幸せになろう
草を踏む音に、ぴくりと尾を揺らして彼は目覚めた。逞しい木々の間から覗く太陽が真上で輝いているのを認めた彼は、随分と長い間眠っていたらしい、とぼんやり思った。次いで音がした方を見れば、溢れんばかりの笑顔を携えた少女が自分を見上げている。
彼は、困ったように瞬いた。
竜とは、偉大にして孤高な生き物だ。神を除けば敵うものなどないとされる、あらゆる次元における最優良種だ。
彼らにとって竜種以外の全ての生き物は愚鈍で矮小な虫であり、竜種以外にとって彼らは、恐怖と羨望、信仰や敬愛、そして時には憎悪の対象ですらあった。故に、竜種が他の種と関わりを持つことはあまり無い。まして、竜がヒトと交友を持つことなど皆無だ。そのはずだった。
黒く艶やかな鱗をした美しい黒竜は、その翠の瞳を細めた。視線の先には金髪の幼い少女。
交友、ではないか、と竜は思った。そう、交友ではない。交遊だ、この場合。だからこそ、尚のこと良くない。自分にとってではなく、彼女にとって。いや、自分にとっても良くはないのかもしれないが、そんなことはそれこそどうでも良い。
ただ、彼女が幸せになってくれれば、と思う。それ以上もそれ以下も、彼は望まない。
ふと吹いた強めの風が、少女の金糸のような髪を掠い、木々がさわさわと音を立てた。風の手に髪の毛を掻き回され、ぱっと頭を手で押さえた少女が、ほんの少しだけ嫌そうに顔を歪める。瞬いた竜が、その大きな翼で抱くように少女を覆ってやると、見上げてきた彼女から再び笑顔が零れた。そして、ありがとう、と。竜の好きな声が紡がれた。
声が、好きだ。暖かく包み込むような柔らかな感じがいい。
少女の小さな手が硬い翼にふわりと触れ、硬質な鱗の上を滑っていく。
手も、好きだ。優しく撫でられるだけで、心が安らいでいく。
手を持たない竜は、翼をそっと動かし、少女の身体に触れた。小さくも確かな温もりが、竜の体温と溶け合う。それが時々自分を酷く傷つけるのだということを、竜が少女に言ったことは無い。彼にできるのは、ただ瞳を閉じ、胸の奥を蝕む小さな痛みに気づかないふりをすることだけだった。いつだってこの痛みは、一つの言葉を伴って彼を責めるのだ。お前は間違っている、と。
目を閉ざし続ける竜を、少女が見つめた。
「どうしたの?」
何処か心配そうな声に、竜が目を開ける。声帯から人の声を発することができない彼は、喉の奥で言葉を音に変えて紡いだ。
『話が、ある』
竜が少女から翼を離した。翠の瞳が、少女を見下ろす。
『俺とお前には、大きな差がある』
「うん」
『俺は、竜だ』
「うん」
何を今更、という顔が竜を見つめる。違う、こんな曖昧なことが言いたいのではない。ここまで来てまだ逃げようとする己に嫌気が差す。長い間悩んで、そうして決めたというのに。
『俺とお前の間には、歳の差、体格の差、何よりも、』
ざぁ、と風が吹いた。先程よりも強いそれが少女の髪を踊らせたが、少女は動かずに、じっと竜を見上げている。
『種族の差が、ある』
元来、竜は竜種以外を気に掛けることもしない生き物だ。竜種に及びうる存在があればその限りではないが、そんな生き物は数えるほどしか存在しない。故に、竜が竜種以外の生き物を道端の小石以上に認識することはほとんど有り得ない。それは疑いようもない事実だ。そして、竜があまりに偉大で強大であるが故に、ヒトを含む全ての生き物は彼らを恐れ、崇め、時に忌避した。
そう、竜種とそれ以外の間には、深い溝が存在するのだ。だからこそ今この場で起こっていることは、その全てが異端であり、誤りであり、罪そのものだった。
『お前は人間だ。故に、お前は俺よりも先に老い、俺よりも先に死ぬ。俺はお前が老いる姿を見て、お前が死んで逝く姿を見る。そして、人は俺を厭い、竜はお前を呪うだろう。俺はそんな時、お前を抱き締めてやることができない。守ってやることができない。……俺は、きっとお前を傷つけることしかできないのだ』
竜が頭を垂れる。ただ、幸せになって貰いたい。それが竜の唯一の願いだ。少女が微笑んでくれるのなら、それ以外はもう、何も要らなかった。
声が、好きだ。手が、好きだ。少女の全てが、少女を取り巻く世界それすら、愛おしい。だから、何よりも大切な幼い彼女に、つらい思いだけはさせたくなかった。
『もう、俺に会いに来るな』
竜が小さく笑った。ありとあらゆる次元における最良種が、なんという様だろうか。なんと愚かで無力なことか。たった一つの大切なものすら護れないとは。
彼女が年老いても愛しく思うという確信がある。彼女の最期を看取ってみせるという覚悟がある。あらゆるものから少女の身を守り通せるという自信がある。ではないものとは。
『俺も、もう此処には来ないから』
