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後編(その1)

「隊長〜。ルイーズ先生からルナが授業に出てないって連絡入ってるんすけど、今日ってルナに任務入ってましたっけ?」


昼の休憩時間。ロンにそう言われて胸騒ぎがした。


授業に出ていない?

どういうことだ。朝、いつも通り本部棟の前まで送ったのに。


「隊長?」

「部屋を、見てくる」

体調を崩して部屋に戻ったのかもしれない。

でも、そうでなかったら…。


「ルナ!」


室内に人の気配は無かった。

ルナの寝室に無断で入るのは躊躇われたが、予感がした。

当たって欲しくは無かったが、ルナが使っていた部屋はきれいに片付けられ、書物机には手紙と薬瓶が残されていた。


「親愛なるレオン・ベル様」という書き出して始まった手紙を読んで、すぐに部屋を飛び出した。

「師匠である魔女のもとへ参ります」だと?


急がなければ。

本当に魔女のもとへ行ってしまったら、会うことが出来なくなってしまう。

魔女の居所など、調べようがないのだから。


守衛は、出て行くルナと会話をしていた。

その時間からすると、今朝、本部棟に送った、そのすぐ後に出て行ったようだ。

すでに3時間以上経っている。子供の足でどこまで行けるのか。

いや、ルナは魔法が使える。

早く移動出来る魔法とか、そういったものがあるのだろうか。

クルスやロンと手分けして夕方まで探したが、ルナの行方は分からなかった。

見つからない、となると別の問題が生じる。

ルナは騎士団員で、正式な手続き無しに団を抜けることは出来ないということだ。

姿を消してしまったことを、報告しないわけにはいかない。


だが。

ルナは魔女のもとへ行きました、で終わらせる気は無かった。

手紙には、この先も俺のそばにいたかったがそれは叶わないとある。何か事情があるのだろう。

なぜ、相談してくれなかったのか。ルナ。

俺と2人で解決することを考えて欲しいと、言ったのに。


俺のそばにいたい、とそう思っているのなら。

探して、見つけて、必ず連れ戻す。


そのための必要な手筈は整えておくべきか。


「隊長、どうしますか?」

心配そうなクルスに答える。

「総長に直接掛け合う」


正式に行方不明の届け出をすれば騒ぎになるだろう。

それほどルナは騎士団内で大きな存在になっていた。

同時にルナは出自が判明していない魔法士として問題視もされていた。はっきりとした理由も分からないまま魔女のもとへ行った、ということが知られれば、背信容疑を掛けられても反論できない。



「…そうか。それは困ったことになったの」

総長は蓄えた顎髭を撫でながら、表情を変えずに言った。

「それで、おぬしはどうするつもりだ?」

「連れ戻します」

答えると、総長はふむ、と頷いて鋭い目を俺に向けた。

「騎士団として、魔女に立て付くことはまかりならんぞ?」

「心得ています」

辞表を置いていけ、と言われるだろうか。

胃が痛くなるような沈黙の後、総長はガラリと雰囲気を変え暢気な調子で言った。

「ときにベル隊長。おぬし、期限の切れる休暇がたくさん残っておるそうだな。ここのところ魔物の出現も落ち着いているし、しばらく休みを取ったらどうだ。年末はワームやフェネクスの討伐で忙しかったろうし、上の者が休みを取らねば下の者も休み難かろう。ルナは魔法の鍛錬のため師匠のもとに研修に行ったことにしておけ。必ず、穏便に、連れ戻せよ」

