後編(その2)
クスノキの巨樹に背中を預け、腕を組んで考える。
あの魔女がしていたように。
闇雲に歩き回っても疲れるだけだ。
正しい道を見つける方法を考えなければ。
けれど、どうやって?
何か目印をつけようにも、つけたその目印を確認できない。
夏にルナと歩いた、ピクシーの幻術がかけられた森を思い出す。
あのときは、一定の距離を歩くと、景色が瞬時に変わっていた。空間が捻じ曲げられて、道が本来の道とは違う場所へ繋げられているかのようだった。
この森はどうだろう。
見えないから予想でしかないが、イメージ的には森を遊覧できるコースが複数あって、どの道も一周すると入り口に戻って来る。そんな感じか。
途中、隣り合う別のコースへの移動も可能で、歩き続けると結局はクスノキにたどり着く。
難儀だな。
ルナならどうするだろう。ルナなら…。
そうか。ルナはきっとあのときと同じように精霊と契約するな。
残念だ。参考にならない。
ルナ。
何をしてるだろう。魔女の手伝いとは、どんなことをするんだろう。
ルナ。
見た目通りの子供ではないのなら。
たくさんの出会いの中から俺を選んでくれたのなら。
俺はその選択を誇りに思う。
ずっと未来にそうなったらいいと、願ってた。
いろいろな人と出会い、多くのことを知って、様々な経験を積んで、その結果、俺を選んでくれたら、と。
未来の話だと思っていた。その時を待つつもりでいた。
そうでなければ、幼い未熟な判断をいいように利用しているようでうしろめたい。
でもそれが今であるならば、俺は迷わず手を伸ばす。
「直接言われたいの? 『あなたのせいで元の姿に戻れなかったのよ』って?」
………魔女の嫌な笑みがふと、思い出された。
「………………」
ルナ…。
話がしたい。
そのためにも、こんなところで立ち止まってはいられない。
改めて考えてみる。
この森はどんな構造になっているんだろう。
丸いのか四角いのか、その全体像は分からないが、複数パターンある周回路を道なりに歩いていたのでは魔女の住居には行けないのだろうか。
それとも、まだ通っていない、それらの道のどれかが、魔女の住居に続いているのだろうか。
そもそも、魔女の住居はどこにあるんだ?
森の中央か、それとも端か。
「……………」
では、狼は?
狼の出現は魔女の住居の位置と関係があるのだろうか。
たとえば、一定以上魔女の住居に近づくと狼が出て来て追い払っている、とか。
もし、そういった法則があれば、狼の出現によって魔女の住居に近づけている、と分かるのだが。
試してみるか。
百聞は一見にしかず。まあ、見えないが。
結果、一番外側を大きく回るルート、であると思われる道を歩数を数えながら三周してみたところ、狼の現れるタイミングに統一性はなかった。回数も異なる。
三周全てが同じルートを通れたとして、一周にかかる歩数が3万歩前後。歩幅が約60センチから70センチとすると20キロ前後の距離となる。通常なら歩くスピードは時速4.8キロほどだが、探り探り歩いているからそんな速さでは歩けていないだろう。
時速3キロで歩けたとしても一周にかかる時間は7時間弱。途中、狼と戦闘をしているから実際は7時間から8時間かかっているだろうか。
一周するたびに休憩を取っているが、寝てしまうとどのくらい時間が経ったのかが分からない。
体感では5〜6時間なのだが、疲れているからなんとも言えないな。もっとたくさん眠っているかもしれないし、もっと短いかもしれない。
たが、この三周で2日は過ぎたと思われる。
この森には狼以外の生き物はいないのだろうか。
たとえば、フクロウの鳴き声が聞こえれば夜だろうと推測出来るし、ニワトリが鳴けば夜明けを迎えたのだろうとあたりをつけることが出来るのだが、一切、そういった音がしない。
風に揺れる葉擦れの音だけだ。
眠って、目を覚ます。
目を開けて、見えないことにほっとする。
この森に入ってから、いったい、何日経ったんだ。
ヤケになったわけじゃないが、道を無視して境を乗り越え剣を振り回し触れるものを手当たり次第に切り倒して進んだら、突然、地面が無くなった。
「ーっ!?」
崖?
