本
驚異の部屋とはよく言ったものだ。目の前に広がる部屋はもう一つの世界だった。部屋の中にあったものは奇異な蒐集物ではなく、情報だった。地図とコラム。壁や天井にまで貼られ、紐で関連のある場所が繋がれていた。部屋の隅には本が壁のように積み上げられ、冬でも寒さは入り込まないだろう。
ここはマットの小屋だ。
結論を言えば、マットは死んだ。死体からは銃が出てきた。一発しかない弾丸がマットの覚悟を物語っているような気がした。おそらくは自決用。いつ来るとも知れない老衰という恐怖に対抗する手段だったのだろう。
「これは、なかなかどうして」
異常だ。マットにとっての何がこんなことをさせたのか。
世界各地の事件がまとめられてある。殺人、強盗。それどころか動物の脱走や車両事故などまで多岐にわたっている。そこに関連性は無いように見えた。
「なあ、これに見覚えないか?」
ヴェーラが指さしたのは三ヶ月前の記事。内戦の続く地域で村そのものが住民だけ消えるというモノだ。村人を虐殺して子供を少年兵にしているという内容の記者の考察が細かく書かれているが、的外れな考えと言える。しかし、その事実は公的に発表されていない。
「ああ、覚えてる。嫌というほど」
アレックスが死んだ事件だ。そして、他にも見覚えのあるものがいくつも。
私が目の前の驚異に値する情報群に見とれていると、電信音がその思考を遮った。
『こちらHQ、そちらの情報を確認した。左腕の端末に過去の事件を送信した。スキャナーで読み取ってすべての情報とリテラシーしろ』
いつもの冷淡な声が震えていた。それは私も同じだ。マットは突発的に発生する犯罪者たちのあるはずのない共通点を探していたのだ。
左腕の機械と眼のナノマシンが同期したことを示す緑色のリングが視界の端に現れた。これで壁を見ると自動で画像認識を行い送られたデータと照らし合わせてくれる。本来ならこんなことをしなくてもHQで全てを行ってくれてもいいはずだ。疲れた私たちがいちいち手元で照らし合わせるのは電波妨害や、外部からの情報の改竄を防ぐためだ。
ここにあるものの九割以上が罪荷関連だと把握している者だった。残りの一割にも満たない何かもおそらくは罪荷によるものだろう。中にはどうやって手に入れたのかも分からない極秘資料も混じっていた。
「なんだこれ」
ヴェーラの言葉に私は分からないと伝えた。
「マットってやつはなんでこんなにも情報を集めていた?」
幾らでも溢れてくる『なぜ』『どうして』という疑問。伝記本を読み漁るあまり何かに気付いたのか。あるいは気づいた人間から聞いたのか。それでも拭えない違和感。これだけの情報があってその共通点は罪荷を拾いなおしたという事だけ。この事件の何を調べていたのかだけが不明瞭で、漠然とした違和感が歯に詰まったささみのように気持ちの悪い不快感だけを残していった。
「マットはどうしてこの中でこの情報を洗い出そうとしたんだ? 何を掴んでいた?」
言語化の使用のない違和感を視覚化する方法があったはずだ。OSシステムを起動すれば脳が感じた違和感を視覚化できるはずだ。罠を見つけるような使い買い方をするものだけれども、これで何かが掴めるのなら。
私の覚えた違和感は強ち間違いではなかった。ここにある全ての資料――ここに『罪荷を背負いなおした』すべての事件の情報があるわけではない――の共通点を見つける。全ての事件に置いて渡航記録が出力されていた。その多くがキューバを経由していた。この秘匿の多い合衆国と国交正常化して久しい国家だ。
その時、私の視界の違和感を示すラインがシルエットを作り出した。脳が気づいていても、意識の本質として気付いていないことが視覚化されている。
「マット?」
細い腕のシルエットはマットとしか言いようがない。脳が何かに気付いているのに、私は何も気づけない。どうしてだろう、目まぐるしく入り込んでくる情報に、気持ちが逸る。
「おい、鼻血が出てるぞ」
思考に差し込まれた言葉に思わず鼻を拭うと、グローブにべっとりと赤い血液が付いた。視界にいきなりパラメータがいくつも表示され、唐突にOSシステムが切断された。
「またつかってたな?」
呆れたようなため息交じりの声が僕を窘める。
「もうやめておけ。ただでさえ脳みそに負荷をかける装備だ。それを何度も使えば、体温も上がるし血管も開く。ずっと使っていられる程便利な装備じゃねぇよ」
「使わなきゃ死んでたんだ。文句言うなよ」
私の反論にヴェーラは首を振った。
「違うな。使わなかったら戦いが長引いたんだ。はき違えるなよ。それに文句でもない、説教だ。お前がドジると私も死ぬ」