書類は適当に回しておく、と言って総長は背中を向けた。

「……ありがとうございます」

その背中に深く頭を下げて、その場を辞した。

ほっとした。これでルナの立場は守られそうだ。俺も、ルナを探しに行ける。

ただ、そうは言ってもどうやって探せばいいのか。

何か手がかりがあればいいのだが。


悩みながら歩いていると、魔法士長殿と出会った。俺を探していたらしい。

「総長が、情報収集担当の妖精の中にルナの情報を持つものがあればベル隊長に知らせるように、と。情報管理室まで一緒にお願いします」

情報管理室。そこでは妖精を使って集めた情報から魔物に関するものや犯罪に関するものが無いかをチェックしている。

言われるままついて行くと、その部屋には1人の作業員がいた。終業時間はとっくに過ぎている。彼は夜勤の担当なのだろう。



「何か情報はありましたか?」

魔法士長殿が問いかけると、その作業員は魔法で動く装置を操りながら、ある記述を指差した。


妖精が見たもの聞いたものがこうやって記録されているのか。


「今日の夕方、アンディ・アンソン侯爵邸に入るルナを見た妖精がいますね。あ、っと。出たのも見てますね。滞在時間は…、1時間ほどのようです。定点監視用の妖精からの情報は無いので、まあ、上手に避けて歩いてるなって感じですね」


アンディ・アンソン侯爵邸…?

なぜ。

何か関わりがあるのか…?