激しく背中を打ちつけて、衝撃に意識が遠のいた。
見えないせいで、目を開けている、ということにしばらく気づかなかった。
「痛っ、つ…」
全身に走る、激しい痛みに息を飲む。
そろそろと、なんとか腕を動かして、ルナの薬を口まで運ぶ。すぐに体中の傷が癒されて、ほぅと息をついた。
この薬には本当に助けられている。
ルナの意図した使い方とは違うだろうが、ルナがそばで見守っていてくれるようで心強い。
どこに落ちたんだろう。
これまでとは違うどこかに、来ることが出来てはいないだろうか。
微かな期待を秘めて歩き出したのだが…。
やっぱりだめか。
手に触れたクスノキを前にため息をつく。
地べたに座り込んで休憩しつつ、また考える。
この森は、ずいぶんと不思議な魔法がかけられた森だと思う。
腹が減らない、喉の渇きも感じない。そして食べたり飲んだりしていないのに体力や筋力の衰えは感じない。
髪や髭も伸びていないようだし、歩き続けていい加減傷んだり壊れたりしそうな靴が、たぶん、全く傷んでない。
「そう言えば、雨も降らないな…」
どうしたらこの森を抜けられるだろう。
魔女の住居にたどり着けるだろう。
アンソン侯爵は魔女は性格が悪いと言っていた。意地悪されるかもしれない、とも。
こんな森を考えつくのだから、性格が悪いのは間違いないだろうな。
意地悪、か。
目が見えてさえいれば迷うことはない目印があったり、とか?
「……………」
あの魔女め。
いい加減、腹が立ってきた。
歩けるところは歩いたと思うし、見えなきゃ分からないギミックなどがあったとしたらお手上げだ。
だけど、諦めるわけにはいかない。
ルナ。
あんな男がお前のそばにいるなど業腹だ。
必ず取り戻す。
だが…。
実際のところ、もう、あまり時間がないのではないかと思う。
一周の歩数を数え始めたときから、クスノキに戻ってくるたびに持っていた手帳の紙を少し破り、何周したかを数えられるようにした。
数え始める前が分からないが、仮に1ヶ月経っていたとして、数え始めてからタイムリミットまで5ヶ月。つまり150日。
1日1周とすると150周出来ることになって、1日に2周すると300周出来ることになるが、すでに200周を超えている。1日に1周しか出来なかった日が何日あるのかにもよるが、急がなければ、このまま期限を迎えてしまう。
そうなったらルナとは二度と会えなくなると魔女が言った。そんなことにはさせないと、決してそうはならないと、強く思っていたけれど、「ルナと会えない」そんな事態が現実味を持って迫っているように感じる。
ぎり、っと強く唇を噛んだ。そうなる未来は考えない。考えるのが怖い。
いや。違う。考えろ。絶対にたどり着くんだ。
考えろ!
性格の悪い意地悪な魔女が考えそうなことを。
出口の無い迷路で存在しない出口を探させるより、出口がちゃんとあって、しかもそれが目の前にあるのに気付かない、そんな様子を眺めて楽しんでそうな男だった。
見えなくても分かる目印を、きっと魔女は用意している。そうでなくてどうやって、こんな森を抜けられる?
それは、気付くことさえできれば簡単なことに違いない。
だけど気付かない俺を笑ってる。そんな気がする。
見えなくても分かる。それは、匂いか、音か、それとも…。
「いっ、痛」
風がそよいで、イバラが頬を掠めた。
けれど、今頬に触れたイバラは、払おうと手を伸ばすと何処かに行ってしまう。
まるで動物みたいだ。
そして、あの魔女に揶揄われているようで、腹立たしい。
そのとき不意に、魔女の言葉が耳に蘇った。
「僕の住居までイバラはずっと続いているよ」
イバラ…?
触れようとすると逃げるように遠ざかるイバラ。
だけど、触れられるイバラがあったんじゃないか?
