産声・邂逅
目登亮太は、どこかのベッドで夢うつつに意識を遊ばせていた。ほのかな甘い香りが鼻をくすぐった。自分を包む柔らかな感触が心地よく、思わず埋もれてそのまま眠り続けていたくなる。
……いや、そうじゃない。
意識を失う直前の衝撃がフラッシュバックして、焦って目を開いた。無機質な白い空間が視界に飛び込んでくる。
「病室……?」
ベッドだけが並ぶ広い部屋。窓はなく、仕切りもない。白、白、白。
離れた場所にあるドアだけが重苦しい灰色をしていた。
隣のベッドに視線を落とすと、見識のない男性が寝ていた。顔のあちこちに傷がついていて、髪が緋色に染まっている。整った顔立ちをしているとは思うが、日本人の容姿に赤い髪は似合わないなと思った。
「あ、起きた? どう、結構寝心地いいでしょ。そのベッド」
いつの間に部屋に入ってきたのか、亮太の顔の前に、眼鏡をかけた白髪の若い女性が現れた。白衣を着ていて、耳にチカチカと白い光を放つピアスをつけている。登場の仕方に驚いて、「うわ」という情けない声が漏れた。
「あはは。君はそういう驚き方をするんだ。優しい性格だな」
亮太の表情を確認しながら、女性は笑った。馬鹿にされているのかとも思ったが、他意はないようだ。彼女が楽しそうに揺れると甘い香りが強くなる。もしかして、最初からこの部屋にいたのだろうか。
「あ、あの。ここはどこで、僕は一体……」
「あー、焦んないで大丈夫だよ。ここは『病院』、って言っても君たちのよく知る病院とはちょっと違って……。えーと、説明が難しいな。とりあえず、君は気を失って運ばれてきた。その直前に何があったかは、覚えてる?」
亮太は現状を把握しきれないままに頷いた。忘れるわけがない。あんな『異常』な出来事。亮太は、人を殺してしまった。
◇
その朝の亮太は、頭痛で呻いていた。冬の冷たい空気のせいで風邪でも引いてしまったのかと疑ったが、熱はなかった。
熱も出ていないのに授業を休むのはどうかと思い、頭痛薬を飲んで家を出た。
それから異変が起こるまで時間は必要なかった。高校へ向かうバスに揺られるたびに増していた亮太の頭痛は、すでに平常を装うには無理があるほどになっていた。
「大丈夫ですか?」
痛みに耐えられずしゃがみこんだ亮太にかけられた声は、ひどく遠くに聞こえた。男性か女性かも分からない、助けて欲しくて夢中で手を伸ばした。
――間もなくして、急に頭痛がなくなった。重くのしかかっていた痛みが消え、体が軽くなったようで安心した。やっと頭痛薬が効いてきたんだろうと亮太は思った。
次に聴力が戻ってきて、周囲が妙に騒がしいことに気がついた。
サイレンの音がけたたましく響いていて、誰かが叫ぶ声や集団がざわめくのを感じた。何かあったのかなと目を開いて顔を上げると、彼は衝撃を受けた。
そのときの亮太は、バスが走っている感覚がないことに気づいていなかった。
彼の眼前に広がっていたのは大きな血だまりと重なる人々。バスだったであろう、燃え上がる金属塊。目登の腕から生き物のように広がる何本ものチューブ。そこで、彼の意識は再び途絶えた。
◇
「僕は、どうなってしまったんですか?」
「その質問に完璧に答えるのは難しいね。特に君の場合は。順を追うために、まず自己紹介から始めようか。私は『薬師寺しろ』。この『病院』の医療班主任を任せてもらってる。君は?」
「目登……亮太です」
薬師寺に促され、亮太も名乗った。彼女は「へえ、珍しい苗字だねえ」と感心していたが、薬師寺という苗字もわりと珍しい気がする。
「ああ、私のは……っていうかここの人たちは大抵偽名だから。自分の能力とかに起因して勝手につけてるんだ」
偽名……と聞いていいイメージは浮かばない。それに、能力とは何なのだろう。
亮太の頭の中に危険な場所かもしれないという思いがふつふつと湧き起こり、不安が募る。
「心配しなくても、リョータくんに危害を加えるような人はいないから。基本的には」
基本的には、という言葉が気になって仕方ない。
「う、うう……」
隣のベッドに寝ていた男性がうめき声を上げた。見ると、苦しそうに顔を歪ませている。どこか痛みを抱えているのだろうか。
「あ、そっちの子も起きそうだ」
身構える亮太をよそに、薬師寺は楽しそうな声を出す。危ないのではないかと注意しようと彼女のほうに顔を向けると、そこに白髪の女性の姿はなかった。
「あれ? 薬師寺さん?」
周囲を見回しても見当たらない。そうこうしているうちに起き上がった男性と、目が合った。
「……お前。お前か、殴ったの」
「え?」
起きるなりひりつく怒りをぶつけられ、亮太は戸惑う。何かとんでもない勘違いをされている気がする。彼の髪がゆらゆらと炎のように揺らめくのを見ながらそう思った。
