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ムシのいる部屋で

作者: 犬崎 マサシ

初めての投稿になります。

お暇なときに読んでみてください!

いくつかの円形に並べられた蝋燭の火だけが、部屋を照らしている。

その蝋燭たちに見守られるように二つの大きな正三角形を180度回転させて重ねた幾何学模様、それを囲む円、記号、一般的に魔法陣とよばれるようなものだ。

しかしそれは決して美しいとは言えない。フリーハンドにより粗々しく書かれたようだ。

完璧でなくゆがんだ形が温かみでなくここではただただ不気味さ強調している。

さらにその魔法陣の中心には男が一人。いや男だったものが一つ揺れている。

今まさに自らの願い叶えるために自らの命を絶ったのだ。


----------------------------------------------------


パシッ

「蚊?」

「うん。」

管亜季は手の平で自分の血とともに潰れた蚊を見ながら答える。

少し血を吸われてしまったので、潰せても潰せなくてもこれから皮膚が赤く痒くなることは避けられないのだろうが、蚊をうまくつぶせたことに達成感を禁じ得なかった。

ただ罪悪感が全くないというかと言うとそれもまた違う。


その様子を見て隣を歩く男、平尾武人は少しほっとしていた。

少し前まで亜季は”死”に敏感で字面のとおり虫一匹殺せなかったのだ。

今、自分の血を吸った蚊とはいえ、虫を殺せるようになったことを喜んでも罰は当たらないだろう。

亜季にあったこの一か月間のことを考えれば彼女の不安定さを仕方のものとも思うが。。。


武人がそんなことを考えていると亜季は中空の何かを追うように目、そして首を動かしだした。

「どうしたの?」

「ハエ。。。」

武人は亜季の答えと目線を頼りに同じように中空に目をやる。

何度か亜季の顔と中空を目線を往復させることでようやくハエを目でとらえることができた。

亜季はハエから目線をそらせることなく小さな声で尋ねる。

「最近、虫よく見ない?」

「。。。いや。別に。。。」

別段虫が苦手というわけでもないために、”別に増えていない。”ではなく”別に気にしていない。”、”別に気にならない。”が正しいのだが、目線を自分でなくハエに向けたままなのが気に入らず適当に返事をしてしまう。

ただ季節は秋口であり、普通に考えれば虫は減っているのではないだろうか?と間違えてないないと武人は自分を納得させる。


「なぁ。。」

「・・・なに?」

亜季はまだ中空のハエを目で追っている。

「ちゃんと掃除してるか?」

武人は亜紀に素朴な疑問をぶつけた。


----------------------------------------------------

「はぁぁー」

他の学生も机に向かう大学の研究室で大きなため息をつく。

(なぜ怒らせるようなことを言ってしまったのだ。。。)

武人は自分の思慮の浅さをなげく。

すでに亜季の部屋には何度か入ったことがあり、掃除が行き届いていることを知っているので尚更である。

しかし武人には他に虫が増えそうな原因が思い当たらない。

(嫌われてないかな。。。?)

ちゃんと虫が増えた理由が理解して、贅沢を言えば解決策まだわかれば、何も言わずに去っていった亜季の機嫌も治るのではないか?

