第一話
聖暦千百五十年、春夏の年の七月。
そこに広がるのは、春夏の年には普通、見ることもない冷たい吹雪。『白き死神の地』と呼ばれるその場所は、特定の周期を除き、唯一悪魔の領土と接することのできる土地であり、あまりにも厳しい寒さで人も悪魔も寄りつかない禁足の地。
そんな中を一人、飛ぶ者が居た。
「う……ぐ……」
ノロノロと飛んでいるのは、華奢な女性。防寒対策などほとんどしていないような薄着に真っ黒なローブを被って飛び続ける彼女は、、今や、意識も朦朧としているらしく、いつ墜落してもおかしくない。何やら大きなズタ袋を体に結びつけているものの、それも今にも落としてしまいそうな状態だ。
と、そこで、ひときわ強く吹きつける吹雪に、彼女はとうとう体勢を崩し、落下する。
落ちたのは、雪原のド真ん中。もう、手足の感覚はないのか、彼女が動く気配はない。
ロザリア王国の風の将、パーシー・フェルス。もえぎ色の髪をローブの端から覗かせる彼女は、その深緑の瞳を、ゆっくりと閉じる。そうして、彼女は、十八年という短い生涯を終えた………………………………………。
フワリと、優しい風が流れ、全てのものへとその優しさを運ぶ。
(あ、れ……? あたし、は……?)
永遠に目を覚ますはずのなかったパーシーは、現在、奇跡的にその意識を覚醒させていた。
(死後の、世界……?)
パーシーは、信心深い方ではない。むしろ、神への祈りなど、まともにしたことの方が珍しいくらいである。それでも、パーシーがそう考えてしまうのは、あの状況で助かる見込みなど、万に一つもなかったからに外ならない。死因は凍死。享年十八歳。それが、真実であるはずだった。しかし……。
(息遣い……?)
パーシーの頬には、風が当たる。いや、初めは風だと思っていたものだが、それは、湿度を持ち、何度も、何度も、規則的に頬へ当たる。となれば、誰かが隣に居るのであろうということは、容易く予想できた。
状況を確認すべく、パーシーは、そっと目を開いて、息を呑む。
(っ、うわっ、何だ? この美少女っ)
幼く、あどけない顔立ちの少女。光輝く銀の髪を持つ彼女は、パーシーに抱きつくようにして、グッスリと眠っていた。ただし、パーシー自身は、彼女との面識はない。一目見れば忘れられないくらいに整った造形を持つ少女の寝顔に、パーシーは自身の心臓がドキドキと高鳴るのを感じる。
(いやっ、あたしに変な趣味はっ……って、誰に言い訳してんだか……)
正体不明の美少女は、この世のものとは思えない美しさを誇っていた。しかし、それゆえに、パーシーは確信してしまう。
(そっか、ここ、天国か……。確か、天国には、天使が居るんだよな? こう、モフッとした翼が生えた綺麗な天使が……)
なぜか、ちゃんと動く手を動かせば、確かにそこには、モフッとした感覚がある。と、いうより、どうやら、パーシーはこの美少女の純白の翼に包まれて眠っていたらしい。
「そっか、天使様かぁ……生き返らせてほしいって言ったら、叶えてくれっかなぁ?」
もはや、ここが死後の世界であることは確定だ。しかし、心残りも、未練も、たっぷりとあるのか、パーシーは、この天国を謳歌しようというつもりはないらしい。
「脅迫‥‥いや、まずは、お願い、だな。できれば、傷つけたくないし‥‥」
そうブツブツと呟いていると、その声がうるさかったのか、美少女の瞼がピクリと動く。
「っ……」
美少女が目覚めることに気づいたパーシーは、固唾を飲んで、その様子を見守り……とうとう、宝石のように美しい、瑠璃色の瞳が現れる。緩慢な動作で、パチパチと瞬きをした彼女は、おもむろに顔を上げ、パーシーの顔を認識して……ビクゥッとミルク色のうさぎのような耳を跳ね上げる。そしてそのまま、パーシーから距離を取ろうと体を起こしかけ、翼がパーシーの体の下敷きになっていることに気づかず、ペシャリと地面に顔を打ち付けた。ある意味、大惨事である。
「えっ、えっと……大丈夫、か……?」
涙目で、プルップルと震える天使。なぜか、頭にウサミミがあるものの、きっと、天使で間違ってはいないと考えるパーシーは、目の前で可哀想なことになっている彼女を放っておくことなどできなかった。
「ちょっと待ってな。すぐに、退くから……っ」
なぜか怯えた様子を見せる天使に、何もしていないというのに罪悪感に駆られたらしいパーシーは、体を起こそうとして、それだけの力が入らないことに気づく。
「わ、悪い。何か、動けないみたいで……」
そう言い訳をして、パーシーは途方に暮れる。天使の翼は、パーシーの体を覆うように下から上へと被さっており、これでは、転がって抜け出すこともできない。