「アンソン家と言えば、確かご令嬢のひとりが騎士団にいるのではありませんでしたか?」

「ああ。第6師団の所属だが、病気療養のため休職しているはずだ」

「よくご存知で…。ああ、アンソン卿とはご親戚筋でしたか」

思い出したように魔法士長殿が言うので頷いた。

親戚、といっても、近い親戚では無いし血のつながりもないから殆ど交流はないが、末の令嬢が病気療養中という話は聞いている。

作業員が情報管理の装置を操作すると、一冊のファイルが飛び出した。

「これですね。リサ・アンソン、第6師団所属。ちょうど1年前から休職していますね」

「ちょうど1年前?」

日付を確認すると、たしかに1年前、ルナを保護した翌日に休職の届が提出されている。

ファイルに載せられた写真には20代半ばの髪の長い女性が写っていた。華やかな容姿ではないが、涼やかな瞳できりっと前を見据える姿には凛とした美しさがあった。

「………………」


具体的な病名などの記載はないが、1年も休職しているとなると、重い病なのか…。

なんとなく、ルナに似ている気がする。

血縁、ということはあるだろうか。


総長から聞いているのかそれとも何かを察しているのか、魔法士長殿は何も言わなかった。

俺は礼を言って隊舎に戻った。



もうだいぶ遅い時間だったが、隊舎に戻るとクルスとロンが待っていた。


「隊長、ルナは…?」

「取り敢えず、書類上は研修に行った、ということにしてくれるそうだ。俺は、休暇を取れと言われている。すまないが、しばらくの間、隊のことを頼みたい」

掻い摘んで説明すると、2人とも神妙な顔をした。

「休暇中の私的な行動としてルナを探せってことっすか…」

まあ、そういうことだな。

「探す、と言っても手がかりがありませんよね…」

「それなんだが、アンソン侯爵邸に立ち寄ったことが分かったんだ」

情報管理室でのことを話すと2人の表情が少し明るくなった。

「話を聞きに行きますか?」

ロンはすぐにでも立ち上がりそうな勢いだが、まあ落ち着け。

「騎士団の調査として行くわけじゃない。不躾に押しかけるわけにはいかないだろう」

「では?」

「実家経由で訪問の申し入れをする。リサ・アンソンの見舞いという名目ならそれほど不自然ではないだろう」

本当なら俺だって今すぐにでも訪ねたい。

落ち着かない気持ちで数日を過ごした。


俺は毎晩月を見上げるようになった。

ルナがそうしていたように。

月は日に日に痩せていく。少しずつ、少しずつ。

ルナ。

お前もこの月をどこかで見ているだろうか。


アンソン侯爵邸を訪れることが出来たのは3日後のことだった。

対応してくれた執事に淡い色の花でまとめた花束を預けると、彼は優しく微笑んだ。


アンソン侯爵は温厚な紳士だ。

久しぶりに会うが、穏やかで優しい笑顔で迎えてくれた。

「やあ、レオン。今日は娘のためにありがとう。せっかく来てくれたのだが、娘は今この屋敷にはいなくてね」

「そうですか。別の場所で静養を?」

空気の良い静かで自然豊かな土地で静養をする、というのはよくあることだ。


アンソン侯爵はそれには答えず、執事の淹れたコーヒーを勧めた。

「……美味い。とても美味しいコーヒーですね」

「そうだろう? うちの執事のコーヒーは我が家の自慢だ」

芳ばしい香りとコク、深みのある苦味。酸味の少ないコーヒーの味はルナが淹れてくれるものに似ている…。


「隊長の仕事は大変だろう? ちゃんと身体を気遣っているかい? そう言えば、年末も騎馬隊はずいぶん活躍をしていたようだね」

アンソン侯爵はにこにこと話しかけてくれる。

ルナのことをどう切り出そうか。

「…年末の討伐は、うちの隊に配属になった小さな魔法士が頑張ってくれたお陰で無事に成功させることが出来ました。1年前、私が保護した身寄りのない子で、私が後見人になっています」

「………………」

アンソン侯爵は静かな笑みを浮かべたまま、俺の話を聞いている。

「名前を尋ねても答えないのでルナと名付けました。その子が3日前から行方が分かりません。3日前、こちらを訪ねて来たはずです。ご存知なら、教えて頂きたいのです。あの子が今何処にいるのか」

穏やかに微笑んだまま、じっと俺を見つめていたアンソン侯爵は黙ったままなにかを考えているようだ。

やがてひとつ、小さく息をつくと、執事に向かって、

「あの写真を持ってきて」

と言った。


写真…。


見せられた写真は、覚えのあるものだった。だが、ずいぶんと昔の写真だ。

「これは…」

「覚えているかい? 20年くらい前かな。君の兄君と妻の妹の結婚式の写真だ。妻と妹は歳が離れていてね。しかも妻は私と結婚したのが早かったからこのときには子供たちがもう皆生まれていた。ほら、これが君、君の兄君、妻の妹、妻、私、そしてこれが…」

指差される先を目で追って、そして、息を飲んだ。

そこに写っていたのは…。

「…ルナ?!」

薄いブルーの可愛らしいドレスを着せられた少女がすまし顔で微笑んでいる。

いや、そんなはずは無い。その顔はルナそのものだが、これは20年前の写真だ。ルナであるはずがない。


呆然と写真に見入っているとくすりと笑う声が聞こえた。

「それが、末の娘のリサだ。君たちがルナ、と呼んでいる少女だよ」

「どういうことです?」

リサ・アンソンは20代半ばの女性だ。つい先日、写真を見たばかり…。

改めて写真を見た。


この写真に写っている少女が、リサ・アンソン…。


兄の結婚式にアンソン家の6人の令嬢が出席していたのは覚えてる。6人のうち、下の2人は幼くて…。

そうだ。一番下の娘だというその令嬢は、ワスレナグサを思わせる色のドレスを着ていた。

利発そうな瞳を輝かせ人見知りすることなく懐い、て…。


「……………」


だが、「リサ」(イコール)「ルナ」とはどういうことだ?

リサは成人女性で、ルナは6歳の少女だ。

イコールであるわけが…。


俺は混乱していた。

「そうだね。どう話したらいいかな。まあ、リサの言葉をそのまま言えば、魔女の弟子に魔法をかけられてしまった、のだそうだよ」

「魔法、を…?」

「そう。魔法をかけられて子供の姿に変えられてしまった。1年の期限以内に魔法を解除出来なければ二度と元の姿には戻れない、そういう魔法らしい」

「な…っ。それはずいぶん…」

酷い、残酷な魔法ではないのか?


そんな魔法が、本当に?

では、ルナは、魔法で子供の姿に変えられたリサ・アンソンだったというのか?