そんな希望を持ちマイナス思考を振り払うべく、武人はいい案はないかと顔をしかめる。



「はああぁぁーーーー」

結果、出てくきたのは先ほどよりも大きなため息だった。


「なんだ?幸せが逃げるぞ?」

そんな武人の大げさともとれるため息を相談に乗ってほしいオーラと勘違いし、話かけて来たのは武人と同じ研究室の手塚司だ。

「彼女と喧嘩か?」

なにかと恋愛に結びつける手塚を武人は少しに苦手に思っているのは武人の中だけの秘密だ。


「そんなんじゃないんだが。。。最近虫増えたよな?」

全くもって図星なのだめんどくさいことになりかねないので、間接的な相談を試みる。

「虫?」



「おまえ掃除してる?」

「それはいいから!」

なるほどこれはイラっとする、と武人は自分の思慮の浅さに再度落胆する。


「でも最近は鈴虫?コオロギ?よくわかんないけど、そういう声はするよな。

そういう意味では増えたかも?」


「?!」

なるほど虫といわれると、ハエや蚊のようなものを考えていたが確かに鈴虫、コオロギも虫は虫だ。

亜季は意外に風流な話をしていたのかもしれない。

目の前の男の恋愛脳のロマンチストなところはたまに役に立つ。

武人は自分の中の手塚の評価を一段階あげる。

「手塚!ありがとうな!話してみるは!」

「虫と!?」


手塚のメルヘンな発言に評価を下げてもとに戻しつつ、邪魔の入らない場所で亜季と会う約束をするために研究室を後にする。


----------------------------------------------------

やはり綺麗に整理されている。

一週間ぶりだろうか?武人が亜紀の一人暮らしをする部屋をぐるりと眺めた感想だ。

研究室を出て目的地もなくふらふらしながら歩きながら”会いたい””話したい”という意図をメッセージを亜季に送った結果が今の状況だ。



部屋に通され低い机の前に座ったのだが、亜季が飲み物を取ってくると台所に行ってしまいまだ何の話もできていない。


「えーっと。。。部屋綺麗だね」

「いつもと一緒だよ」

武人が第一声の失敗に頭を抱えそうになると、亜季が麦茶の入ったグラスを二つ持って台所から部屋にもどりながら武人にとってありがたい言葉をかける。


「虫なんっっっ!」

虫なんていない。そう武人は言いかけたが、顔に液体がかかり言葉がさえぎられる。

顔上げると満杯近くに麦茶の入って亜季の手の中のグラスには半分ほどの麦茶しか入っていなかった。

そこから想像できるのは怒った亜季が麦茶を顔にかけたということだが、武人は視線をグラスから亜季の顔に移し、杞憂だと悟る。

その表情が表すのは武人への怒りではなく、恐怖それから驚きと言ったところだ。

そして亜季の視線の先には武人ではなく麦茶を半分のみたたえたグラスの淵にとまるハエ。


武人は「虫なんていない。」という言葉は自分の中で撤回をし立ち上がり右手の甲でそっとハエを払い亜季の様子をうかがう。

「大丈夫?」

「うん。。。」


亜季は武人のほうをようやく見ると、はっとしてまた台所のほうに行ってしまった。

「ごめん。お茶かかったね」

亜季の手にはタオルが、表情は恐怖のようなものはもう見えなかった。

(ハエがコップにとまっただけだからな。。。)

武人は表情がよく知る亜季のものになったことに安心する。

「。。。拭きなよ」

タオルを受け取ったまま自分の顔見て動かない武人に耐え切れずに声をかけて、顔をそむける。



沈黙。。。20秒というところだろうか。

「そういえば虫って。。。」

武人はなんとかその空気にたえかねて本題に入る。

「うん。さっき見たでしょ?ハエ」

「えっ?」

「えっ?」

鈴虫?コオロギ?とはなんだったのか。武人の中での手塚の評価が再度不条理にも下がる。


その日、武人は話があると言ってしまった手前、その場しのぎの大学の講義、最近潰れた大学の近くのコンビニの話などをして武人は亜紀の部屋を後にした。

----------------------------------------------------

武人は自分の部屋の天井を眺めながら耳をそばだて目を凝らす。

亜季の部屋よりも散らかっており台所と一続きの一階ワンルーム。

だが、ハエはおろかコバエの羽音も姿も認めることができない。


武人はハエがいないことを確認し、今度は目を瞑り亜季のことを考える。

確かに亜季の家にはハエがいた。だけど見たのはたった一匹。

亜季はなぜそれを気にするのだろう?それに一瞬とはいえあのおびえ方。。。


あのことで色々なことに敏感になっているのかもしれないが、それにしても亜季の反応は異常に思える。

それとも自分が男だから理解できないだけで、女性とはあんなものだろうか?