そう。この森に来た最初のころ、絡まってくるイバラのツルやそのトゲに閉口して切り払おうとした。
そのとき、逃げるように剣先から遠ざかるイバラがほとんどだったが、手に掴めるイバラもあった。
ただ、掴めるイバラは歩くのに邪魔ではなかったからそのまま放置したのだが…。
俺はすぐにそのイバラを探した。
這いつくばり手探りで茂みの中からイバラのツルを。
そして…。
「いって…!」
見つけた。
もうそこが一番外側のルートなのか、それとも内側のルートなのか分からない。
「ーっ」
捕まえたイバラのツルを握ると、鋭いトゲがプツっと音を立てて皮膚を破り手のひらに食い込む。
握るたびにトゲが刺さって新たな痛みが生まれる。
その痛みを頼りにイバラのツルを手繰り寄せ、慎重に歩き始めた。
「…………?」
かなり歩いたんじゃないかと思うころ、突然、かちこちと体の内側から音がしだした。
なんだ? なんの音だ?
まるで、時計が時間を刻むような無機質な音。
「まさか…!」
タイムリミットが近づいている?
カウントダウンをしているのか? 後どのくらいだ? 1日か、1時間か…?
急げ。
イバラを伝い、手放さないように注意しながら走った。
走って走って、やがて…。
「ーーー!?」
空気の異なる場所に出た。
森の中特有の、草や葉の青臭い匂いがしない。
足元も、土というより砂利っぽい。
イバラはここで途切れている。
森の中は、頭をぶつけるようなものは無かったし、蹴つまずくような岩や倒木も無かった。
だけど、ここはどうだろう。
それまでとは違う気配に戸惑いつつ一歩踏み出すと、何かが爪先に触れた。
木の枝のようだ。
手探りで拾って、その枝で足元に障害物がないか確認しながら歩いた。
そうしながら少し進んだとき。
がるるるる…。
低い唸り声が響いた。
「ーっ!」
狼。
飛びかかってくる狼をその唸り声、荒い息遣いを手がかりに見当をつけて持っていた枝でなぎ払う。
狼との戦闘もかなり慣れた。
だが、数が多いと対応しきれない。
再び唸り声を上げながら迫ってくる狼を剣を抜いて斬りつける。
手応えがあった。
と思った直後、頭の後ろで、すぐ間近で狼の唸る声がした。
「…!!」
咄嗟に頭を下げ、唸り声が聞こえた位置に剣を突き上げる。
掠ったか?
「ーう!」
と思ったら、屈んだ足に別の狼が噛みついた。
何匹いるんだ?!
噛みついた狼を蹴り飛ばし、噛まれた足の痛みに思わず膝を着いたとき、風が、駆け抜けていったように感じた。
「………?!」
…狼の気配が消えた。
耳を澄まして、用心深く、狼の気配を探したが、やはりいない?
そのとき、じゃり、と砂を踏む音がした。
狼? いや。狼の気配はしない。
「誰か、いるのか?」
声に出して呼びかけて。
誰か。
この森はイバラの森。黎狼の魔女が住まう森。
黎狼の魔女以外にここにいるのは…。
「ルナ…?」
たたっ、と軽い足音がした。
ああ、やっぱり。
「おじ様…!」
体当たりするように抱きついてきた小さな体を力一杯抱きしめ返す。
やっと。やっとだ。やっと、会えた。
「ルナ。やっぱりお前だった。良かった」
良かった。間に合った!
でも、胸の内で聞こえる時計のような音は鳴り止まない。
なんだろう、この音は。
ルナの声が不安そうに揺れた。
「おじ様、目が…?」
目?