ただ、彼女の心を守る術が、ない。彼女が年老いた自分の姿を憂いた時、彼女がひとり死に逝く時、彼女が他者から憎悪の感情を向けられた時、そんな時、彼女の心までは、守ることができない。
「……あなたは、私が嫌いになったの?」
『そんなこと! 今だって、これからだって、お前を一番に愛している。お前以外は何もいらないくらい、ずっと、愛している』
「それなら、これからも会ったって良いじゃない」
にこりと笑んだ少女に、竜が呆気に取られた。この少女は竜の話を聞いていたのだろうか。
『お前、何を、』
「だって、あなたは私を愛してるんでしょう?」
全く会話が成り立っていない。少女の言葉を理解できない自分が馬鹿なのかどうかは判らないが、とにかく会話が成立しない。
困惑する竜を余所に、彼から離れた少女は、近場にあった大木に駆け寄り、それに手を掛けた。ぐい、と腕を使って身体を持ち上げたかと思うと、ざらざらした木肌を上手く使い、スカートのくせにするすると器用に木を登っていく。
驚いたのは竜だった。みるみるうちに落ちたら危険だという高さまでよじ登っていった少女に、目を剥くこと一瞬、すぐさま木の傍まで駆け寄った。
『何をしている! 危ないだろう!』
「平気だよ。練習したもの」
そういう問題じゃないだの、俺がいない時にそんな練習はするなだの、言いたいことがありすぎて混乱した竜は、結局何も言えなかった。
そんな竜を余所にぐいぐいと木を登っていた少女は、急にぴたりと動きを止めた。次いで、手頃な枝に移動して腰を掛ける。そして、竜の方に向き直ったその瞳が竜の瞳を映したとき、二人の目線の高さは、ほとんど同じだった。
「体格の差は、これで解決」
自信たっぷりに言い放った少女に、これは体格ではなくて身長だ、と呟いた竜は、鮮やかに無視された。
竜は何故か、鈍い痛みが、ほんの少しだが和らいだ気がした。
「歳の差は、私が早く大人になるから大丈夫」
何が大丈夫なんだ。
頭を抱えたくなった竜だが、抱えるための翼は、少女がいつ落下しても平気なように救出準備をしているため、ぐぅと低く唸ることしかできなかった。
ふと、少女が口を閉ざす。そして、何かを思案するようにじっと竜を見た。小さく何事か呟いた次の瞬間、少女の身体がするりと枝から滑り落ちた。
バランスを崩したのではない。彼女は明らかに、故意に身を投げた。何故そんな行動に出たのかは判らない。だがしかし、竜の咄嗟の行動は迅速かつ適確だった。
瞬時に身を屈め、翼を水平に広げる。同時に、風霊に命じて少女の身体を風で柔らかく掬い上げさせつつ、皮膜の部分で少女を器用に受け止めた。決して、翼を支える骨格に、少女がぶつかる事の無いように。緩やかな落下に合わせて翼を軽く下げることで、少しでも少女にかかる衝撃が和らぐように。竜の行動は、その全てが少女への思いやりに溢れていた。
とさり、と軽い音と共に竜の翼の上に降りた少女は、竜と目が合うと、にこりと笑った。屈託の無い笑みに、竜が思わず声を荒げる。
『お前は! 一体何を考えているんだ! 一歩間違えれば死ぬところだったんだぞ!』
「でも死ななかったよ?」
『だからそれは!』
「私ね、」
俺がたまたま間に合ったからだ、と続けようとした竜を、少女の澄んだ声が遮った。
「私、死ぬつもりなんて無かったよ? だって落ちてもあなたが助けてくれるもの。でも、あなたが居なかったら私は死んでたね」
『……何が言いたい』
少女を慎重に地に降ろしてから、黒竜が低く問う。勿論、それは返答を求めた問い掛けだったがしかし、少女は何も言わず、ただ竜の方へと手を伸ばしてきた。少し躊躇うように視線をさ迷わせてから、ふ、と息をついた竜は、大人しく少女の前に頭を運ぶ。そこに、温かな手が触れた。掌が、肌を滑る。つむって、という声に、竜は反射的に目を閉じた。その瞼に、少女の小さなくちびるが落ちる。
『……止めろ』
「どうして? だって私はあなたを愛してるのに」
『頼むから……、もう……止めてくれ』
閉じた瞼の端が熱い。そこにまた、くちびるが優しく触れる。
気が狂いそうだ。どうして彼女でなくては駄目なのだろう。どうして自分なのだろう。竜だから。人だから。全てが違うのに。全てが、間違っているのに。
「ねえ、あなたはきっと難しく考え過ぎなんだよ」
少女の言葉に、竜はきつく閉じていた目を開けた。翠の瞳が少女の姿を映す。
「私はあなたより早く姿が変わってしまうし、あなたより早く死んでしまうよ。だけど、あなたがつらくないなら、私はそれまであなたの隣にいたい。人も竜も、私たちのことを良くは思わないかもしれないけど、あなたがそれでも構わないなら、私はあなたと一緒に生きていきたい。そう思うのって、いけないことなのかな?」
