第一話 奴が来た
ある満月の夜。俺は奴から路地裏を通って逃げていた。とにかく逃げるしかなかった。捕まったら何をされるかわからない。月は雲に隠れている。そのため、暗くて前がよく見えない。しかし、命の危機にさらされているからか、ここを数回通ったことがあるからか、逃げる方向がしっかりと分かった。時々見かけるゴミ箱を倒して奴が追いかけて来るのを邪魔する。
町の灯りが見えてきた。もうすぐ路地裏を出る。そうすればタクシー乗り場がある。そこでタクシーに乗って家に帰ればひとまず安心だ。最後にもう一度ゴミ箱を倒して行ってやろう。そう思い、俺はゴミ箱を倒すべく振り向いた。しかし…。
これほどまでに絶望したことは過去にあっただろうか。ムショに入ると決まった時でさえこんなに絶望しなかった。俺は感覚的には10メートルは離れているつもりだった。しかし奴が今いるのは俺のすぐ目の前だった。
俺は驚いた拍子に尻もちをついた。奴の顔は暗くて見えない。しかし、フード付きのロングコートを着て、右手に何か持っているのは分かった。
「なんで……。もっと離れてると思ってたのに……」
その言葉が引き金になったかのように月が雲の間から少しずつ顔を出し始めた。月光を浴びて奴の姿があらわになる。奴の顔はフードの陰で隠れていてまだ見えないが、しかし奴の姿は俺が考えていた姿とはかけ離れていた。奴が着ていたのは、襟はないがフードのある白衣。その下には返り血で赤く染まったTシャツ。白衣は両腕とも腕まくりをしている。腕と袖の境あたりにも返り血。そして奴が右手に持っていたのは、血が1滴2滴と垂れ続けているサバイバルナイフ。刃の長さは20㎝程だろうか。血がいまだに垂れているということは、俺の前に誰かが殺されたのか?
「・・・僕のこと・・・、わかる?」
俺は驚いた。奴の声は人間の声じゃねえ。少し高めの機械の声だ。ということは、奴は変声機を使っているのだろうか。
「誰だお前は。なぜ俺を追いかけた」
「・・・本当に・・・わから・・・ないの?」
「フードのせいで顔は隠れて、声も変えられちゃあ分かる人も分かんねえよ」
「・・・・・・」
そう言うと奴はフードを少しずらした。そして奴の顔もあらわになった。