「…ああ」
どうしようか。どう言ったら、驚かせずに話せるだろう。
「これは、チャンスをもらったんだ」
「チャンス?」
怪訝な声。可愛らしく首を傾げているのが見えるようだ。
その場にあぐらで座り、ルナを抱き寄せる。
座る間もルナから手を離さなかった。
「お前のお師匠さんにな、頼んだんだ。お前に会わせて欲しいと。そうしたら、視力を失った状態でこの森を抜けることが出来たらお前に会わせてやる、と言ってな」
震える小さな手がしがみつく。
じわりと暖かな空気が身体を包むように感じた。すると、狼に噛まれた足の痛みもトゲの刺さった手の痛みも霧がだんだんと晴れるように静かに消えていった。
「っぅ。ひっく…」
しゃくり上げる小さな声を宥めるように髪を撫でた。
そうして、優しく話しかける。
伝わるように。ちゃんと、伝えられるように。
「…泣くな。泣かせるために来たんじゃない。迎えに来たんだ。一緒に、帰ろう」
「おじ様…」
「帰ろう、ルナ。お師匠さんのところじゃなくて、俺のそばにいろ。ルナ、お前を愛してる」
そうだ。愛している。
だから、ここまで来た。だから、迎えに来たんだよ、ルナ。
腕の中で小さな身体が身動いで、それから、唇に触れた柔らかな感触に心が暖まっていく。
森の中を彷徨った、長い長い時間が全て、癒されて昇華されて報われる。
微笑ましいほどの優しい口付け。そっと抱きしめる腕に力を込めたとき、閉じたまぶたの向こうに光を感じた。
「……………」
眩しい。
ああ、身体の内側からかちこちと響いていた音が止んだ。
「おじ様…?」
ルナが窺うように俺の顔を覗き込む。
涙で濡れた頬を両手で包むようにして笑った。
「ルナ!」
一瞬だけ笑顔になった、ルナのその表情が強張った。
ルナ?
「う? あ、あ?」
驚いたように見開かれていく瞳。
かたかたと震える身体を必死に抱きしめた。
なんだ?! どうし…、どこか痛むのか?
「ぐっ…、う!」
苦しそうに呻くルナをただ抱きしめる。
突然こんなに苦しみ出すなんて、一体どうしたんだ。
何が起こっている?
「ルナ…!」
その背をさすりながら、現れ始めたその変化に言葉を失くした。
これは…!
ぎしぎしと骨同士が擦れ合うような痛々しい音が続いて、か細い悲鳴が上がる。腕の中、ずるりとその身体が力を失って倒れかかってきた頃には変化はすっかり終わっていた。
大人の、元の姿に戻った、のか?
子供の服に収まりきらない身体は着ていた服を破いてしまっていた。
ぐったりと意識を失ったルナを抱きしめたまま、あまりのことに呆然としていると、目の前に毛布が現れてルナ身体を覆い隠した。
「…っ」
顔を上げると、そこにいたのは…。
「やあ、遅かったね。もう間に合わないかと思ったよ。あんな簡単なヒントに気付かないなんて、アタマ硬すぎるんじゃない?」
黎狼の魔女…。
「ぬかせ。相手に伝わらないヒントなんてヒントじゃない。あれをヒントだと言うのなら、お前の方こそ独りよがりが過ぎるんじゃないか?」
魔女はわずかに眉をひそめたが、すぐに何を考えているのか分からない笑みを浮かべた。
「…コーヒーをご馳走してあげよう。その娘を連れてついて来て」
そう言うとさっさと行ってしまう。
俺はそっとルナを…、リサを抱き上げて後を追った。
「さあ、どうぞ」
「………………」
出されたのは、なんだかずいぶん真っ黒な液体だった。
コーヒー…? なのか?
香りはコーヒーのようだが…。
おそるおそる口をつけて、そっとカップをソーサーに戻した。
苦!
なんだこれ。嫌がらせか?
