第九話
その日の夜はとても……とても、静かだった。嵐の前触れとも思える静かな夜。それは、窓ガラスが割れる音とともに、崩れ去った。
「侵入者だっ!」
窓ガラスが割れたのは、よりにもよって王城の一角。しかも、女性の将が過ごすはずの区画だ。それだけで、相手がただの侵入者ではないと判断するには十分だった。
「キ、キメラ!?」
宙に飛び出したのは、白い、白い少女。パーシーから与えられたワンピースを身に纏った、あのキメラの少女。
と、その直後、キメラが飛び出したその部屋から、先の尖った岩がいくつも飛び出てくる。狙いの先は、当然、空を飛ぶキメラだったが、キメラはそれを軽々と躱して、その大きな翼で飛ぶ。
「どうして、キメラが……」
そんな騎士の言葉は、すぐさま憎悪の叫びに呑まれることとなる。
「殺せっ、殺せーっ!!」
何せ、キメラという存在は、あまりにも、殺し過ぎた。
「お前がっ、お前達がっ!!」
むろん、それは今目の前に居るキメラとは違う。それでも、キメラという存在は、彼らの大切な者を奪って、その心に大きな傷を刻みこんでいた。
「死ねぇ! 人類の敵!!」
「撃ち落とせ!!」
「火力を上げろ! 必ず仕留めるぞぉっ!!」
次第に、キメラを取り囲む声は大きくなる。
殺意に満ちたその空間で、誰一人として、当のキメラの表情など見ることはない。キメラが恐怖で泣き出しそうな表情をしていることになど、誰も気づかない。必死に、何かを探して、城の敷地内から出ようとしない様子にも、憎しみに駆られた騎士達には見えていない。
「おいっ、まだ落とせないのかっ!!」
「翼だっ、翼を狙え!!」
「追い込め!!」
たった一人のキメラの少女に向けられる、あまりにも禍々しい憎悪。しかし、その只中で、青ざめる者とて居る。
「どう、して……」
城の窓から、キメラの姿を確認したパーシーは、その光景にそのまま絶句する。
キメラの存在は、隠さなければならなかった。キメラの存在が明るみに出れば、キメラは確実に殺される。それほどに、騎士達のキメラへ向ける憎悪は深い。
「パーシーっ!!」
と、その場所に走って来たのは、キメラ保護のために、パーシーのために動いてくれていたフィスカだった。
「良かった。ここに居ましたかっ」
「フィスカ……あいつがっ、どうしてっ!」
安堵の表情を一瞬浮かべながらも、すぐに厳しい表情となったフィスカへ、パーシーは絞り出すように声を出す。
「……原因は、まだ分かりませんが、今はキメラへの対処が優先です」
「っ、そうだなっ! 早く、保護してやらないとっ」
「……パーシー……それは、無理です。パーシーは、ここで待機していてください。わたくしが、全て、対処しますので」
キメラを保護しようとするパーシーに対して、フィスカは何かを堪えるように黙り込んだかと思えば、そっと、パーシーをキメラから引き離そうとする。
「対処? 対処って、なんだ? あいつは、ただ、怖がってるだけだっ! 今もっ、あんなに悪意を向けられて、怯えてっ、ただ、逃げてるだけじゃないかっ! 誰にも攻撃だってしてないっ!!」
それは、キメラの表情さえ見えれば、それを見ようとする心の余裕さえあれば、一目瞭然だった。しかし、キメラへの憎悪はあまりにも根深い。パーシーの言うそれは事実ではあるのかもしれないが、それが受け入れられることはあり得ない。
「パーシー、聞き分けてくださいっ! キメラを守ることは不可能ですっ!」
だからこそ、フィスカはパーシーを留めるべく声をあげて、物理的にパーシーを引き留めようと手を伸ばしたが、その前にパーシーが動く。風の魔法を周囲に発生させてフィスカの手を拒むと、窓の外に向かって飛んでいってしまう。
「パーシー!!」
慌てて窓に駆け寄るフィスカだったが、その瞬間、このままではパーシーが反逆罪に問われてしまうという現実に、必死に頭を働かせて、パーシーに直接繋ぐことのできる魔術具のピアスへと魔力を注ぐ。
《パーシーっ、キメラの意識を絶って捕らえてくださいっ! できる限りは守ってみせますっ。ですから、早まらないでくださいっ》
念話と呼ばれる魔法を発動させたフィスカは、すぐにでもキメラの側に辿り着きそうなパーシーへと急いでそう伝える。
《……分かった》
パーシーとて、頭が悪いわけではない。ある程度頭に血が昇っていたとしても、フィスカの提示した妥協案を聞き入れるくらいの理性は残っている。
パーシーの姿を上空に見つけたキメラは、その姿に本当に安心したような笑みを浮かべ、それにパーシーの心が激しく痛んだとしても、パーシーは、フィスカの言葉を信じて、パーシーに対してのみ完全に無防備となったキメラへと謝りながら手刀を落とす。
「ごめん。ごめん、な……」
意識を失い、グッタリとしたキメラを腕に抱くパーシーの、その小さな呟きは、誰にも聞かれることなく、空の闇へと消えていった。