「うーん。。。」

「よし!」

武人は亜季に明日また家に行くとメッセージを入れると返事を待たずに眠りについた。


----------------------------------------------------

武人は亜季の部屋の真ん中でたたずんでいる。

両手には行きに100円ショップで買ったハエたたきを一つずつ握りしめている。

このポーズに落ち着いてからどれくらいたっただろうか?

10分、いや20分だろうか?もしかしたら1分経っていないのかもしれない。

それとも1時間経っているだろうか。

意気込みと緊張と居心地の悪さで武人は時間感覚を失っていた。

それというのもハエがいないのだ。

亜季はハエはほぼいつでもいると言う。武人が着く直前まで飛んでいたという。

だがいないのだ。羽音もしない。もちろん視線の端で飛んでいること感じることもない。

亜季にも見つけたら言うように伝えているが、亜季も部屋の隅で所在なさげにたたずんでいる。


「たけ。。」

「いたかっ?!」


亜季が武人に声をかけかけたところで武人は過剰な反応で声はかき消される。

武人もまた自分の予想以上の大声に戸惑う。

「ごめん。。。

それで、えーっとハエは?」


「いないみたい。。。武人のやる気がすごいから、逃げていったのかな?

普段こんな気にならないことないから、本当にいないんだと思う」


「そうなのか。。。」

武人は肩の力を抜くと疲れに襲われる。

「もう帰ろうかな」

「え?ご飯食べてかない?」

「いや。。。いいや」

せっかくのお誘いなのだが、武人は緊張感がぷっつりと切れと事による疲れで、

今すぐに自分のベッドに潜りこみたい衝動を抑えきれずに逃げるように玄関に向かう。


「じゃあ、また」

「うん」

亜季はそれ以上引き留めることはなく武人の帰宅を見送る。

天井からぶら下がる照明の裏でおとなしくするハエもまた、亜紀にならい武人の帰宅をおとなしく見送った。


ガチャリ。

武人が部屋を出て扉がしまる音。


・・・

・・


ブーン

ドアの音が閉まるすべての余韻が終わると無音の世界を許さないとばかりに虫の羽音が無音の部屋を支配する。


亜季は部屋の支配者に気づき、目を瞑り耳をふさぎできるだけ身を小さく、見つからないように、そこにいないかのように振舞うために膝を曲げ丸くなる。


亜季は理解した。ハエの明確な意思を。自分を執拗に追う意思を。


亜季は理解している。あれはハエだ。

あの時とは違う。人ではない。殺してしまって構わない。

あの日に蚊を殺したように。今日武人がやろうとしたように。


しかし亜季は目を開けることも耳をふさぐ手をどかすこともできない。

怖い。存在を少しでも多く感じるのが怖い。

あの時。。。あの男。。。ストーカーがいた。。。いやストーカーが死ぬ前と同じだ。。。

24時間監視されているような、自分のすべてを知られているような、あの時と同じだ。。。

あの時も思った。怖い。存在を少しでも多く感じるのが怖い。

あの時も今と同じように身を小さくした。特に一人のときは。。。

今までも何となく感じていた部屋のハエへの既視感が、ストーカーへのものだと悟り恐怖心が甦る。


そして亜季は”あの時”の終わりを思い出してしまう。

ずっと忘れようとしている記憶を。

2か月ほど前の朝、警察の人が家に来て私に告げた。

ストーカーの死。歯切れ悪く伝えられた自殺。

本当は私には伝えられないはずであっただろう、なにかの儀式のような死にざま。


”あの時”の終わりは相手の死だった。

ならば今回も相手が死んでくれればいい。

それに今回はハエなのだ。自分で殺してしまってもいい。たったそれだけだ。


(よし。。。)