見ると魔女は美味しそうにカップを傾けている。
同じものを飲んでいるとは思えないが、同じコーヒーサーバーから注いでいたんだよな。
おかしな魔法が使われてでもいない限りは同じもの、なのだが。好みの問題か、それとも味覚の問題か。
「なに?」
じっと見てしまっていたらしい。
魔女が不遜な態度で尋ねてきた。
コーヒーのことは取り敢えずどうでもいいので置いておいて、一番気になっていたことを聞いてみる。
「彼女が元の姿に戻ったのはなぜだ? お前が魔法を使ったのか?」
俺の膝に頭を乗せて眠るリサを視線で示すと、魔女はリサを見て小さく微笑んだ。
「まあ、そうだけど。でもその話は後でね。どうせその娘も聞きたがるだろうし、同じ話を2回もするのはかったるい」
はい、次の質問どうぞ、とばかりに偉そうな視線が俺を見る。
「…彼女はお前の手伝いをしている、と聞いた。それは、魔女になるため、か?」
以前からなんとなく疑問に思っていた。
ルナほどの魔力を持ち、魔法が使える魔法士が魔女に認定されないということを。
アンソン侯爵はルナを魔女にしたくなかった、と言うようなことを言っていたが、魔女の認定は本人の希望とは関係なく行われるはずだ。
だから、魔女の認定をされないような、なにか対策をしているのではないかと思ったのだ。
だが、かけられた魔法が解けず、子供の姿のまま生きていくことを強いられたとき、魔女になることも今後の選択肢のひとつになったかもしれない。
魔女は、違うよ、と言った後、腹黒な(どうにも、好意的な表現が浮かばないんだ)笑みを浮かべた。
「その子がなんで魔女認定されないのか不思議かい?」
ゆったりとソファに座り、魔女がコーヒーをすする。
「ああ。魔力量も使える魔法も十分だろう?」
魔女は頷いた。
「そうだね。魔力量は十分過ぎるほどだよ。既存の魔女たちの中でも類を見ないほどにね。だけど圧倒的に不足しているものがある。魔法に関する基本的な知識と魔法研究に対する情熱だ」
「知識と情熱?」
「そう。どちらも意図して与えないようにしてきたものだ。その子の父親の望みでね。魔法を使えることはすごいことでもなんでもない。たまたま魔力が発現しただけのこと。魔法を使ってやるよりも使わずにやる方が時間も労力もかかる。それができる方がすごいのだと、何度も繰り返し教えてきた。戦うなら、魔法を使うよりも剣を使えとね。そうして、魔力をコントロールすることと、正しい魔法の使い方だけを叩き込んだのさ。だからその子は魔法を使う者が当たり前に知っていることを知らないし、独自の魔法を編み出そうともしない。魔法の研究をするよりも剣の稽古をした方が有意義だと思っているからね」
…なるほど。思い当たる節はある。
「魔法研究をすることが魔女の条件なのか?」
「そうだよ。独自の魔法を作り出すには膨大な知識が必要だ。その結果生み出された物が国にとって有益とは限らないだろう? だから国は魔法研究に熱を上げる者を国から切り離したのさ。好きに研究していろ、その変わり国に関わるな、とね。ああ、気がついたかい?」
最後はリサに向かってかけられた言葉だ。
リサはその声に反応するようにそっと頭を上げた。
「大丈夫か?」
あー…。そんな風に身体を起こしたら…。
まだ少しぼーっとしているようだ。自分の手を眺めて、
「私…。元に…?」
と呟いている。
すると先ほどの毛布同様、突然衣服が現れて、バサバサとリサの頭に降りかかった。
「君の分もコーヒーを入れてあげるよ。その間に身だしなみを整えてきなさい」
魔女に言われて、やっと自分の状況に気がついたようだ。
「◯★*$&%!!!!」
言葉にならない声を上げて、慌てて毛布を胸元でかき合わせている。
真っ赤な顔で俺を見ている。恥ずかしいのか少し瞳が潤んでいた。
うん。可愛い。
「……………」
にっこり微笑んで見せると、リサはますます真っ赤になって逃げるように部屋から出て行った。
その様子を呆れたように見ていた魔女が、肩をすくめて言った。
「魔女認定の件だけど。あの娘には魔法の書に載っていない魔法は使うな、と言ってある。今のところ守られているようだけれど、あの娘はあんたの要求には応えようとするからね。魔女にしたくないなら気をつけたほうがいいよ」
「………………」
有り難い忠告、なのだろうな。
嫌味を言われているようにしか感じないが。
「コーヒーが冷めちゃうよ。早くお座り」
着替えを済ませたリサが入り口でためらっているのを見て魔女が声をかけると、リサはおずおずとやって来てちょこんとソファの俺の隣に座った。
「おじ様は、私が、ルナだと…?」
上目遣いに尋ねるリサに頷く。
「分かってる」
「驚かないのね…?」
「驚いたさ。最初に知ったときはな」
アンソン侯爵に写真を見せられたときの驚きは、言葉では言い表せない。真夏に雪が降ったって、こんなには驚くまいと思うほどだ。
リサは少し不思議そうにしていたが、魔女に視線を移して言った。
「お師匠さま。私、どうして元の姿に戻ることが出来たの?」
それから、テーブルのコーヒーに目を向けて顔をしかめると、カップのコーヒーを半分別の器に避け、ミルクをたっぷり入りてかき混ぜた。
俺の分も同じようにして、なんとか飲めるものにしてくれたが、その様子を見ると、このコーヒーはこの魔女のデフォルトのコーヒーであるようだ。
魔女がさっき言っていた通り、リサも元の姿に戻れた理由を尋ねたので、魔女はちらりと俺を見た。
ほらね、と言ってるみたいだ。
「君は『目には目を』って言葉を知っているかい?」
魔女の言葉にリサはきょとん、としている。
「たしか、どこか異国の法典ですよね? 罪を犯したら犯した罪と同じ罰を受けるっていう」
「そう。目には目を、歯には歯を。愛の証明には愛の証明を、さ」
はてな? と首を傾げたリサが、説明を求めるように俺を見たが、俺にも分からん。
俺は肩を竦めて見せた。
「彼に、愛の証明の魔法をかけたんだよ。彼が愛する者からの口付けを得られれば失った視力が回復する。そしてそのときには、彼が愛する者も本来の姿を取り戻す」
…なんだって?
