序章
この手記を見ているあなたが、私の"大切な人"であることを望みます。
だってきっと――私のことを知らないと、これはただの夢物語だと思われるだろうから。
……いいえ、私のことを知っていてさえ、そう思われるかもしれません。
それでも、ここに書いたことは、まぎれもなく真実で、私の生きた証なのです。
そして、この手記が終わるときは、きっと――
***
ローゼニア家があったのは、小さくて静かな町・リドルから少し離れた丘の上だった。
名家と名高いローゼニアの邸宅が、なぜそんな寂しい場所に構えているのかと町の人々は首をかしげたが、真相は単純で、館の主人がにぎやかな場所を嫌っていたというだけのことだ。
貿易が盛んな活気ある港町の豪邸を売り、夜には林から獣が這い出てくるような館を買う物好きの選択を、その妻はひどく倦厭したが、私は賛成だった。
なぜなら私も、ローゼニア家の主人――そう、父と同様に、飽き飽きしていたのだ。昼夜を問わず響き渡る船の警笛や、魚を求めて飛ぶ鳥のけたましい鳴き声……そしてなにより、毎夜のように開かれる、父の仕事の関係者との晩餐会に。
晩餐会で出会う人々は、老若男女問わず必ず口にした。
ローゼニア家はすばらしい家だ、と。
そして、そこに一人娘として生まれ落ちた私は、幸福である、と。
たしかに、そうかもしれない。ローゼニアの名を継ぐ、たった一人の跡継ぎということもあり、私は両親から宝石のように扱われてきた。
今まで、ねだって手に入らなかったものはないし、生活に不自由したこともない。掃除などの面倒なことはすべて使用人たちがこなし、彼らは幼いころから私がどんな我が儘を言っても、笑って応じてくれた。
でも……だからこそ。そんな刺激のない平凡な日常が、私には退屈でしかたがなかった。
できることならば、同世代の子たちのように服が汚れるのを気にせず木に登ってみたかったし、川で水浴びをしてみたかった。そうして――異性とも、触れ合ってみたかった。
でも、私にそんなことは許されない。なぜなら、私は"名家・ローゼニア家の一人娘"だから。
このとき、私はもう19にもなるというのに、使用人や晩餐会に訪れる父の知り合い以外の異性とは深く話をしたことさえなかった。だから、もちろん……恋という感情も知らない。恋愛は常に、童話の中の空想でしかなかった。
……でも。
そんな私に――そんな、身体だけ大人になりつつあった私のもとに、嵐がやってきたのだ。
それは、忘れもしない、聖夜の前日のこと……
「ひどい雨ですね」
私の部屋を掃除していた使用人が、窓を見て顔をしかめる。
その日は、数十年ぶりだという季節外れの嵐が猛威をふるっていた。
いつもなら、のどかな庭を望めるガラス窓は、針のような雨に汚され鈍く曇り、今や見慣れた風景を窺い知ることはできない。
カタカタと扉を揺らす風はどこか不安をあおり、まさに魔物のようだった。
「こんな天気、初めて見ました。しかも、この時期に嵐だなんて」
「そうね。明日は聖夜だというのに……こんな大荒れの天気じゃ、父もかわいそうね」
溜息とともにはいた言葉に、使用人は興味深そうに目を丸くし、灰色の世界から私へと視線を移してくる。
「旦那様が、なにかなさるんですか?」
「ふふ、違うわ。ファ―ザー・クリスマスのことよ」
いたずらっぽく笑むと、使用人は納得したように肩から力を抜いた。
「まあ……そういうことですか」
「ええ、そうよ。この嵐の中、トナカイを連れて空を飛ぶのは無理でしょう? きっと煙突を見つけることさえ難しいわ。だから、もしも明日までこの天気が続いたら……今年は、彼からのプレゼントは受け取れそうにないわね」
そう言って笑みをこぼす私を、使用人は眼を細め、じっと見つめてくる。
「顔になにかついてる?」
「あ、いいえ……そういうことではありません。ただ……お嬢様は、とても純粋だと思って」
