第七話
冷たい、冷たい大地に、赤いものが広がる。それが命を繋ぐものであることを彼女は理解している。
『痛い』と、『苦しい』と、『助けて』と、幾度紡いだかも分からぬその口は、今、苦悶に歪み、浅い呼吸を繰り返すのみ。
彼女には、何もない。どんなに手を伸ばしたところで、助けてくれる誰かを思い浮かべることすらできない。
暗く、昏い世界に沈む意識を、それでも繋ぎ止めたのはいったい何だったのか。それはきっと、長い時を経てようやく気づけるようなもの……。
「っ……」
ガバリと身を起こしたのは、キメラの少女。彼女は現在、パーシーの部屋で少しだけ、体を休めていた。
パーシーに連れられて三日。キメラにとって、この狭い部屋だけが世界の全てであり、安らげる場所だった。
「……?」
目を覚ましたキメラは、小さく首をかしげて、辺りを見渡す。
キメラの眠りが浅いのはいつものことではあったものの、今回はそのミルク色のうさ耳に何かが聞こえていたらしい。慎重に耳をピンと張って音源を探るキメラの表情は、緊張しているようだった。
コツコツと、一定のリズムで響く、石の床に何か硬いものが当たる音。それが、徐々にパーシーの部屋へ近づいてくる。
それを察知したキメラは、パーシーに与えられたベッドの上でジリジリと後退する。
現在のパーシーの部屋は、最初の殺風景な様子とはことなり、大量のぬいぐるみが置かれている。……いや、大量のぬいぐるみが山を成していると言う方が正しいだろう。どこから入手したのか、パーシーは毎日のようにぬいぐるみを持参し、キメラへと与え続け、今やぬいぐるみだけで部屋の半分が埋まるほどの有様だった。
そんなぬいぐるみの山へと視線を向けたキメラは、廊下へ続く扉と交互に見つめ、やがてぬいぐるみへと覚悟を決めたような表情で向き直る。
そうして、しばらくの後、パーシーの部屋の扉がゆっくりと開け放たれた。
「……それで、肝心のキメラはどこですか?」
パーシーの部屋を訪れたのは、部屋の主たるパーシーとフィスカだった。
キメラがパーシーと出会った時とは異なり、今のパーシーはボロボロの服ではなく、新調したばかりの隊服を身に纏っている。
「あー、多分、どこかに隠れてると思う」
そう言いながらも、パーシーの視線はぬいぐるみの山の方へ向けられている。いや、パーシーだけでなく、フィスカも、ぬいぐるみの山へと視線を向けていた。そして……。
「パーシー、もしかして、ぬいぐるみの催促はキメラへの貢物ですか?」
「うっ、そ、それは……けど、フィスカだって、あいつを見れば納得するはずだっ! なんてったって、あのキメラは可愛いんだ! ほら、可愛いものには可愛いものを与えたくなるだろう? その心理を、あたしはあいつに会ってから十分過ぎるくらいに理解できたんだ。だから、きっとフィスカも「分かりました。では、さっさと見つけて会わせてください」お、おぅ」
呆れ混じりの視線にたじろぐパーシーだったが、パーシーには必ず同意を得られるという自信があるらしい。そのまま、キメラの愛らしさに関しての力説を始めたパーシーへ、フィスカはさっさと要件を済ませるべく会話をぶった切って要求した。
「呼んだらきっと、出てくるはずだ。キメラー、出てきて良いぞー」
パーシーの部屋の中には、生き物の気配などどこにもない。それでも、パーシーは呼んだら出てくるという確信を持って、キメラを呼ぶ。そしてそれは……確かに、正解だった。
何の変哲もないぬいぐるみの山……いや、ぬいぐるみの山というだけで目を引くと言えばそれまでだが、とにかく、その中に埋もれる形で存在していたうさ耳。普通ならばぬいぐるみの一部だろうとスルーしてしまうであろうそれは、パーシーの呼びかけに見事、反応を示した。
「えっ……」
驚きの声を上げたのはフィスカ。てっきりぬいぐるみの一部だと思い込んでいた耳が動いたのだから、その反応も不思議ではない。
「なるほど、ぬいぐるみと同化してたのか」
感心したようにうなずくパーシーだったが、次の瞬間、その表情は焦りに変わる。
そっと顔を出したキメラがパーシーの方を見て首をかしげた瞬間、どうにか保たれていたぬいぐるみの山のバランスは崩れ去り……有り体に言えば、ぬいぐるみの雪崩が発生した。
「おわっ、キメラ!?」
声もなくぬいぐるみに飲まれたキメラへと駆け出すパーシーを横目に、フィスカは呆然と立ち尽くす。
キメラといえば、様々な獣をかけ合わせたような姿をしているイメージが強い。そして、不気味な姿であるというイメージも。しかし、つい先程フィスカが目撃したキメラは、ほとんど人間の子供と変わらないように見えたのだ。
「あれが、キメラ……?」
ぬいぐるみをポンポンと投げてキメラを救出するパーシーを眺めながら呟くフィスカ。そして、救出されたキメラの全身を確認してしまえば、その姿があまりにも、人間に酷似している様子に息を呑んだ。
うさ耳と翼さえなければ、人間の少女と変わらないその姿は、キメラの概念を覆すほどに、大きな衝撃を与えるものだったのだ。