「そんなことが…」
信じられない、とリサが言葉を途切れさせた。
俺は、眉間にシワがよるのを自覚した。
「出来るんだよ。同じ魔法をぶつけた場合、魔力の強い方が他方を凌駕すると、君も知っているだろう。魔女の弟子なんかに僕が負けると思うのかい?」
偉そうにふんぞり返る魔女を見て、俺はため息を飲み込んだ。
つまり、だ。
リサはリサ自身にかけられた魔法によって子供の姿に変えられていた。それを俺にかけた魔法の効果で元の姿に戻した。「元の姿に戻れない」という効果と「元の姿に戻る」という相反する効果。魔力の強い方が有効となるその法則を利用するには、リサにかけられた魔法と同じ魔法を俺にかける必要があった。
なるほど。そこまではいい。
だが、「愛する者からの口付けを得られれば失った視力が回復する」だと? そんなこと一言も言わなかったじゃないか。
森を抜けられなかったら視力は返すと言ったよな? あれは嘘だったのか?
リサがあのとき口付けてくれなかったら、どうなっていたのか。
それに、その魔法の条件に、俺が森で彷徨うことは含まれていないよな?
「君を元の姿に戻すことの出来る、唯一残された方法だったんじゃないかな。禁術の書に載った魔法を発動させるには限界がある。君にかけられたアレンジされた魔法も僕が使ったアレンジした魔法もすでに禁術の書に載ったよ。もう使えない」
上手くいって良かったね。
そう言って魔女は、鼻高々といった様子で微笑んだ。
その伸びた鼻をへし折ってやりたい。
結局、俺はリサの魔法を解くために、魔女に利用されたというわけだ。
まあ、リサが元の姿に戻れたことは喜ばしいことで、魔女のお陰であることは間違い無いのだが。
森を半年近くも歩き回ったのは、本当に、ただの、意地悪だったのか…。
俺は飲み込みきれなくなったため息を盛大に吐き出した。
なにが、「直接言われたいの? 『あなたのせいで元の姿に戻れなかったのよ』って?」だ。
元に戻せる公算があったくせに。
おちょくられた。
すごい、敗北感だ…。
その晩は部屋を貸してくれるというので、有り難く休ませてもらうことにして翌日帰ることにした。
リサが手入れをしているという、その客室に案内してくれた。
「待て」
さっさと下がろうとするな。
ゆっくり休んでねと部屋を出ようとしたリサを抱きしめて、もう一度会えたことを、改めて嬉しいと思った。
それから、リサが姿を消したあの日を思い出してため息をついた。
「あんなに、俺から離れるなと言ったのに」
毎日復唱までさせていたのに。
「…ごめんなさい」
しょんぼりと項垂れる頭を撫でながら、
「探したんだぞ」
というと、まるで叱られた犬のように目尻を下げて俺を見上げる。
可愛い…。
「どうして、お師匠さまのことが分かったの?」
お? 話を変えたな。まあいい。
リサをベッドに座らせて、俺も隣に座る。
それから、アンソン侯爵に話を聞きに行ったことを簡単に説明した。
「リサ。なんだか、不思議な感じだな。お前が小さい頃会ったことがあるのに、全く気がつかなかったよ」
黙っていたことが後ろめたいのか、リサは目を伏せた。
「…今まで、ごめんなさい」
謝らなくていい。
1年間、辛い思いをしてきたのはお前の方だ。
そっと髪を撫で、優しく強く抱きしめた。
「もう、俺のそばを離れるな。いいな?」
囁くように告げると、リサはぎゅうと抱きしめ返してくれる。
「おじ様? 会いに来てくれて、ありがとう」
大変だった。だけど、リサが元の姿を取り戻すことができて、本当に良かった。
素直に礼を言う気にはなれないが、魔女には感謝している。
俺とリサがお互いに蟠りなくこうして向き合えるのは、やはり、魔女の魔法のおかげなのだ。