信じ難い…。だが、そう言われると思い当たることもある。

6歳とは思えない、知識、大人びた言動。

でもそれが、26…、いや27か。27歳のものであればおかしくは無い。

27歳だとしても、その行動力、聡明さ、心の強さは特出していると言えるだろうが…。



「私は、魔法のことはよく分からない。この家で魔法が使えるのはリサだけでね。ただし、本人にはそれを内密にするよう教えてきた。家族でも知っているのは私と執事だけだ」


リサ・アンソンは魔法が使えた…。


「なぜ、内密に?」


魔法が使えることを隠す、というのはあまり聞かない。

魔法を使える者が稀なこの国では重宝される存在だからだ。

使える魔法によっては、収入に困ることはないだろう。

アンソン侯爵は困ったように少しの間思案し、俺を見つめて、それから口元に笑みを作った。


「…あの子の魔力はとても強くてね。発現した当初から将来を危ぶむほどだった。万が一あの子が、魔力を暴走させたり、魔法を使って人の道に外れた行為をした場合は、取り返しのつかないことになる。可愛い娘を犯罪者にしたくはないからね。だから私はあの子を友人の魔女に預けて修行をさせたんだ」


ルナも、魔法の師は魔女だと言っていた。


「あの子には、あの子の魔力が他の魔法を使う者と比べて特別に強いということを知らせなかったし、魔法を使えば簡単に出来ることも、魔法を使わずに行うよう指導した。過ぎたるは及ばざるが如し、と言うだろう? あの子の魔力は強過ぎたんだ。役に立つ場面もあるかもしれないが、正しい知識、制御する力、強い精神、そして正義。どれが不足しても危険の方が勝る。だから、極力魔法を使わないよう仕向けたんだよ」


ルナも、魔法の書を全て読める、と言うことがどれだけすごいかを知らなかった。

そして、魔法を使うよりも使わないことを良しとする考え方も…。


やはり、ルナがリサ・アンソンだということに間違いはないのか。

そういえば、ルナは保護してから1年、体格の成長が見られなかった。あれも、魔法で子供の姿に変えられていたせいだということか。


「リサは魔法で子供の姿に変えられた後、その魔法を解くために一年頑張ったけれどだめだった、と言っていた。何がどうダメだったのか、私には分からない。リサは言っていたよ。優しい人がそばにいてくれたと。君のことだろう? あの子に良くしてくれて、ありがとう」


アンソン侯爵はそう言って微笑んだ。

礼を言われたことよりも、その直前の言葉に呼吸を忘れた。

魔法を解くために頑張っていた、とは…?


走った後のように心臓の音が煩くて、考えが上手くまとまらない。

身体中の血が、冷えていくような気がした。


ルナは引き取った当初から、やけに口付けにこだわっていた…。


「なぜ…?」

「なぜ、魔法にかけられたことを黙っていたのか、かい? さあ、どうしてだろうね? でも、どうだろう。もし私が、本当は子供なのに魔法で大人の姿に変えられてしまったのだ、と言ったら、君はそれを信じるかい?」

「………………」

「魔法を使って大人の姿になったり子供の姿になったりする、なんて聞いたことがない。そんなことが出来るとも思わないさ。誰もね」


ルナは度々口にしていた。

キスして欲しい、と。

ませたことを言う、と思っていた。

普段から大人びた言動をしていたし、背伸びしたいのだろうと…。

だが、もしもそれが、魔法を解くために必要だったのだとしたら?


期限は1年、と言ったか。

だとすれば、あの晩は最終日だったのではないのか?


もしかして俺は、取り返しがつかないことをしたのではないか。そう思うとぞっとする。


心臓が、締め付けられるように痛んだ。ルナ…!


「喋り過ぎたかな。レオン、あの子が魔法を解けなかったことについて、君が責任を感じる必要はないよ。それはあの子自身の問題だからね。そうやって、君が自分を責めることはあの子の望むことではない」

心を読んだようにアンソン侯爵が言った。

「ですが…!」

「たとえ、君にあの子の魔法を解除することが出来たのだとしても、君はそれを知らなかったのだから。人の行動にはたくさんの分岐点がある。だが、何も知らない君があの子の魔法を解除するという分岐点はきっとどこにも無かったんだ。それを知った今だからこそ振り返ってその道を探そうとする。でもそれは徒労に終わるよ。そんなことは、しなくていい」


