始まった結婚生活
王太子を誑かした位だからどんな腹黒い女かと思っていたシスルは、結婚初日に暴言を吐かれたにも関わらず、翌朝から甲斐甲斐しく家事を熟していた。
「朝食が出来ております。恋人の方の分もご用意いたしましたので、よければお召し上がりください」
昼近くまで寝過ごしたグルナードが食堂へ行くと、にこやかにそう言ったシスルは手早く料理を運んできて、自分は給仕に徹するべく壁際へ佇む。
最初は不審がり料理に手をつけようとしなかったグルナードも、数日同じことが繰り返されると慣れてしまい、ブランチもディナーもシスルに供されるまま食べることが普通になっていった。
ブラックサレナという家は騎士爵を受けた者に授けられる一代限りのもので、グルナードは元平民である。
昔から腕っぷしだけは強かったので兵士となり隣国との戦争で活躍したため英雄と呼ばれ、騎士爵を与えられたにすぎない。
それに騎士爵とはいっても国全体が不況に喘いでいるこの時代には雀の涙ほどの手当てしか貰えず、軍人恩給も年々減額されていた。
それでも過去に英雄とまで称えられた自分が下手な仕事に就くのは憚られたし、再び軍に戻っても退役してから随分経つため動かない身体を晒すのはプライドが許せず、ブラックサレナ家の内情は火の車になっている。
使用人の賃金も払えずシスルが嫁いでくる前に最後の使用人が出て行ってしまったため、ここのところあまり美味しいとはいえない出来合いの品を食べていた恋人は、シスルの作る美味しい料理に大層満足していた。
「美味しいわ」
「まぁ、ありがとうございます」
まるで使用人に接するように恋人が言うのを、シスルは嬉しそうに微笑んで礼を言う。
対外的にはこの家の女主人はシスルだというのに、なんともちぐはぐなやり取りにグルナードの方が面食らっていた。
「お前は、それで平気なのか?」
恋人が帰ってから呆れたように問いかければ、シスルからは屈託のない返事がかえってくる。
「以前にもお伝えしましたが、私は英雄グルナード将軍の妻になることが夢でしたから」
ニコニコしながら、商人から成り上がった男爵家の娘のため家事は得意なのだと言って、シスルがテキパキと食事の後片付けを終え慌ただしく部屋を後にするのを見送って、残されたグルナードは何だか複雑な気持ちになってしまった。
シスルの一日は忙しい。
使用人がいないせいで食事の支度や掃除に洗濯、はては食材や日用品の買い物にまで自分で行っている。それでもブラックサレナ家は貧しかった。
シスルが作った食事を食べるようになってから、グルナードは一応僅かばかりの生活費を渡してはいるが、それでは足りないだろうことは薄々気が付いていた。
たぶん不足分はシスルが実家から持参した自分の所持金を充てているのだろうと予測している。
裕福だというシスルの実家であるクローバー男爵家からもっと援助をもらえば使用人を雇うことも可能だろうが、それを自分から言いだすのは英雄の沽券に関わり面白くなかった。
そんなある日、自分の懐中時計が新しくなっていることに気付いたグルナードはシスルを問い詰める。
「この時計は? まさか買ったのか?」
無駄な物を買いやがってという皮肉が表情に出ていたのだろう、グルナードの顔を見たシスルは一瞬だけポカンとした表情になった後、いつものようにニコリと微笑んだ。
「あ、ご安心ください! 実家から持参したお小遣いで購入しましたから! グルナード将軍の時計の鎖が傷んでいたようでしたので、ついでに時計も新調なさったらどうかと思いまして」
シスルにしたら気を利かせたつもりだったのだろう。
どこか得意げに答えた彼女をグルナードは忌々し気に睨みつけた。
「ほう、それは暗に俺の甲斐性がないと揶揄しているのか? それに俺は前の時計が気に入っているんでね」
懐中時計を床に落とし、留めとばかりにグシャリと踏みつぶす。
矜持だけは無駄に高いグルナードが施しを受けたような気がして気分が悪くなったのは本当であるし、こうすることでシスルの本性が見えるかもしれないと考えたのだ。
(王太子を誑かした女狐だから、きっと激高するだろう。それで離婚を言いだしたら慰謝料ふんだくって別れてやる)
そう思いながらグルナードが観察する中、シスルは潰され針が曲がってしまった時計を拾い上げると頭を下げた。
「ご不快にさせてしまい申し訳ありませんでした」
今にも泣きそうな顔で消え入るような謝罪をしたシスルに、グルナードの良心が軋む。
いくらシスルのことを厭っているとはいえ自分の妻になった彼女に、これは流石にやり過ぎたし、新しい時計がもったいなかったかと逡巡していると、顔をあげたシスルが涙を堪えながらニコっと笑った。
「以前の時計は壊れてなかったのですから、鎖だけを新しいものに変えたら良かったですね! 私ったら気が利かないんだから」
泣きそうな位に傷ついたはずなのに斜め上の反省をして、空色の髪をコツンっと叩いたシスルは、涙を誤魔化すためかパタパタと走り去って行った。
その様子を呆然として見送って、グルナードは何ともいえない気持ちになる。
何故か痛みだした胸を押さえて、そういえばとグルナードは自分の着ている折り目のない服を見下ろした。
使用人が減っていく間にヨレヨレになっていったシャツは、今では全てアイロンがかけられている。
周囲を見れば埃っぽかった室内は見違えるように綺麗に整えられており、窓もドアノブもピカピカだ。
そのことに今更ながらに気が付いて、この家に嫁いできてから数ヶ月、シスルがとにかく献身的に尽くしてくれていることをグルナードは思い返した。
「行ってらっしゃいませ」
恋人とデートへ向かうグルナードに嫌な顔一つせず、外出するときは門の外まで見送りをして、にこやかに送り出す。
「おかえりなさいませ」
帰ってくれば腕に絡まる恋人がいても、優しく微笑み労うように迎えてくれる。
「お庭のクロユリが綺麗ですわよ。お茶とお菓子をご用意いたしますので、よろしければご覧くださいませ」
シスルが手入れをし見違えるようになった庭を見渡せるバルコニーへ、紅茶と手作り菓子を恋人の分まで用意する。
「お料理の味付けを少し変えましたの。この方が健康にいいと聞きましたので」
「お疲れのようですから、リラックス効果のある入浴剤をご用意しました」
時折ふらりと外出するグルナードの帰る時間はまちまちだったにも関わらず、帰宅すると食事は常に温かい物が用意され、風呂まで沸いていた。
変な女だ。グルナードはそう思った。
それでも、いくら無碍にされてもグルナードに尽くし、いつも笑顔で接してくるシスルが、泣きそうな顔で出て行った扉から目が離せない。
『ずっと英雄であるグルナード将軍の妻になることが夢だったのです!』
そう初日に言ったシスルの言葉を信じてしまいたくなる。
だが脳裏を過ぎるのは、シスルと王太子が学園で親密だったとの噂だ。
自分の妻になることが夢だったと語る口で王太子へ愛を囁いていたのかと思うと、グルナードは堪らなく不快な気持ちになった。
「バカバカしい。あの女は国王から押し付けられた不良債権だ! それ以上でもそれ以下でもない」
まるで自分が王太子に嫉妬でもしているかのように思え、無性に苛立ったグルナードはシスルが出て行った扉に向かって盛大に悪態を吐いたのだった。