亜季は強く瞑った目を開ける。

自分の足元、自分の床が目に入る。

視界の中にハエはいない。

次に耳をふさぐ手をどける。

覚悟を決め周りに音にに集中するとまずは耳鳴りの甲高い音が世界を支配する。

・・

・・・

1分、いや5分だろうか耳鳴りの支配する世界に身をゆだねる。

亜季は生まれて初めて耳鳴りが終わることを寂しさを感じながら、覚悟の変わらないうちに耳鳴りの終わったことに感謝する。



・・・・・・・・・・・・・・・


しかし亜季の覚悟を他所に耳鳴りの変わりに世界を支配したのは壁にかかる時計の秒針の刻むリズムだった。

----------------------------------------------------


翌日。

亜季は迷っている。

武人に昨日のことを言うべきだろうか。

あの後、亜季がハエの存在を感じることはなかった。

もうあの部屋にはいないのかもしれない。


そして今日、なんて声をかければいい?

ハエのことは触れるべきだろうか?

昨日来てくれたことにお礼を言おうか?

----------------------------------------------------


同時刻。

武人は昨日のことを考えている。

結局ハエを殺すことはできなかった。

もうあの家にはハエはいないのだろうか?

すぐに帰ってしまったが、あの後も残っていたほうがよかったのではないだろうか?


そして今日、なんて声をかければいい?

ハエのことは触れるべきだろうか?

昨日帰ってしまったことを謝ろうか?


「あっ」

「あっ」

距離にして3m

亜季と武人が同時に逆から来る相手に気が付く。

「おはよー]

武人はまだに何を言うかの整理が全く進んでいなかったが、とりあえず挨拶をすることに成功。

「き、昨日は。。。」

次の話題は決めていないがとりあえず言葉をつづける。

しかし話題を決められない焦りから目が泳ぐ。

亜季の顔、亜季の白いシャツに茶色いロングスカート、亜季の後ろには少し色好き出した街路樹、行ったこともない講堂、亜季のすぐ後ろに飛ぶハエ。

一匹のハエが亜季の後ろを旋回している。亜季に止まるわけではなく離れるわけでもなくただ飛んでいる。

目がハエの存在を認めると耳もわずかな羽音をとらえる。

自然に目はハエを追い、耳は亜季の声ではなく羽音に集中していしまう。


亜季は会話を途中でやめ視線を動かす武人に気づき武人の視線を追う。

薄く雲のかかった空。。。武人。。。

大学の校舎。。。武人。。。

武人の視線を追うために武人の顔と自分の背後を交互に見る。

自分が直前まで歩いていた道。。。武人。。。薄く雲のかかった空。。。武人。。。

そしてついに武人と亜季の視線はシンクロを始める。

。。。ハエだ。


武人も亜季もその後、午後ののことはよく覚えていない。

ただ講義中、食事中、そして午後の講義中もハエの気配が消えることなかった。

講義中、講師はしかめっ面で教科書をふっていた。

食事中、知らない学生数人が中空をきょろきょろと眺めていた。

午後の講義中、確かに羽音を聞いた。視界のはしで何かが動いていた。


午後の講義が終わり武人は考える。偶然なのか?と。

午後の講義が終わり亜季は考える。同じハエなのか?と。


「ねぇ」

亜季は帰り道に隣を歩く武人に声をかける。

「今日、学校にいたハエってうちにいたのと同じハエかな?」

武人は驚いた。

亜季は学校にハエがいたことには何の疑いも持っていない。

同じハエ?きっと同じ種類と言う意味ではない。同じ個体。

思いもしなかった。そんなことがあるだろうか?

ハエが亜季を追いかけてきている?

普通ならありえない。

普通ではないのか?