「ルナは、魔法を解除出来なかったから、出て行ったのですか…?」


なぜ、打ち明けてくれなかったのだろう。


「うーん。あの子の気持ちを考えると、どこまで話したものかと悩むね」

「教えてください。お願いします!」

頭を下げると、まあまあ顔を上げなさい、とのんびりした口調で言って、執事にコーヒーを淹れ直させた。


「先に言っておくと、あの子はちゃんと元気にしているよ。さっき言った、私の友人でありあの子の師匠でもある魔女のもとでその手伝いをしている。もしも境遇を心配しているのならその必要はないよ」


アンソン侯爵の言葉は優しい。俺を気遣って言ってくれていると分かる。


「ルナが元気でいる、ということ自体は良かったと思います。ですが、それだけでなく…」

「ああ。そう言えば、君はあの子の後見人になっていると言っていたね。あの子が姿を消してしまったことで、君の立場がまずいことになるのかな。それはちょっと、良くないね」

たしかにそれはそうなのだが、立場を気にしてここに来たわけではない。

アンソン侯爵は今日会った最初から、変わらずに穏やかに微笑んでいる。

その瞳をまっすぐ見据えた。

「俺は、もう一度彼女に会いたいんです。会って話したい。連れ戻したい、と思っています」

はっきり伝えると、わずかに目を見張ったあと、アンソン侯爵はふふっと嬉しそうに笑った。

「あの子を愛している?」

「はい」

「そうか。じゃあ、可哀想だったね」



それから、アンソン侯爵が話してくれたのは、ルナが身を寄せている魔女のことだった。

黎狼の魔女、と呼ばれているらしい。国から賜ったその魔女の土地は、イバラの森で囲まれて部外者の侵入を阻んでいるという。

「あいつもあの子を可愛がっているからね。意地悪されるかもしれないけど、あいつはただ性格が悪いだけだから遠慮せずやり返せばいいよ」

「…………………」

それは一体どんな友人関係なんだろう。

答えに窮していると、また、嬉しそうに笑う。

嬉しそう…、いや、楽しそう…、か?


「あの子は恋愛ごとにあまり関心がなくてね。騎士団に入ったのも結婚せずに生きていくためだと言って憚らないような子だ。だけど君のそばで過ごして、あの子の気持ちも変わったようだ。あの子も君を想っている。あの子の心の成長を嬉しく思うよ」


そう言ってくれたアンソン侯爵に礼を言って、イバラの森へ向かった。



その森は、西に連なる山脈の麓にひっそりとあった。

無関係な人間の立ち入りを拒む不穏な気配が溢れて、近寄り難い恐ろしさを感じさせる。

そんなことで、怯んだりはしないが。


入り口はあるのか、森の中に道はあるのか、注意深く窺いながら周りを歩いていると、ふと、視線を感じた。

「ーっ!」


いつの間に…。


振り返ると、すぐ目の前のクスノキの巨樹の下、男がひとり立っていた。

二十代くらいに見える、黒髪の若い男。

それが巨樹を背に腕を組み、俺を眺めていた。まるで観察するように。

一体いつから…。


俺が気づいたことに、気づいたのだろう。

その男は実に胡散臭い笑みを浮かべた。

「やあ、あんたがレオン・ベル?」

「…そうだ」

アンソン侯爵の話ぶりからそんな気はしていたが…。

「僕の森へようこそ」

やはり。

アンソン侯爵の友人でルナの師匠だという魔女は、男だったか。


「黎狼の魔女?」

念のため確認すると、そうだよ、と答えた。

ならば。

「ルナに、会わせて欲しい」

いけ好かない笑みを浮かべたまま、魔女は首を傾げた。

「ルナ? ああ…。……なぜ?」

なぜ?

なぜ、とは?

