第1話 同棲生活
五月の半ば。
ゴールデンウイークが過ぎ去り、休みボケしていた学校生活がようやく戻りつつあった。
それと同時に、気温は徐々に上がりはじめ、衣替えの時期に差し掛かる。
とある新築の屋根の下。
そこから聞こえてくるのは、二つの怒り声。一つは男の子の声。そしてもう一つは女の子の声。
「ちょっと、ふざけないで。洗濯する時は別々に分けるって約束でしょ?」
「一回で洗濯する方が節約になるって前も説明したぞ?」
「私はそれでも嫌だって言ったはずなのだけれど?」
と言うと、女の子は冷たい目で睨みつける。
今、口喧嘩をしているのは高校二年生の森崎俊介と、高校二年生の氷野 葵。
見ての通り、二人は同棲しているのだ。だが、恋人同士ではない。
「そこまで『節約、節約』って言うのだったら、貴方はお風呂の残り湯でも使ったらいいじゃない」
「なんで君が入ったお風呂のお湯なんかで洗濯しないといけない?」
「……まさか、変なこと考えてないでしょうね?」
と、葵は言うと制服の襟元を掻き合わせるようにして、俊介の方を冷たい目で睨む。
「べ、別に変なことなんか一ミリも考えてない! そういう君こそ考えてるんじゃないか?」
「馬鹿言わないで、私は至って純粋。勝手なイメージだけで言わないで。風評被害で訴えるわよ?」
(自分で純粋だっていうのはどうなんだよ……)
「はあ……分かったよ。これからはしっかりと別にする。これでいいか?」
俊介は、これ以上の喧嘩は面倒臭いことになると思い、折れた。
「ええ、分かってくれればいいのよ。そもそも、同級生の女子と洗濯を一緒にするって考えがおかしいのだけど……」
葵は頭を軽く押さえてため息をつく。
「どうしてそんなことも分からないの?」と訴えているようだった。
「それより、こんなことしてる場合じゃないわ。早く出ないと遅刻してしまう」
その言葉に俊介は時計の方に視線を向ける。
俊介の見た時計には、デジタル表記で『07:55』と表示されていた。
「まずいっ! まだ朝ご飯も食べてないじゃないか!」
「朝食はもう諦めましょう。今食べたところで消化不良になるだけ。昼食まで我慢するのよ」
葵はいかなる時も至って冷静。
「ああ、仕方ないがそうするしかないようだな……」
二人とも朝食は取らない選択をし、学校に行く支度だけ済ませると家の玄関を飛び出した。
歩いたら、確実に遅刻。二人は鞄を持って全速力で学校まで走る。遅刻扱いになるのは八時二〇分以降。
家から走ったとしても、十五分はかかる。本当にギリギリの戦いになってくる。
「はぁ、はぁ。どうしてこうなるんだよ……!」
「そんなの私に言わないで。お父さんに言って」
「ああ! もうなんで君と同棲しないといけないんだよ! 帰ってきてくれ、僕の日常!」
「貴方、本人の前でそれを言えることだけは褒めてあげるわ。でも、人間としてダメ。小学生からでもやり直したら?」
「ああ、もう! 本当に戻って来い、僕の日常!」
どうしてこんなことになってしまったのか。少し時間を遡ろう。
****
これは、遡ること一週間前。
全ては彼女の呼び出しから始まった。
放課後、俊介は日直の仕事を着々と終わらせていた。
俊介は教室を一通り見渡し、やり残しがないかチェックする。やり残しがない事を確認すると、最後に残っていたホーム日誌を書き始めた。
「えーっと、今日の三限目は……なんだっけか」
「音楽よ」
「あーそうだった。ありがとう……って氷野さん!?」
俊介は握りしめていたペンを床に落とす。そして、目を大きく見開いた。
葵は長く艶のかかった黒髪をひらりとさせながら落ちたペンを拾い、俊介に手渡す。
「ほら、落としたわよ。気をつけなさい」
「は、はい……ってそれよりなんで氷野さんが僕なんかに話しかけたんだ?」
「貴方が分からなさそうにしてから教えてあげただけよ」
と、葵は言った。
だが、俊介は首を傾げた。まだ理由に納得していないようだ。それもそのはず。氷野葵という人物は《《そういう》》人ではないからだ。
――眠れる氷の美少女
葵の異名だ。
葵は容姿端麗、文武両道。要するに才色兼備。誰もが羨むスペックを持ちながら、入学当初から一目置かれていた。
普通なら人気者で友達も多いイメージだが、葵には友達はいない。
原因は明らかだった。
それは、単に対応が冷酷で不愛想だからだ。まるで氷そのもの。