まるでストーカーのように。

そうだ。あの時のよう。



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武人が思考の迷路からようやく抜け出す。

「あれっ??」

道の真ん中に佇む武人のそばには、武人を邪魔そうに一瞥する名前も知らない同級生が通り過ぎていくばかりだった。

亜季はいつの間にか武人の前からいなくなったようだ。

そうハエすらもいない。

(帰ったのか。。。)

自分に投げかけられた疑問に返事もできなかったことに申し訳なさを感じながら武人は家路につく。

ただ明日にまた話せばいい。そう考えながら。



しかし武人のその予定は簡単に打ち砕かる。

次の日、その次の日、武人は亜季の姿を大学で見ることはなかった。


二日間、亜季に投げかけられた疑問に答えを見出すことができないことがひっかかり、武人は連絡することもできずにいた。

だがもうそんなことを言っている時ではないことぐらい理解もしており自分の中で亜季に連絡を取るための言い訳を考える。


「今日、学校にいたハエってうちにいたのと同じハエかな?」

亜季と最後に交わした言葉、疑問の言葉を頭に甦らせる。


本当にそんなことがあるのだろうか?

亜季から聞いた直後にも疑問に思ったが今も肯定することは難しい。

たしかに亜季が大学にいないこの二日間ハエを観なかったのも事実なのだがそれでもだ。

ただ間違っていたとしても亜季がそう思っているなら利用できるかもしれない。

亜季の前にこれからハエを一匹も見えないようにするのは不可能だ。

だが一匹殺すことなら可能だ。それで亜季が元気になってくれればいい。


武人は気合を入れると走り出した。


----------------------------------------------------

武人はドラッグストアでの買い物を終えて亜季の部屋の前で上がった息を整えている。

手には買い物の戦利品であるスプレータイプの殺虫剤、煙で部屋の虫を一掃する殺虫剤の入った袋。

亜季の部屋にはこの前置いていったハエたたきもある。

できればハエたたきやスプレーで目に見えるようにハエを殺したいところだが、また部屋では見つけられずにうまくいかないかもしれない。

そうしたら煙で一掃してしまえばいい。


武人は自分の中で作戦を反芻する。

作戦を決め息を整えようとするが、反芻する間に自分自身の息が整っていることに気が付く。


武人はチャイムを鳴らさない理由がなくなったことを確認し、亜季の部屋のチャイムを鳴らす。

チャイムはすぐに反応し、部屋の中の亜季に武人の来訪を伝える。

ガチャ

チャイムと同様にチャイムの音に反応してドアがすぐに開く。

「いらっしゃい」

開いたドアから亜季が顔を出す。

開いたドアの奥、亜季の向こう側にハエが飛んで横切るのが見えた。

武人はハエの存在にふれず亜季に短く挨拶をすると部屋の中に入る。

部屋の中は前に来たときと同じに見える亜季の綺麗に片付いた部屋。

部屋の一番奥、窓を見ると夕日の光とのコントラストで飛ぶハエの影がはっきり見える。

前回来たとき、ハエを探して部屋の真ん中で仁王立ちしていたのが馬鹿らしくなるほどに存在感の主張。


ハエの存在に武人が安堵と期待外れの入り混じった感情をかみしめているとハエは主張を強くする。

ハエは飛ぶのをやめ武人の目の前、これから座るローテーブルの端に止まる。

バンッ

武人はとっさに机に平手を叩きつける。

叩きつけていない手には殺虫剤の入った袋が持っているが関係ない。

結局はこの方法が一番早い。潰せたなら亜季に結果も見せやすい。

武人は思わず手が出てしまったことに少し後悔したが、正しい判断だったと自分に言い聞かせつつ机の上の手をどける。


「どうしたの?」

武人が手の平と手をどかした机の上を確認し、戦果がないことを理解する。

同時に机を叩いた音を聞いたであろう亜季が遅れて部屋に入ってくる。

ブーン。


空気を読んだというべきか読まなかったというべきか、武人の言葉を待たずにハエの主張が武人の暴挙の目的を雄弁に語る。


「。。。ああ」

亜季はすべて理解したように呟き、何事もなかったようにローテーブルの入り口側に座る。


「もういいよ。。。。無理だから」

亜季が続けた言葉を瞬時に理解することができない。

無理?

