第三話
キュルルルル……。
そんな音がして、顔を上げたのはパーシー。長い沈黙は、そんな音で破られた。しかし、その音の発生源は、途端に頬を引きつらせて、ガタガタと震え出す。
「お、おい?」
ただ腹の虫が鳴いただけの、何の変哲もない音。強いて言うのであれば、その音はキメラの外見に沿った可愛らしいもの、ということくらいしか特徴のないそれに、キメラは尋常ではない恐怖を抱いているように見えた。
頭を抱えて、ガタガタと震えるキメラを前に、パーシーはどうすべきか分からずに迷う。とはいえ、今のパーシーにはできることなどほとんどないに等しい。体を動かすことも、魔法を使うこともできない。ただ、声をかけることしかできないパーシーに、この状態を収めよという方が無理だ。
(いったい、何だっていうんだ?)
キメラが震える原因に見当などつかない。キメラはどんな存在であろうとも蹂躪し尽くす化け物であって、絶対的な強者。それが、こんなふうに、怯えた様子を見せるなど、きっと、誰も考えない。
結局、パーシーはキメラが怯える原因を掴めないまま、自然にその震えが治まるのを待つしかなかった。
「……もう、大丈夫か?」
気の利いた言葉など思い浮かぶはずもなく、そう問うパーシーに、キメラはまだ少しビクつきながらも、顔を上げて、パーシーに視線を寄越す。ただし……。
「お前……」
その瞳はあまりにも虚ろで、パーシーは息を呑む。
そんなパーシーの姿が見えているのかどうか、それも分からない状態のキメラは、その虚ろな瞳のままクルリと背を向けて、いくらか歩いてパーシーから離れる。そして、パーシーが声をかけあぐねている間に……そのまま飛び立ってしまった。
「おいっ!」
このまま置き去りにされることに対する恐怖か、それとも、キメラの様子を案じてのものか。パーシーの表情を見る限り、それは後者であろうと思えるものだったが、キメラはパーシーの声に反応を示すことなく、あっという間に遠ざかっていった。
「…………」
キメラが飛び立った方角を呆然と見つめるパーシー。しかし、パーシーはこんなんでも戦いを生業とする存在。だからこそ、今の危機的状況にも考えが及ぶ。
「不味い、な……」
体は動かない。ボーの群れが撃退されたとはいえ、その血の匂いでどんな魔物が引き寄せられるか分かったものではない。そして何より……。
「永劫の森、だよな」
ロザリア王国の北東に位置するその森の名前は、『永劫の森』。様々な種の魔物が跋扈する危険な場所であり、パーシーは何度もこの場所で魔物の掃討任務にあたっていた。
「……」
森に自生する植物。そして、ボーなどという魔物が生息していたという事実。それらを見て、パーシーはこの場所が永劫の森で間違いないという確信を持っていた。しかし、この場所を知っているからといって、現在のパーシーが一人で生き抜くのは不可能と思われた。
「この森の危険性を考えると、一時間も生き残れない、か……?」
普段のパーシーならば問題はない。しかし、動くことも反撃することもできない人間など、この森ではただの餌だ。人を襲う魔物の方が多いこの森で、今のパーシーが生き残れる可能性など万に一つもない。
「ははっ……結局、無駄死に、か……」
大切な任務で敵地に向かったパーシーは、何の情報も持ち帰ることなく、魔物の餌になる。その未来がすぐそこまで迫っている事実は、笑うしかないのだろう。
辛うじて動く腕で、パーシーは目元を完全に隠してしまう。
その仕事柄、命の危険に晒されることは何度もあったのだろうが、無抵抗のまま魔物の餌になる未来はやはり恐ろしいらしい。パーシーの体は、小さくではあるものの、震えていた。
「あぁ、あの子が本当に、天使様だったら良かったのになぁ」
先程のキメラが本当に天使であれば、もしかしたら、絶望するパーシーに救いの手を差し伸べたかもしれない。そう、例えばそれが……。
「うぶっ!?」
木の実を口の中に容赦なく突っ込むという形であったとしても。
「んぐっ!? んんん!??」
実を言うと、キメラはパーシーが色々と諦観して目元を覆った時に舞い戻っていた。両腕に大量の木の実を抱えて、少し離れた場所に着地したキメラは、トテトテとパーシーの側に行って、何やら独り言を呟いている様子に首をかしげながらも木の実の一つをパーシーの口に突っ込んだのだ。
柔らかく黄色い木の実は、皮まで食べられ、栄養価の高いものではあるものの、パーシーの口を完全に塞ぐのに十分な大きさだ。キメラの気配に全く気づいていなかったパーシーは、思わずそれを噛んで、腕を退けたことによって事態を把握する。
「んっ……く」
ひとまず、口の中にあるものを何とかしようと咀嚼するパーシーに、キメラは先程の虚ろな目が嘘のように、心配そうな光を宿してそっと木の実をパーシーの口から離す。
「キメんんんっ」
ようやく飲み込んだ辺りで声をかけようとするパーシーに、キメラは口が空いたとばかりにまたしても木の実を突っ込む。
果汁が溢れることもお構いなしに、甲斐甲斐しく(?)給餌するキメラは、パーシーが完全にその黄色い木の実を丸々一つ食べ尽くすまで止まらなかった。
「こほっ……あー、ちょっ、ちょっと待ってくれっ! いや、後で食べるけど、続けてはキツイっ」
木の実を食べ切ったパーシーの前には、また別の木の実を持って、待機するキメラの姿。そのキメラは『次はこれを食べる?』とでも言いたげな様子で首をかしげていて、一応はパーシーの言い分を聞いてなのか、大人しく木の実をどこからか採取してきたらしい大きな葉の上に載せる。
「その……木の実を採りに行ってた、んだな」
キメラが採取した木の実は、先程パーシーが食べた拳大の黄色い木の実と、赤いベリー系の木の実、その他にも何種類かのものが見受けられ、それらが全て、大きな葉の上に無造作に置かれている。
「え、えっと……その、ありがとう、な」
恐らくはある程度なら言葉も通じていると思われるキメラ。そのキメラは、キョトンとした表情を見せたかと思えば、また、心配そうな表情になる。
「えっと……?」
さすがに、意思疎通がちゃんとできているか不安になったらしいパーシーに、キメラはまた別の木の実を差し出してくる。今度は、小さなロップベリーと呼ばれる赤く二つの丸が繋がった形の木の実だ。
「んっ……あ、ありが、とう?」
またしても問答無用で口に入れられた木の実。しかし、それが無害なものだと知っているパーシーにとっては、動けない自分の代わりに食べさせてくれているという認識だ。ただ、お礼を言われたキメラは、心配どころか焦りの表情まで見せ始める。
(え? いや、何でだ!?)
キメラの様子に、パーシーまでもが慌てるが、答えは出ない。と、いうよりも、キメラが大急ぎでまた別の木の実を口に運んでくるため、問う暇もない。
「も、もう、無理……」
結局、パーシーはキメラが持ってきた木の実を全て強制的に食べさせられ、グッタリとする羽目になっていた。