OSを使わずにあの状況でマットと渡り合うヴィジョンなんて砂粒ほども浮かばないが、それで納得しておいた。これ以上反論するとアレックスみたいにしゃべりだす。こんなところで気を抜いて説教を始めるあたり、本当にそっくりだった。
「で?」
何に気付いたんだ、とヴェーラがせっつく。
さっきまで説教を垂れていた口と同じとは信じたくもないが、当のヴェーラはうきうきと口の端を釣り上げていた。謎解きに心を躍らせる少女だ。肉体と精神年齢がかけ離れてる、そんな言葉を飲み込んだ。
「葉巻とラム酒の国を経由してる」
ハバナやモンテクリストのシガーがこの国で禁制品だったのは一世紀も前のことだ。今では禁酒法時代のように酒の方が敬遠される――治安の悪化を招いたが――傾向にある。特に事故の時に酒気なんて帯びていようものなら死体が無かろうが一五年は臭い飯を食べる羽目になる。
「ゲリラ的英雄、か。なんか作為的なものを感じないか?」
私は眉を潜めた。不快だったからでも、しゃべりだしたことに腹を立てたわけでもない。ゲリラ的英雄という言葉と、そこに絡めた何かしらの意図に気付けなかったからだ。
素直にそれを口に出すと、ヴェーラの口元が吊り上った。水を得た魚は恐らくこんな顔をしているのだろう。
「なんだよ、知らないのか? ブランドにもなってるんだろ。エル・チェ。『酒は飲まない。煙草を吸う。女を好きにならないくらいなら、男を辞める』だ」
語録を聞いて思い出す。エルネスト・ゲバラ。しかしながら、後世に名を遺した偉人であろうとも、重要な部分を削られてセリフを覚えられては堪ったものではないだろう。
「『だからと言って、あるいはどんな理由であっても、革命家としての任務を全うできないのなら、私は革命家を辞める』だ」
「思い出したか。なら分かるだろ」
分かっているとも。なぜOSシステムでマットの亡霊を見たのか。最後に交わした約束。本をくれてやると残した言葉。そこに散りばめられた情報。
「『最初はゲバラを読んでみろ』」
あの戦いに言葉は不要だった。あんな、さも日常でするような会話は特にだ。殺意をぶつけ、贖罪を謳い、それでも相手に憎しみを持たず殺しあう。そこに、一世紀以上歳の離れた歪な親子関係の中で交わされるべきだった優しい会話なぞ、不要なはずだ。
壁の如く積み上げられたほんの山の中にあるはずのゲバラ。そこに何を書きこんだのかわからない。それでも、微かに感じたマットの面影を追うように本の山の中から一冊のゲバラを探した。
それにしても、とヴェーラが口を開いた。
「電子書籍がメインになってから本なんてものは絶滅したと思ってた。明かりが無いと読めないし、しおりも自分で挟まないといけないわけだ。最新鋭の武装を使いこなしてる割にアナクロだな、マットってのは。これだけの骨董品、売ったらいくらになるかね」
下品な話題に喉の奥から思わず唸り声が出てしまった。それにおどけたヴェーラは肩を竦めて手を上げる。
「分かったよ、そんな顔するなって」
どうやら私自身も気づかずに、眉間へと皺を寄せていたようだ。
「しゃべってないで手を動かせ」
丁寧に本をどかしていく私に倣い、ヴェーラも心なしか本を綺麗に扱っていた。性根がそういう性質なのか、骨董品の扱いに慣れていないのか、無言の戒飭を受け入れたからなのかは判断がつかない。マットは死に、すべて私に譲渡された。この本をどう扱おうともマットは文句を言わないだろうが、粗雑に扱うには、マットの最期が壮絶すぎた。私は今、この本たちが金塊にも勝る価値を見出している。
そうして丁寧に本の壁を崩して回ったが、どこにもゲバラはいなかった。その生き様が刻まれた薄い紙の集まりがどうも、本の壁には存在していない。マットの言葉は何の関係もなかったのか。
「体力も減ったし、飯食って今日は休むぞ。明日には帰投だ」
ヴェーラの言葉に諦めがついたわけではない。けれども、後日回収班が本を一冊残らず回収して、私の元へ届けてくれるはずだ。そう考えれば、マットの形見となるこの本たちとの別れもそう寂しいものではなくなった。
雨に濡れた身体は暗くなり始めた外気に晒され、身震いを始める。暖炉に薪をくべると火を着ける。冷え切った身体に、強い火の温もりがありがたい。凍り付いた芯をじんわりと、溶かしてくれた。そうして体温を確保できたら、更なる欲を満たしたくなるのが人間だ。つまるところ味気ない携帯食料ではなく、肉や野菜が恋しくなったのだ。生きていれば死にたくても腹は減るし、食べるだけの気力が無くても空腹を覚える。