今、亜季は無理と言ったのだろうか?

何が?何が無理なのだ。

「何が無理なんだ。。。?」

武人は亜季の対面に座りながら浮かんだ疑問をそもまま口にする。


「。。。」

亜季は無言のまま首を動かし部屋の中を見渡しハエを見つけると、目だけを動かしてハエを追う。

「あれをどうにかすること」

「あれってハエのことだろ?」

亜季の沈黙による肯定。

「無理って。。いや、確かにさっきは潰せなかったけど!」

亜季は武人の早口の主張には口を挟まない。

「そうだ!殺虫剤を買って来たんだ!これを使えば!」


武人の主張が終わると何も言わずに亜季は口を開かずにハエから目を離し、今度は部屋の隅に目を向ける。

武人は亜季の目線を追い部屋の隅をみる。

。。。殺虫剤のスプレー缶。殺虫剤のスプレー缶。殺虫剤のスプレー缶。おそらくすべて使い切られている空のスプレー缶。

そしてこれも使用済みであろう煙を出すタイプの殺虫剤。

武人が前に持ち込んだハエたたきの一つは網の部分に大きな穴が、もう一つは柄の部分で真っ二つに折れた状態で放置されている。2つとも目的を果たすことはもうできないだろう。


武人は部屋の中の変化に何一つ気が付かなかった自分に驚愕し、今度は注意深く亜季の部屋を見渡す。目の前にある何も置かれていない汚れもないローテーブル、綺麗に掛布団の整えられたベッド、ノートPCや教科書が理路整然と置かれた机。気になるものも前回部屋に来たときとの違いもなにもないように感じる。

正確には視線を動かす毎に視界の端を視界の中央を飛び回る、もしくは視界で羽を休めるハエをもちろん気にはなっていたが武人は異常な点を見過ごすまいと無視に努める。

部屋の隅にある空のゴミ箱、綺麗に片付いた台所。前回とは違いコンロにはなにも置かれていない。

武人は立ち上がり台所の方に近づき、座っていた時には見えなかったシンクの中を見る。

(。。。。何もない。)

それはこれ以上ない純粋な感想だ。

シンクには生ごみもおろか洗い物もない。いや水滴の一つもない。下水への穴は封じられシンクとして使用しているのかも怪しい。まるで今まで誰も使ったことがないかのようだ。

このシンク、シンクと言っていいのか分からない場所は明らかにハエなどの虫とは無縁に見える。

いやシンクだけじゃない。シンクを見る前は綺麗、整理されているという言葉でかたずけていたが、部屋全体に生活感が感じられない。

虫の存在とは無縁と言うだけではない。人の住む部屋とは言えないような空間になっている。


なぜ今まで違和感を感じなかったのか?一度気が付くとこの空間に尋常ではない居心地の悪さを感じる。すぐにでもこの空間から出てしまいたい衝動を抑える。


亜季はこの空間にいたのだ。そもそもこの空間を作ったのは亜季だ。

この居心地の悪い空間を作った理由はもちろんハエを居させてなくすることに違いない。

武人はそこまで考え恥ずかしくなる。


この二日間、亜季は虫と戦っていたのだ。ハエたたきで挑み、殺虫剤を使い、生活感がなくなるほどに部屋かたずけ、掃除しハエがいることのできない空間を作り上げた。きっと他にも武人の気が付いていない努力を行ったに違いない。

そして亜季は「無理」と結論を付けた。


「ごめん」

武人の口から自然に謝罪の言葉が漏れる。

この二日間何もしなかったこと、今更誰でも思いつく殺虫剤を持って来たこと、一緒にいなかったこと。今目の前にハエが飛んでいることを許していること。亜季の努力を知らずにハエを殺せると思ったこと。