『いけないのでは、ない。間違っているんだ』
搾り出すように発せられた声に、少女が首を傾げる。
「何が正しくて何が間違ってるかなんて判らないよ。普通じゃなかったら間違ってるの? でも私は何が普通なのかだって判らない。みんなと違ったら普通じゃないの? じゃあみんなって、誰?」
竜は、何も言えなかった。そんなことは竜だって判らない。判りたくもない。だが、彼は万能の最良種であるが故に、自分たちが間違っているということだけは判ったのだ。思い込みでも何でもなく、自分たちの全てが過ちであるというのは、覆しようのない事実だった。
さっ、と竜が首を引いた。高くなった翠を、少女が見上げる。
竜という生き物が表情を持つことはない。だが、少女は竜を見て、哀しそうな顔をした。
「泣かないで」
『泣いてなどいない』
「でも泣きそう」
竜に、表情はないのだ。涙も、決して他者には見せない。なのに、視界が歪む。少女の輪郭がぼやけ、波打つ。思考は狂い、頬を伝うものが何処からくるのかも判らない。何も、理解できない。
表情が無いからこそ、流れる涙が全てを語った。竜の痛みを、哀しみを、そして優しさすらをも。溢れ落ちた大きな雫が、少女のすぐ前の地面にぶつかって弾ける。ぱしゃりと跳ねた雫は、彼女のスカートの裾を濡らした。
昔、竜は哀しい生き物だな、と、言われたことがある。あれは誰だったか。いつの話だったか。遠く、遥か昔に、確かにその言葉を聞いた。もしかすると、先祖の血の記憶なのかもしれない。世代を跨いで先祖の記憶が甦るという現象は、竜の間では良くあることだ。
――竜は哀しい生き物だな。涙を流すことでしか哀しみを表に出せないなんて。人の様に表情にすることもできず、動物のように吠えることもしないのだから――
声が、甦る。竜は誇り高い生き物だ。苦しみに咆哮することなど、あってはならない。だが、それを哀しいなどと思ったことはなかった。
ざぁ、と吹いた風が、竜の涙を拭うように肌を撫でる。それでも涙を流し続ける竜に、少女は咲きこぼれるような笑顔を差し出した。
「幸せになろう。何も悩まなくたっていいから」
どうして。
どうして、彼女はこんなにも強いのだろう。まだ幼いが故に、恐怖を知らないからか。それとも、本当に全てを受け入れているのか。
少女のたったひとことで、やっとの思いで固めた竜の決心は、いともたやすく崩れ落ちてしまった。
彼女は種族の差について触れなかったのに。結局、まだ問題は残されたままなのに。気にしなくて良いのだ、と。他でも無い、彼女自身に全てを赦された。赦されてしまった。
竜はぐぅと低く唸った。ゆっくり目を閉じて、開ける。その拍子に頬を滑り落ちた一粒を最後に、その瞳にもう、涙は見えなかった。
『俺と、添い遂げると言うのか?』
呟かれた声に、少女は首を傾げる。こんな言葉すら判らないくらい幼いのだ。そんな彼女の未来を、今決定して良いはずがない。だが、決めるのは今でなくてはならないのだ。共に傷つくか、痛みを隠して平和を望むか。竜種にこの邂逅を気づかれる前に、決めなくてはならない。
『俺と、一緒に来るか? 憎まれ、傷つき、死の淵に立たされることになるとしても、お前はそれを望むか? 俺はきっとお前を守ってやれない。それでも、安寧を棄て、俺と共に絶望の空を、行くか?』
少女が微笑む。いつもと変わらない、あの笑顔で。
「連れて行って、あなたの空へ」
歌うように紡がれた声が、全てを決めた。竜が、微笑む少女を優しくくわえ、己の背に乗せる。少女は高くなった視線で世界を見た。太陽も、月も、雨も、風も、これからはずっと、この背で感じて生きるのだ。硬い肌にひたりと耳を寄せると、竜の音が聞こえた。心音のような、違うような。よくは判らないが、これが竜の音だというだけで、少女は安心できた。
「もう行くの?」
『ああ、早い方が良いだろう。……家族や友に挨拶がしたいか?』
「要らない」
あっさりとした返事に、そうか、と言った竜は翼を広げた。風を受け、力強く羽ばたく。ふわりと浮かび上がった彼は、空に向かう木々たちの間を摺り抜け、遥か上空に飛び出した。
「ねえ、愛してる。愛してるよ。愛してるの。愛してるから」
背の上の少女がくすくすと笑う。
「ねえ、私は幸せだね。だって大好きなあなたと、ずっと一緒なんだから」
果たして、この関係がもたらすものを理解しているのか。していて尚、幸せだと言うのか。竜には判らない。だから、竜は考えることを止めた。ただ、今だけは、微笑む彼女と柔らかく優しい時を過ごすのだ。
そしてまた、竜も笑う。
『そうだな。ならば俺も、幸せだな』
竜と少女は、何処までも行くのだ、この、哀しみと絶望に満ちた空を。それでも幸せが笑う、この空を。