「なんで、あんたをあの子に会わせなくちゃいけないのさ」

「……………」

真意の掴めない、飄々とした態度に苛立った。

会わせる気がない? それとも、試されているのか。

「迎えに来たんだ。ルナを連れて帰るために。ルナに、会わせてくれ」

「連れて帰る? あの子を? 分からないなぁ。あの子は自分の意思でここに来たんだよ? あの子の意思に反して、無理矢理連れて帰る気なのかい?」

「無理矢理? ちゃんと話をすればそんなことにはならないさ」

魔女はふん、と鼻先でせせら笑う。

「馬鹿だね。あの子がなんでここに来たか、ちゃんと考えたの? それとも直接言われたいの? 『あなたのせいで元の姿に戻れなかったのよ』って?」

「っ!!」


落ち着け。動揺するな。

これは、アンソン侯爵が言うところの「意地悪」というやつだ。やり返せばいいと言われたじゃないか。

ルナを可愛がっているというこの魔女は、俺のことをどう思っているだろう。


そっと深呼吸をして、静かに口を開く。

「やはり、俺のせいなのか?」

「さあね? でも、あの子が元の姿に戻るために何を必要としていたのか、気がついているんだろう?」

「……………」

「あの子が、どれほどの覚悟を持って元の姿に戻ることを諦めたのか、あんたに分かる? これから先ずっと、あの子は子供の姿のまま、外見が成長することはないんだ」


魔女の言葉が胸に刺さる。


「そんなあの子を連れて帰って、成長しないあの子を目の当たりにして、胸が痛まない? 可哀想だと思うんじゃない? 負い目を感じない? あの子は思うよ。あんたが胸を痛めてるんじゃないか、可哀想だと思われてるんじゃないか、負い目を感じているからそばにいてくれるんじゃないか、ってね。そんな状態を幸せだと言えるかな。あんたとあの子はお互いに相手の傷だ。そばにいても辛いだけ。それに、あの子があんたを恨むようになるかもしれないよ?」


ルナが俺を恨む?

ほんの3日前まで、共に過ごしていた。

ルナの笑顔も俺を呼ぶ声も、こんなにも鮮やかに思い出すことが出来る。

惑わされるな。

ルナはいつだってまっすぐに好意を向けてくれた。想いを寄せてくれた。

ときには身体を張って俺を守ろうとしてくれたじゃないか。

迷うな。ルナの気持ちを疑うな。


「どんな姿でも、ルナはルナだ。負い目を感じようとも、それとは関係なく俺は彼女を愛しているし、ルナが俺のそばにいて、幸せでないなどあり得ないさ。だから、連れて帰る」

俺は、余裕たっぷりに、傲岸不遜に、言い放った。

目を見開いて少しの間俺を見ていた魔女は、口角を上げ挑発するような笑みを浮かべた。

「愛している?」

その鋭い視線を跳ね返すように見返す。

「そうだ」

「ふうん。じゃあ、証明してもらおうか」

そう言って、魔女はニヤリと笑った。

証明…?


「視力を失った状態で、この森を抜けて僕の住居までたどり着けたらあの子に会わせてあげる。期限は半年。効果を盛ってる分、条件が厳しくなるのは仕方ないよね。どうする、やる?」

途中、ぶつぶつと独り言のように呟きながら魔女が言った。

「視力を失った状態で?」

「そう。ちなみに、この森はイバラの森と言われている通り森中にイバラが蔓延っている。僕の住居までイバラはずっと続いているよ。それに魔物もいる。尻尾を巻いて逃げるならどうぞ」

魔物。いかにも出そうな森だ。

出そう、と言うか…。お前が出すんだろう、と言いたいが。

視力を失った状態で。それは相当困難なはずだ。一度でも通ったことのある場所ならともかく、初めての場所を見えない状態で歩く。

イバラの蔓延った、魔物の住む森を。


どれほど困難であろうとも、やらないという選択肢はない。ルナ。この森の向こうに、お前がいるのなら。


「悩まないんだね」

意外そうに魔女が言う。

「当然だ」

「そう。じゃあ、始めよう。このクスノキが入り口の目印だ。見えなくても触れば分かる。覚えておくといい。半年後、もしも、森を抜けられなかった場合、君の視力は返してあげるよ。視力を失ったままだと、あの子がそれを知ったとき、悲しむからね。でも、代償としてあの子にはどんなことがあっても、未来永劫、二度と会えなくなるよ。お互いに会いたいという意志があっても、絶対にそれは叶わない。磁石が反発し合うようにあの子には近づくことも出来なくなる。じゃあね。せいぜい、頑張って」

