴族になった負い目と、ほんの僅かな同情心から、賭博場で再開した折に小金を渡すと、それ以来会う度に無心して来るようになって辟易していたのである。
「ちっ!」
小さく舌打ちをしてグルナードが男から隠すようにシスルを後ろへ庇うと、元部下は面白いものでも見つけたかのように口角を上げた。
「そういやお前、再婚したんだって? 相手は王太子殿下をこました美少女で成金男爵の娘なんだろ? ほんと、お前は運がいいよな? なあ、金、都合してくれよ。昔の誼だろ? 戦争以外役立たずの英雄のくせに、騎士爵もらって軍人恩給が一生出る奴はいいよな。平民のままだった俺は、戦争バブルが弾けて不興になったとかいう理由で支給が5年で打ち切られたっていうのによ。蛮族どもをたくさん殺して貴族になれるんなら、俺もお前みたいにじゃんじゃん殺しておくんだったぜ」
ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら勝手なことを言い募る元部下に、グルナードは拳を握りしめる。
実際、軍人なんてものは戦争が終わってしまえば活躍する機会はない。
15年前の隣国との戦争で領土は得たがその土地は戦闘により焦土と化してしまい、あてにしていた鉱物も貪るように掘りつくした結果すぐに枯渇した。
戦勝で一瞬だけ潤ったバブル景気は一度弾けるとみるみるうちに下降の一途を辿ってゆき、この国の経済はずっと低迷している。
グルナードは蛮族と呼ばれた隣国の兵士を多数弑して将軍となり後に英雄と称されたため、騎士爵を得られ少ないながらも恩給を継続支給されているが、平民のままだった部下達は不景気の煽りをまともに食らい、軍を辞めた者は日雇い仕事で日々を食い繋いでいる状況であった。
英雄になった者とそうでなかった者の違いだが、人を殺して英雄になった話をされるのは居心地がいいものではない。
ましてやグルナードを純粋に英雄だと慕ってくれるシスルの前でしてほしくなかったとグルナードは元部下を睨みつけるが、男は昔馴染みの遠慮のなさで揶揄うように言い放った。
「なぁ、大量殺戮者の英雄様」
流石に看過できない暴言にグルナードが怒りのまま元部下を突飛ばそうとしたのと、叫ぶような反論の声が響いたのは同時であった。
「グルナード将軍に、酷いことを言わないで!」
驚いたグルナードが唖然としている間に後ろから出てきたシスルが、初めて見るような険しい表情で元部下との距離を詰める。
しかし軍人であったいかつい元部下に相対するのはやはり怖いらしく、威勢よく言い返してはみたもののその肩は小さく震えていた。