大変だった。だけど、やり遂げられて本当に良かった。
愛している。
リサをこうして抱きしめることができて、幸せだ。
翌日はリサの案内で森を出た。
「こんな風になっていたんだな」
歩きながら周りを見回す。これといって変哲のない森だ。うようよと、イバラのツルが、伸びたり縮んだりしている以外は。
「そうよ。見えない状態で森を抜けるなんて本当に無茶なことよ」
だがそのツルも、リサを避けるような動きを見せている。
狼も姿を見せなかった。リサが言うには、狼はリサに敵わないことをよく分かっていてリサを襲ったりはしないらしい。
それから、2人でアンソン邸に行き、アンソン侯爵と夫人に、リサの本来の姿を見せることが出来た。
2人ともとても喜んで、こっそり、リサを嫁にくれると言ってくれた。有り難い申し入れだ。
リサが執事とはしゃいでいる間に、外堀を埋めてしまおう。
お茶を頂きながら今後のことを少し話し、そのあとは騎士団に戻ることにした。
ルナは魔法の研修に行っている、ということになっていたが、ルナは実はリサだった、ということで少々ややこしいことになってしまった。
結局、正直に話すしか無くなり、リサは人事・総務担当の課長と部長から相当叱られたらしい。
単純にリサ・アンソンとして復職出来れば良かったのだが、ルナが研修に行ったまま行方知れずというのは、やはり良くない。
リサが子供の姿で再び騎士団に入団したことに関しては、やむを得なかったのだと口添えしておいたが、そもそもリサ・アンソンが魔法を使えることを隠していたことに関してずいぶん責められているようだ。
最初から魔法士として入団して欲しかった、ということだろう。申告義務違反でもあるしな。
さて、可哀想だが、今のうちに手を回しておこう。
「隊長!」
隊舎に行くと、クルスやロンを始め、みんなが迎えてくれた。
いろいろな声がかけられる中、
「書類、用意できてますよ」
クルスが差し出してくれた書類に目を通し、追記してサインをする。さっき妖精を使って指示を出したばかりだが、さすが、優秀だ。
「隊長、ルナは?」
「…後で、会わせてやる。今は人事で説教中だ」
首を傾げるクルスとロンに笑って見せて、すぐに隊舎を出た。
行き先は総長のところだ。
ことの顛末を説明し、書類にハンコを無理矢理貰った。
「臨機応変にな」
「了解しました」
翌日、リサ・アンソンの復職と騎馬隊配属の辞令が出た。
ルナについては役職者会議での報告のみとし、大っぴらにはしなかったが、リサは共に授業を受けていた子供たちには会いに行って話をしたようだ。
「ベル隊長、やってくれましたね。リサ・アンソンを騎馬隊に配属とは」
苦虫を噛み潰したような顔でそう言って来たのは魔法士長殿だ。
言われるとは思っていた。
優秀な魔法士として活躍させることを考えていただろうからな。
「問題無いでしょう。彼女は剣士ですから」
俺はリサ・アンソンを再入団させるのではなく、退団扱いになっていたリサ・アンソンの退団をキャンセルする手続きをしたのだ。
リサ・アンソンの職種は剣士。リサが説教を受けている間にその作業を済ませ、騎馬隊に転属させた。
書類上、剣士であれば可能だ。
この後魔法士に職種変更したとしても所属は騎馬隊のままだ。俺が転属を許可しないからな。
ただ、心配なことがひとつある。
改めてリサを騎馬隊の一員として紹介したとき、
「俺の天使…」
そう言ってロンが挙動不審になったことだ。
目を離さないようにしなくては。
クルスも心底驚いた顔をしていた。