「純粋?」
「ええ。純粋で無垢で、綺麗ですわ。旦那様がお嬢様を天使と呼ぶのもうなずけます」
あたたかい眼差しを向けてくる使用人に、私は閉口した。
悪気がないのはわかっている。
それでも私は、彼女に冗談を言ったことを後悔していた。
「私、サンタクロースなんか信じてないわよ」
「もちろん、それはわかっていますわ。でも……私はこの嵐を見て、お嬢様のような発想は出てきませんから。豊かな想像力をお持ちだと、関心したのです」
彼女なりの最上の賛辞を、素直に受け取ることができなかった。
「純粋」「無垢」――これまで、何度も聞いた言葉だ。けれど、その単語はいつも身体の上を滑っていく。
父が口にする"天使"という言葉も、決して私に向けられるべきものではない。
きっと、彼らは私という人物に――「ローゼニア家の一人娘」に夢を見ているのだ。でも、彼らの幻想ほどに、私は純粋でも無垢でもなかった。それどころか、幼いころからその言葉をずっと厭っていた。
まるで、馬鹿にされているように感じるのだ。「空想が友達の世間知らず」と言われているようで。そして、その思いは、私の成長とともに大きくなっていく。
「もうすぐ晩餐の時間ではない?」
「いけない、そうでした! それではお嬢様、失礼しますね」
私の言葉に、使用人は、あわただしい様子で部屋を出て行った。
あとに残されたのは私と、鳴りやまぬ雨風の音のみだ。ときたま目を刺すような光とともに、すさまじい轟音が周囲に響き渡る。それでも……独りの部屋は、先ほどよりも空気が澄んでいるように感じた。
「……はあ」
ふと、窓に触れる。こんな日だというのに、使用人によって綺麗に磨かれたばかりのガラスは、華やかなドレスに身を包む私の姿をぼんやりと反射した。目前の私は、触れると、とても冷たい。
周囲と自分の間に違和感を覚えるようになったのは、最近のことではない。けれど、私は環境に合わせて、この19年を生きてきた。
私に夢を見ている人たちの幻想を壊すのは、簡単だろう。ただありのまま、ふるまえばいいのだから。
でも、私が自由を手にしてしまったら、周囲の人はどうなるのだろう。変わった私に絶望するだろうか。絶望した先で、私になにを要求するのだろうか。なにを要求しないのだろうか。
今まで、自由はなくとも平穏な日々を生きてきた。だからこそ……私は恐ろしかったのだ。私が彼らの幻想を打ち破ることで、平穏が壊れることが。そして、そのあとを生きることも。
この家は、生涯出ることが許されない、私の檻でもある。そんな檻の中で、数多の人の失望や侮蔑の視線を感じながら生きることは、とても恐ろしかった。
だから、私は迎合することにした。自らを殺し、周囲を欺きながら、この恵まれた名家の一人娘として、純粋無垢な天使として生きることを。それが、生涯背負うべき罪であると知りながら。
私は、ぼんやりと映った目前の自分に笑いかける。
そこには、父が好む天使の微笑みがあった。
「これで……いい。みんなが、幸せなら」
そうして、今後を生きる決意をかためたとき――
唐突に、玄関のほうで大きな声が響いた。
「誰か来て!」
その声は、先ほど私と話していた使用人のものだった。
私は、反射的に部屋を出て、階段を下って玄関へと急ぐ。
「何事なの?」
駆けつけた先に、かたまった様子の使用人の姿があった。歯を小刻みに鳴らしながら、玄関の扉を凝視している。どう見ても、普通ではない。
「なにがあったの?」
肩に手をかけ再度呼びかけると、彼女は過剰なほどに身体を跳ねさせた。
そして、錆びた歯車のようにぎこちない動きで首を回転させ、私のほうを見る。
「魔物……が、いたんです」
「魔物?」
「ドアの、外にっ……」
そう言って彼女は震える指先で館の外へと繋がる扉を指さした。
私は一度その扉を見たのち、ゆっくりと首を振る。先ほど彼女は私に「想像力が豊かだ」と言ったが、その言葉をそのまま返したい気持ちだった。