私とヴェーラは小屋の中で食料を探した。小屋の裏口から直接つながる燻製小屋へと入った。その中では鹿やリスが吊るされていた。もう一度言う、シーズンじゃないのに鹿が吊るされていた。それも立派な角を持ったヘラジカだ。いくつものパーツに解体され、丁寧にした処理をされている。頭は肉や脳みそを綺麗に剥がされ掻きだされ、洗われたのだろう。見事な頭骨が笑みを浮かべて燻製小屋の中を見守っていた。この分では内臓も全部マットの腹の中に納まっていた筈だ。
それを見るなり、恐らく同じことを感じたであろうヴェーラが口を開く。
「一五五だったか?」
マットの齢の話というのは言われずとも理解しているが、正直なところ想像したくもなかった。
「このでっかい身体に詰まってたんだよな、内臓」
頼むからその口を閉じてくれ。
「ホルモンとかはわかる。ソーセージにもできるし。でも、肺とか胃はどこ行った? 肝臓だって野生のシカのなんて血なまぐさくてがっつり食えたもんじゃないだろ。そうでなくとも流動食啜ってる年齢だろ」
胃が頑丈すぎる。内臓なんてハーブと一緒にすり身にして腸詰にするか、鹿のハギスでも作らない限りそう持つもつでもない。血液が非常に多く足が早い。
「点滴してでも生きてたら驚きの年齢だよ」
「まさに超人だな。ニーチェのいうモノとはかけ離れていたんだろうが、正しく」
私はヴェーラとアレックスがようやく別人のように思えた。アレックスはヴェーラのように粗雑ではあるが、本を読み知識を蓄えるような人種ではない。根っからの軍人で、脳みそまで筋肉繊維が詰まっていた。
私もアレックスとまではいかないが、知識を蒐集する人間ではない。だからこそ、フリードリヒニーチェの名前は知っていてもどのような思想をもとに何をしたのかまで知らない。だから素直に聞いてみた。マットとニーチェの超人は何が違うのかと。
「人間関係の軋轢に一切のかかわりを持たない人間だ。その上で確立した意志でもって目的に邁進する。違いといえばマットは何の目的があったにしろ、結局死ぬことしか見てなかった。死を目的に生きるなんて変だろ。目的は達成した後、別の場所へと移る。さらに先に設定されるべきものだろ。達成したらそこで何もかも終りなんて、なんか変だ」
言葉にできずともモヤモヤした淀みのような不快感を抱えているのだろう。そこを言語化できないのはある意味、彼女らしいと言えた。
「私はあんなに体が細くなっても肉の為なら生きられるかも。あとビールと煙草」
「その生活じゃ長生きは無理だ」
ヴェーラは生活習慣病待ったなしだ。そのうちプリン体が血管に引っ掛かり痛風でも起こしてのた打ち回るのだろう。それが私とバディでないときであってくれと願うばかりだ。
ふと、肉を見た。ヴェーラの抱える淀みと同じものを私は内包している。その形容しがたい不快感を解消できたような気がした。
肉、肉。鹿の肉。ヘラジカ――アメリカではムースと呼んでいた。その肉の存在がどうにも不愉快だ。なぜ不愉快なのか、どうして引っ掛かるのかもわからない。
「どうした、鹿を見て?」
ヴェーラの呼びかけを無視した。目的を我武者羅に追うように集中を続けた。吊ってあるフック、地面、皮の剥がされた鹿。こぎれいで特に注目すべきところは無いように見える。
いったい何が私をここまで駆り立てているのだろうか。
「あ」
と。短い言葉洩れた。今までもヘラジカを狩った。そのどれもがこんな暖かい気候ではなかった。もっと肌を刺すような環境ではなかったか? ゆびが凍って落ちるほどの寒さでヘラジカを見たんじゃないのか?
「ここじゃない。このヘラジカこの気候じゃ生きていけない。もっと北に棲んでいる動物だ。この部屋に解体した時に出る血も、匂いもない」
ならこの死体は、そうヴェーラが言いたそうに目を細めた。
言うが早いか、私は鹿の脇腹から肋骨に寄り添うようにしてナイフを入れようとして気付く。ナイフはマットにくれてやったままだった。仕方なくヴェーラの腰からひったくり、鹿の肉を裂いた。すると案の定、ドリップが出てきた。冷凍した肉が解凍されたときに出る赤みの混じった半透明の液体だ。
「やっぱり、これは冷凍保存されてた肉だ。なんでこれをここに?」
口にはしたが、私には分かっていた。マットには隠したかったものがここにある。他の誰かではなく、私にだけ託したかったものだ。
肉の奥に手を突っ込み、その中にあったものを取り出す。白い表紙にモノクロの写真がポツンと貼り付けられた本。ビニールに封印されているが、紛れもなくゲバラだ。
薄い半透明の膜を引き裂き、中の本を捲った。