最後に意地悪く微笑んで、魔女がパチリと指を鳴らすと視界が闇に閉ざされた。


「っ?」

見えない。魔女の気配も消えた。

明かりのない暗闇を歩くのとは違う。一歩踏み出すのも躊躇う、本能的な恐怖がある。


どうしたものか。

この森の大きさ、広さの見当がつかない。

万が一、何日も彷徨うことになった場合のために、簡易的な食料と水が必要だろう。


妖精を使ってクルスに事情を説明し、必要なもの、概ね遠征の際に持って行くようなものを用意するよう頼んだ。

荷物をまとめて持ってきたクルスは、見ることは出来ないが、心配そうに眉間にシワを寄せているだろうことが分かる。

10日以上戻らなければ休職の扱いにするように指示し、森の中では妖精は使えないだろうからクルスに預けようとしたが、念のために連れて行けと言われてそのままにすることにした。


ルナが置いていってくれた薬をお守り代わりに首から下げ、クルスにクスノキの巨樹に手が触れるところまで連れて行って貰った。

「ありがとう。行ってくる」

「ご無事で」

方向感覚にそれほど不安は無い。いかに広い森といえど魔女の住居にたどり着けないなんてことは無いと、そう考えていた。

心配するクルスに大丈夫だと告げて出発したのだが…。


魔女の森は、想定を遥かに超える困難な森だった。


その一つはやはりイバラだ。頭や顔、肩や足など、あらゆるところにトゲが掠めて、しかも結構痛い。

そしてなぜか、イバラを手で避けて進もうと伸ばした手にはイバラは触れないのだ。


触れようとして触れられるイバラも稀にあるのだが、殆どが触れようとすると触れられない。

で、あるのに。

身体の端々に当たって引っ掻いていく。

持ち主の魔女そっくりの捉え所の無い意地の悪いイバラだ。


もう一つはいつの間にか入り口に戻ってしまうことだ。

かなり歩いたと思う。だが、ふと伸ばした手に入り口のクスノキが触れるのだ。


迷い込んだ旅人を森の外に追い返す。そういう仕組みの魔法がかけられた森なのだろう。

おそらく、正しい道を見つけなければ、入り口に戻されてしまうのだ。


そして魔物だ。

襲ってくる気配、唸り声、触れる体毛から狼の魔物だろうと思う。

黎狼の魔女というくらいだし、間違い無いだろう。

これが度々現れては襲ってくる。

ほぼ無傷で撃退出来る時もあれば、結構な怪我をする時もある。

そんな時はルナの薬を飲んで凌いだ。


なにより、気づいて愕然としたことがある。

この森に入ってから、空腹を感じないということだ。

空腹を感じない。喉も乾かない。

つまり、時間の経過が、分からない…。


加えて、気温の変化も分からない。

太陽の熱を感じないのだ。明るさも暗さも分からない今、昼なのか夜なのかを肌で感じ取ることが出来ない。


疲労は感じるのだ。疲れて、眠って、目を覚ます。

そのとき、いったいどのくらいの間眠っていたのか、全く分からない。


「……………」

また、戻ってきたのか。

入り口のクスノキは魔女が言っていた通り、触ればそれと分かった。


何度戻ってきたのかももう分からない。


妖精は、予想通り使えなかった。呼び掛けても応答はない。だから一度森を出て何日たったかを確認しようとしたのだが、このクスノキよりも外側に出ることが出来ないのだ。


考えるのが怖い。いったい、あれから、何日が経ったのか。

期限は半年と言われたときそんなにかかるわけがないと思った。何のための期限なのだろうかと。

けれど、だんだんと不安になってきた。

期限の半年までに、本当にこの森を抜けることが出来るだろうか。

残された時間はどれくらいあるのだろう。

ルナ…。

会いたい。


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