「はーい。目が覚めたねファイアーボーイ」
「うおっ! なんだ!?」
音もなく亮太と男子の間に割って入ったのは薬師寺だった。どこにいたのかさっぱり分からない。まるで突然転移してきたかのように、彼女は現れた。
「わー! 面白いリアクション! 君は実は臆病で慎重な子だね」
よほど驚いたのだろう。ファイアーボーイと呼ばれた男子は、仰け反りながら掛け布団を吹き飛ばした。彼女は初対面の人を驚かせてどんな性格か読む趣味を持っているのだろうか。
「お前誰だ白女。あのいけ好かない女の仲間か? どこに連れてきやがった」
手元にシーツを寄せながら四つん這いで警戒心MAX。まるで野生動物のような格好だ。それに服を着ていない上半身に痛々しい傷跡が多く、顔つきは同年代くらいに見えるのにまるで違う人種に思えた。
「ストップ。今能力を使うのは良くない。燃料である脂質も少ないし、この部屋にはスプリンクラーがある。それに敵じゃない」
「……それくらい分かってる。だが、敵じゃないって保障はないよな?」
興奮しているように見えて、意外と冷静なようだ。挑発的な態度を取っていても警戒は解かず、周囲の状況を確認している。
……あれ。と亮太は首を傾げる。
自分の気持ちがやけに落ち着いていることや、僅かな動作に気が向くこと。シーツで足元を隠しているが、いつでも飛び出せるようにと踏ん張りを利かせていた。
洞察力が、上がっている。
自分ははこんなに冷静に状況分析できる人間だっただろうか。焦りとか恐怖という感情が感じてはいるものの、体に伝わっていない。感情の抵抗を無視して、今ならこの男性を殺せそうだとさえ思えた。
彼から漏れ出す赤い粒子のような小さな光が妙に煩わしく思えた。
あれは……何だ。
「……おい白女。そこのガキ、やばいぞ。すげームカつく」
薬師寺が弾けるように振り向いて亮太のほうを見た。彼女からは何も感じられない。光粒子が見えないからだろうか。
心配そうに声をかけてくれているが、気にもならない。今はただ、あの男に襲いかかりたい。
「リョータくん! 落ち着いて自分を保つんだ!」
薬師寺が亮太の両肩を掴んで叫んだ。少しうるさいな。この人も、ちょっとくらい傷つけても構わないだろうか。
「悪いな。やっぱり信用できねえ」
刹那、薬師寺の後ろに炎が見えた。錯覚かと思って凝視していると、その炎は亮太たちを覆った。
「あっつッ……! これ、シーツ!? しまった、注意を逸らされたッ!」
燃えるシーツが絡み付いてくる。熱くて除けようとするが、薬師寺と共に覆われたために上手く外すことができなかった。
入り口から、ドアの閉まる音がした。
ジリリリ、という警報がなったかと思うと、何かが吹きかけられてシーツが濡れて重くなるのを感じた。どうやらスプリンクラーが発動したらしい。
濡れたせいで余計に絡みついてきてはいたが、なんとか脱出する。
「うあ……熱かった……。リョータくんっ! 怪我なかったっ?」
薬師寺が立ち上がり、携帯端末を取り出しながら声を掛けてくる。
「はい……それより薬師寺さんこそ大丈夫ですか? 背中とか……」
先ほど感じた小さな殺意は、流れ落ちる水と共に沈静化していった。
「はは、ちょっとやけどしたけど大丈夫だよ。まさか、リョータくんにピアスの効果がないとはね。彼のほうは場慣れしていたから制御できるみたいだけど……。もしもし、ミキちゃん? 炎の子が逃げちゃった。うん、いつの間にかピアス外しちゃったみたいで。機械の子、リョータくんは外してないけど、効果がないみたい。うん、分かった。リョータくんをドックに連れてったら合流するよ」
耳元を触ってみると、確かにピアスが付けられていた。これは、彼女がしているものと同じなのだろうか。何かを制御する装置なのかもしれない。
気になって弄り続けていると、誰かとの通話を終えた薬師寺は亮太のほうに向き直った。
「さてと。悪いんだけど、色々説明してる場合じゃなくなっちゃったね。彼はかなり戦闘に慣れてるみたいだから見つけるにも捕まえるにも時間がかかると思う。一旦君を安全なところに送るから、そこで教えてもらってね」
ウインクしてみせる薬師寺の笑顔は、固く見えた。
どうも、状況は芳しくないらしい。
「じゃ、行こうか」
「分かりました。あ、でも……」
亮太は、男の去った方向を見ながら言葉を濁した。
「どうしたの?」
「見つけるだけなら、この光の粒を追えばいいんじゃないですか?」
「……え?」
次々と起こる異常に呆然とし続けていた亮太。
しかし、発せられた言葉に唖然としたのは薬師寺の方だった。