この間だと、クラスのイケメン男子がランチに誘っても「私は貴方と一緒に食べたくない」と言って断ったという話もある。
そもそも、葵自身から話しかけるところはほとんど見たことがない。
そういう事もあって、誰一人として関わろうとしない。
異名に関しては、ただ昼休みに頬杖しながらうたた寝していた姿が可愛かったことから、誰が呼び始めたかは分からないが"眠れる氷の美少女"とみんな呼ぶようになった。
そういう事もあって俊介は疑っていた。
葵は俊介の様子から察したのか、ため息をつく。
そして、ゆっくりと口を開け喋り始めた。
「というのは建前。本当のこと言うと貴方に用事があったからよ」
「やっぱり。それで、僕に用ってなんだ?」
「私も詳しくは分からない。ただ、お父さんから、貴方と一緒に理事長室まで来いって言われたから呼びにきただけよ」
「お父さん……? ああ、理事長のことか」
葵のお父さんは俊介たちが通う学校の理事長だ。
「ええ、取り敢えず付いてきてちょうだい」
(なんか僕、理事長に怒られるようなことしたか? やばい、記憶にない)
「わ、分かった」
俊介の声は恐怖からか声が震えていた。
俊介は葵に連れられて理事長室まで向かった。
「理事長、森崎君を連れてきました」
葵はお父さん相手に畏まった敬語で言った。
「分かった。二人とも入りたまえ」
「はい、失礼します」
と言うと、葵はなんの躊躇いもなく扉を開ける。
「なにしてるの? 行くわよ」
葵は俊介に小声で声を掛ける。
「お、おう。なんだか緊張するな……」
俊介は歩き方を忘れたかのように、ぎこちなかった。
「やあ、よく来てくれたね、森崎くん。今日は君に用があって来てもらったんだ」
「いえいえ、お気になさらないでください」
俊介は拙い敬語を使って会話をする。
「まあ、取り敢えず二人とも座りたまえ」
「失礼します」
「し、失礼します」
俊介は葵の真似をする。
そして、俊介達が座ったのを確認して、理事長は話し始めた。
「うん。今日、君に来てもらったのは他でもない。葵と同棲してもらうために来てもらった」
「は……? 同棲? 僕と氷野さんがですか?」
「ああ、そうだ。いきなりで悪いが今日の夜から同棲してもらう」
「ええええ!!?」
「ちょっと待って、お父さん。私は一言も良いなんて言ってないのだけど?」
俊介が驚いている中、葵は立ち上がってそう言った。
「ああ、確かに葵の承諾は得ていない。だが、これは葵のためを思ってだ」
「私の為? どう言うことかしら。説明してちょうだい」
葵は感情を高ぶらせ、怒っていた。
「ああ、これは同棲生活という名の『花嫁修行』だ」
「花嫁修行なんて私には必要ないわ」
「いいや、必要ある。葵には高校卒業後、お見合いをしてもらう機会が増える。その時にアピール材料として必要だ」
「お見合い……? 私はそんなものしたくない。自分の相手は自分で選びたいわ」
葵は意外と乙女なところがあるようだ。
「これは、氷野家に関わる重要な事だ。葵に拒否権はない」
「とにかく、私は認めないわ。話がそれだけなら私は帰る」
と言うと葵は鞄を手に取り、理事長室から出ようとする。
「同棲しないなら、森崎君を退学にする」
「……!?」
「ちょっと、それはあまりにも理不尽じゃないかしら?」
(意外だ。氷野さんならここで自分を優先して気にも留めない思ってた)
「理不尽か。そうだ、これは理不尽だ。さて、選ぶが良い。同棲か森崎君の退学か」
理事長は笑いながら言った。
「……分かったわよ! 同棲する。これで良いでしょ?」
葵は渋々承諾する。
「ふっ、それでいい。じゃあ次に森崎くん。君は引き受けてくれるね? 引き受けないなら葵を退学にする」
と、理事長は俊介に半ば強制に尋ねてくる。
「……分かりました。引き受けます」
「これで決定だ。では早速、用意した新築の家でこれから同棲してもらう」
と言うと、理事長は鍵を渡して来た。恐らく、新築の家の鍵。
「じゃあ、私達は帰らせてもらうわ」
そういうと、荷物を持って理事長の扉の方に歩く。
「ちょっと待ってくれ。最後に森崎くん、一つ約束してくれ」
「なんですか?」
俊介は振り返り、理事長の方を見る。
「絶対に葵を好きにならないでくれ」
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