亜季にも武人にもどの失敗に対する謝罪だったのかはわからない。もしかしたらそのすべてに対する謝罪だったかもしれない。


「そうだ!一緒に暮らさないか?!」

「え?」

亜季は突然で唐突な武人の提案に驚く。それだけではなく提案をした武人もまた自分の大胆な提案に驚く。

「嫌だったらいいんだ!ただ、亜季が困っているときに一緒にいなかったのが申し訳なくて。。。!」

「うん。。。。それもいいかもね。。。」

武人は自分の言った告白をなかったことにはならないように、それでいて亜季が断ることもできるように早口で取り繕うが、亜季は平然と武人の提案を受け入れる。


「ごめん。お茶も出してなかったね」

亜季は久しぶりに少し笑顔を見せ立ち上がり台所に向かう。

台所ではシンクの上の棚からやかんを取り出す、シンクの下の止水栓を回す、下水への蓋をとり、水道の蛇口を回す、水は駄々をこねるようにごぼごぼと音立ててからやかんに入る。まるで引っ越し初日のような光景。水道はだいぶ使われていないようだ。

やかんをコンロに置き火をつけようとつまみを回すが点かない。コンロの下を調べ元栓を開け、再度つまみをまわす。火が点きやかんと中身を熱し始める。


「ちょっと待ってね」

お湯を沸かす準備が整うと亜季は先ほどと同じくローテーブルの武人の対面に座る。

武人は台所の火に一抹の不安を感じたが亜季の行いに口を挟むことに躊躇し行動を尊重する。

「ねえ?一緒に住むなら犬飼わない?」

「犬?」

「そう。ずっと考えてたんだけど一人暮らしだと難しくて。二人なら飼えるかなって」


(もしかしてうまく誘導されたんじゃ。。。)

一瞬、武人は亜季に載せられたのではないかと疑うが、すぐに自分の杞憂を否定する。

目の前の亜季の疲弊した笑顔が演技だということはあり得ない。

「どんな犬がいいの?」

「うん。白い柴犬」

亜季の中では犬を飼っているイメージがもうあるのだろうか、すぐに犬種が返ってくる。

「目は黒くて大きくて、耳は丸くて大きいの。

鼻はピンク。尻尾はくるっと、」

「えらい具体的イメージがあるんだなっ!」

武人は黙って聞いているつもりだったがあまりに細かい注文に突っ込みを入れてしまう。

しかし同時に楽しそうに未来の家族を語る亜季を見て、その夢見る未来をかなえてやりたいと決意をする。

亜季は疲れた笑顔で犬への要望を止めない

「春に生まれた仔犬がいいよね?過ごしやすいし。桜の花と誕生日を。。。」


ジュッ

武人と亜季が未来を語っている間にこの部屋唯一のハエが、やかんを熱する火に誰にも気が付かれることなく焼かれた。



----------------------------------------------------

春。

一匹の白い柴犬が生まれた。

同時に生まれた兄弟は4匹。

真っ白に生まれたのは1っ匹だけ。

鼻は綺麗なピンク色で白い体毛に映えて、尻尾は長いがうまく丸めて収まっている。

耳は大きく、しかし丸く愛嬌がある。

他のどの兄弟よりも黒く大きな目は強く光を反射させ知性を感じさせる。

よく食べて、よく遊ぶ、普通の仔犬。

ただ他の兄弟と一緒にいることは少なく、よく一匹で少し離れたところで中空を眺めている。

中空を見つめるさまはまるでもの思いにふける人のよう。


仔犬は夢を見る。

女性との生活を夢を見る。

ストーカーにおびえ、アパートの一室でたった一匹のハエにおびえる、彼氏は同じ大学の同級生ただし研究室は異なる、お茶を淹れるときは必ずやかんでお湯を沸かす、好きな紅茶はダージリン、夏には麦茶、湯船につかるのは週に2日、あとはシャワーで済ませる、風呂に入るときは右足から。。。。。。。。。。

そんな女性との生活を夢を見る。




思ってたより長くなってしまった。。。

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