「魔物なんていないわ。風の音でしょう」
「ち、違うんです。本当にいたんです!」
「どうしてそう思うの?」
「見たんです。そこの窓から、なにかがいるのを……!」
たしかに扉の横には、窓がついている。だが、その窓は私の部屋と同じように――いや、それ以上に雨に打たれ、とてもなにかが見える様子ではなかった。
もしかしたら、この嵐で飛ばされたなにかが横切っていって、それを見たのかもしれない。
「落ち着いて。この嵐で不安になってるのよ」
「で、でも」
「とりあえず、部屋へ戻りましょう。あたたかいスープを用意させるわ」
「お嬢様!」
私の言葉を振り切るように、使用人は叫んだ。そのあまりの剣幕に思わず息をのむと、彼女ははっとして、申し訳なさそうに視線を泳がせる。
「す、すみません……お嬢様は私の気がおかしくなったと思いましたわよね」
「そんなことはないけれど……」
「でも、違うんです。本当になにかが動いていて……こ、これを確かめないと、私……怖いんです」
「……怖い?」
「なにか、いやなことが起こりそうで……」
そうつぶやき、私を見る使用人の瞳は恐怖に濡れていた。
いったいなにを見ればこれほどまでに怯えることができるのだろうか。このとき私は、使用人が見た魔物を妄想だと思う気持ちとともに、その妄想を引き起こしたものに興味がわいていた。
いずれにせよ、その正体を確かめなければ、彼女も納得して部屋に戻ってくれそうにはない。それなら、やるべきことはひとつだった。
「じゃあ、確認してみましょう」
「ほ、本気で言っているんですか?」
望んでいただろう言葉を口にしたはずなのに、彼女は信じられないというように声を震わせる。
私は一度彼女を勇気づけるように手を握ったのち、ゆっくりと立ち上がった。
「お、お嬢様……」
ためらいとも、心配ともとれる頼りない声を背中に、私は扉へと歩みを進めた。
そして、いつもは決して自らでは触れることのない扉に手をかけ、ゆっくりと押す。
使用人の手を借りずに初めて開く扉は、風雨の力を伴ってか、とても重く感じられた。それでも、身体を倒すようにゆっくりと押していくと、軋んだ音をたてながらも徐々に開いていく。
その隙間から風が入り込み、私の髪をさらった。新たな行き場を見つけた雨は館の来訪者となり、迎えた私のドレスを濡らし、頬をたたく。
――なぜかこのとき、私は高揚感を覚えていた。
それは、扉を開けるということが、私の退屈な日常からの脱却であったからだろうか。それとも……
このあと先に、私を待ち受ける運命があることを、本能で察したからだろうか。
「っ……開いたわ」
全開になった扉の先を、私は見た。不運にも向かい風で、私の顔を全身を、容赦なく風雨が打ち付ける。
それでもなんとか目を開き、灰色の世界を見つめる。そこには、なにもなかった。
なかった――と、思った。
「え……」
灰色の中、ゆっくりと黒い影がこちらへと向かってきていた。
最初はただのかたまりにしか見えなかったそれは、近づくたびにその形を確かなものにしていく。
……そして、その影はついに、私たちの前にその正体を現す。
「あなた、は……」
真っ黒なローブに身を包み、ずぶぬれになった人間がそこに立っていた。
私が漏らした息のような声に導かれるように、その人はフードを深くかぶった頭をあげる。すると、向かい風だというのに、そのフードは自然とその人物の肩に落ちた。まるで……私に、顔を見せようとする意思があったかのように。
「旅人です」
この国では珍しい、黒瑪瑙のような黒髪と瞳。それと対照的な、陶磁器のように白い肌。
男性らしいその声は、雷雨の中でも不思議なほど澄んで私の耳に届いた。
「入れてもらうことはできますか」
ふたつの宝石が私の身を捉える。
――それが、私の運命の始まりだった。