「アンソン家のご令嬢が入団する、という情報が入ったときにはかなり話題になったのですよ。隊長は噂話など耳に入らなかったかも知れませんが。アンソン家のご令嬢といえばみな、派手さはありませんが清廉で高潔な美女揃いですからね。そうですか、ルナが…」
…………クルス? まさか、お前もか。
リサは真面目に新人らしく勤めていた。
乗馬も剣術も欠かさず訓練に参加している。
そうは言っても本当の新人では無い。出来るだけ現場に連れ出して経験を積むようにした。
最近は騎馬での戦闘にもだいぶ慣れたようだ。
以前から、ルナだった頃からそうだが、リサは補佐をするのが上手い。俺の動きを良く理解し、とても上手にフォローしてくれる。
それは、現場に出ているときだけじゃ無い。
隊舎で執務を行なっているときも、今までクルスがやってくれていた秘書的な雑用をとても的確にこなしてくれる。そして、絶妙なタイミングで差し出されるコーヒー。
忙しい中の、癒しのひとときになっている。
復帰してから1ヶ月ほど経った頃、俺は隊長の特権で休暇をリサに合わせ、2人で出かけることにした。
「おじ様!」
白いワンピースのリサが微笑む。
街をそぞろ歩きながら露店を覗き、会話を楽しむ。
「年少クラスの子たちと会って来たんだろう? みんな、驚いたんじゃないか?」
「ええ、それはもう! ルイーズ先生なんて、驚きすぎて眼鏡が落っこちちゃって、危うく踏んでしまうところだったわ。モカは驚いていたけれど、とても冷静だったわね。今度、パンケーキのお店でご馳走する約束をしたわ。カイトやトールもどちらかというと子供になる魔法を面白がっていたわ」
騎士団内病院でも驚かれたようだが、イスラ・ガードナー医師は納得していたという。
いろいろな店を見て歩いたが、やはり女性だな。アクセサリーには興味を惹かれるようだ。
ネックレスやリング、髪飾り。いろいろ手に取っていたが、一番気に入ったらしいネックレスをプレゼントした。
強請るつもりでは無かったようで恐縮していたが、ハートを模したシンプルなデザインのシルバーのネックレスはとても良く似合っていた。
お返しに、と小さなクローバー型のタイピンを選んでくれたので、ありがたく受け取ることにした。
「リサ。来月、夜会に誘われているのだが、一緒に行ってくれないか?」
夜会にパートナーとして出席する。それはごく親しい関係であることを公にするような行為だ。
リサは少し頬を染めて、ふわりと微笑んだ。
「喜んで!」
夜会当日。アンソン邸に迎えに行くと、贈った薄紫のドレスを身につけたリサがメイドに手を引かれてやって来た。
美しくドレスアップした姿は常とは違い見違えるほどだ。
「綺麗だ。良く似合ってる」
「ふふ。ありがとう、おじ様」
会場では滅多に夜会に出ることのないアンソン家の末の令嬢は注目を浴びていたが、本人は全く気付いていないようだ。
次から次にダンスに誘われるので踊り続けている。
姿勢良く美しく踊る姿を眺めながらポケットに忍ばせたリングのケースを確認した。
そろそろ頃合いか。あまり疲れてしまわないうちに引き取ろう。
曲が切り替わるタイミングで近づくと、リサがほっとした顔をした。
もう少し、早く来てあげれば良かったか…。
「疲れたか?」
「大丈夫よ、おじ様。でも、久しぶりにたくさん踊ったから脚が攣りそう」
そう言って笑うリサのために飲み物を取り、バルコニーに誘った。
「わあ、キレイな月!」
晴れた夜空に輝く満月。
あの日と同じ、月を映して輝く瞳。
俺を振り返り、微笑むリサの手を取って微笑み返す。
その手の甲にそっと口付け、細い指にリングを通すと大きな瞳に映った月が滲んで揺れた。
「おじ様、大好き!」
抱きついてくる身体を笑いながら抱きしめる。
My better half.
お前こそが、俺の半身。