と、それを見て、状況を把握したのか、天使はワタワタと翼を開いて、パーシーの上に被さっていた翼を退ける。そうすれば、パーシーも翼の上から退くことはできるわけで……緑の大地に、体を横たえる。
「……あー、これ、力が入らない原因って、分かるか?」
パーシーが翼から離れた瞬間に、飛び起き、距離を取って正座した天使。そちらへ困ったというような顔を向けながら、未だに体が上手く動かない原因を問いかける。
そんな問いかけに、またしても、ビクッと肩を跳ね上げ、耳をピンッと張った天使はキョロキョロと視線をさまよわせて、目的のものを見つけたのか、フワリと翼を広げて飛び立つ。
「えっ? ちょっ、ごほっ」
凄まじい風圧に、土やら草やらが舞い上がり、パーシーの顔面を直撃する。
「ぺっ、ぺっ……っ、うぷっ」
口に入った土やら草やらを吐き出していると、天使は、すぐに戻ってきて、またしても顔面に色々と直撃する。
「ぺっ、ぺっ、ぺっ……はぁ、いったい、何を……ん?」
目にも土が直撃して、涙目になっていると、天使は、その様子に慌てて、手に持っていたものを地面に置くと、パーシーを抱き上げて、木に寄りかかれるように座らせる。
「へっ?」
幼い……それこそ、十にも満たないかもしれない容姿の小さな天使に、華奢とはいえ、成人しているパーシーが抱えられるという異常事態。パーシーは思考が停止したらしく、そのまましばらく硬直する。しかし、天使はそんなパーシーの様子に気づくことなく、先ほど、地面に置いたものを抱えて、またしてもパーシーの目の前に現れる。
「えっ? あっ……食べ物……?」
天使が抱えていたのは、色とりどりの木の実。パーシー自身も馴染みのある食料だ。
「……天国の食べ物も、同じ、なのか?」
この時点で、パーシーもその違和感に気づき初めてはいた。
見るだけで、それらを口にしようとしないパーシーの様子に、天使は黄色く拳大の木の実一つを残して、全てを草の上に置く。それから、その木の実の表面を服で拭こうとして……ピタリと動きを止める。
天使が纏うその服は、あまりにも汚れ、ズタボロの状態だった。その服の状態だけを見れば、彼女は物乞いだと思われても仕方がない。そのくらいに、酷い有様だ。
天使は、自分の服の状態を確認して、拭けるものではないと理解したのか、そのミルク色なウサ耳をへニャリと垂れる。心なしか、その表情も悲しそうだ。
「えっ? あ……ほ、ほら、あたしの服で拭けば大丈……夫じゃないな、これ……」
パーシーの服はどうかと言えば、ローブは天使に負けず劣らずズタボロで、その下に着ていた隊服は、何をどうしたのか、汚れているところを探すのが難しい状態だ。と、いうか、ところどころ血の跡がある辺り、この場所が天国などではないことの証明だったりする。
「……あたし、何で生きてるんだ……?」
死ぬかもしれない、ではなく、死んだと思えるほどに危険な状況で、助けの見込みも全くなかった。白き死神の地に、何の準備もなしに入り込むのは、自殺行為でしかなく、実際に、パーシーは雪原のど真ん中で意識を失った自覚があった。だからこそ、今、どうやらここは天国ではないらしいと気づいて、混乱していた。
「……? 天使様? っ!?」
それに気づいたのは、長年の勘と、気配察知の力が合わさった結果であり、混乱の最中だろうと、確実な情報としてパーシーの頭の中に入ってくる。
「くっ、せめてっ、天使様だけでもっ!」
体はまだ動かない。いや、それだけでなく、魔力も枯渇して、そよ風すら起こせない。しかし、それでも、その気配は容赦なく、弱者であろう天使とパーシーのところへと駆ける。
ドドドドドッといううるさい足音とともに現れたのは、ボーという名の魔物。硬く、分厚い毛皮に覆われ、舌顎から巨大な牙を口の両端から二本生やし、鋭い目つきをした四足歩行の黒いソレ。全長ニメートルほどもある巨大な魔物は、群れを成して、突進を仕掛けていた。
ボーの突進をまともに受ければ、即死することは確実。少なくとも、パーシーよりもずっと幼く、力が弱そうな天使が、こんな魔物の突撃に耐えられるはずがない。
かつて、ボーの突進を受けた村は、その日の内に滅んだ。ボーの厄介さは、その突進の威力だけでなく、土魔法で地面を操って、容易く方向転換をしてしまえることだ。もちろん、その毛皮もそれなりに硬く厄介だが、やはり、一番の脅威は突進だ。
「逃げろっ! 天使様っ!!」
天使は、空を飛ぶことができる。もしも、ボーが諦めるまで飛び続けることができたならば、天使だけでも助かる見込みはあった。しかし、天使は、ボーの姿に驚きでもしたのか、ボーの方を向いたまま、一向に動こうとしない。
「逃げろっ、逃げるんだっ!!」
声が嗄れ、喉が裂けても構わない。ただただ、天使が逃げてくれれば良い。そんな悲痛な想いを乗せた叫びは……しかし、幼い天使に届くことはなかった。