1話
「奇跡」って「偶然」の延長線だと思う。
例えば地球の誕生だったり、末期ガンだったおじいさんが急に回復したり、いつも最下位の子がテストで100点をとったり、エトセトラエトセトラ。こういう、世の中で奇跡だ奇跡だと言われるやつはみんな、詰まる所もの凄く確率の低いだけであって、ただの偶然の一つにすぎない。
だから私と彼が出会ったこともーーー、奇跡なんかではないのだ、決して。
*
「今日からここがあなたのデスクね」
見た目20代くらいの、パンツスーツをピシッと決めたいかにもOLなお姉さんにつられて、窓際の一角に佇むそれを見やった。
いくつかある机の「島」のうちの一つの、そのまた一つ。前の使用者のつかった形跡が拭き取られ、山積みの書類もコーヒーカップもない灰色の表面はつるつると光り、私には親鳥の餌を待つ雛のように見える。唯一置かれたバブルあたりを想起させるデスクトップ型のパソコンが、新しい主を歓迎してくれていた。
ここがこれから私の"戦場"となるのだ。そう思うと、不思議と気分が高揚してくる。
「分からないことがあったら私に聞いて。一応、上司って事になってるから」
上司という単語の時に一瞬虱でも噛んだみたいな顔をしたのは気のせいだろう。見た目は私とそこまで変わらないから、もしかしたら部下を持つのは初めてなのかもしれない。
「じゃあ私はあっちのデスクにいるから」
「わかりました、よろしくお願いします」
言うや否や、いかにもOLさんは早足で歩き去ってしまう。そのままぼけっと見送っていると、すぐに若い男社員に捕まっていた。
「どうだった新人、その顔だと芳しくないみたいだね?」
「私年下苦手なのよ。あと聞こえるかもしれないでしょ、声量落として」
ばっちり聞こえてまーす。
上司に見放されたのでさっき指定された場所にバッグを置き、椅子に座る…前に、とりあえず周りの方々に挨拶でもしようかしら。
どうやら島は6つのデスクで成り立っていて、私を除くと5人の人間が各々パソコンをカタカタ言わせたり机をガタガタ言わせたりガタガタ言っていたりする。最初のは分かるけど二番目なにしてるの?すごい圧力かけて消しゴム使ってるの?そういう音鳴るよねー。うんうん。三番目に至っては隣とお喋りしてる。しかも聞く限りは上司の愚痴。あとでチクってやろう。
私の席は左端。真っ先に東向きの窓とお友達になれそうな席である。
右を見ると、丁度デスク作業をしていた隣の社員と目があった。
「新入社員のコだよね。さっきの自己紹介、すげー面白かったよ」
「そうですか?ありがとうございます。私に人を笑わせるセンスがあったなんて驚きです」
手を止めてにかっと微笑んできたので、こちらも礼儀としてにこっと微笑んでみる。しかし人の自己紹介を面白かった、って割と失礼な気がするのは私だけだろうか。そんな若年世代にウケる事喋った覚えないんですけど…。
「俺、足尾。広報部の下っ端やってます、よろしく」
「この度デザイン部に配属された多摩川です。よろしくお願いします」
語尾に☆でも付きそうな勢いの挨拶だったので、こちらも語尾に三つ星ぐらい付けて返してやった。
と、多少キラッとした雰囲気が鬱陶しいが、お隣さんとはまぁまぁうまく出来そうだ。特別偏屈とか意思疎通が出来ない宇宙人みたいなやつじゃなくて安心する。
正面はどうかとパソコン越しに伺うと、剥げかかった頭のお向かいさんは絶賛仕事中らしく目も合わせてくれなかった。話しかけるなオーラがびんびん出てるのに安安と話しかけられるほど神経丸太じゃない私は黙って引き下がる。
後で暇な時に挨拶すればいいか…。
それはそうとして、さっきから視線を受けている気がする。新入社員が来た時の好奇の目に混ざって、かなり異質な物質が混ざったビームみたいなもの。くるっと見渡すと、斜向かいに位置する若い男とばっちり目が合った。と思ったら、プロ野球の投球を間近で見たぐらいの早さで目をそらされる。間違いないこいつだ。
「…??」
その行動に衝撃を受けるより先に、妙な違和感を覚えた。胃の底から何かが湧いてくるような、しかし口まで上がってはこないような、そんな感じ。
この違和感は身に覚えがある。
(何かを"忘れてる"時の…)
何だ。私は何を忘れてしまったんだ?まるで記憶に靄がかかったように思い出す事を拒んでいる
ーーというのは大げさで、多分視線と行動と表情から察するに前に会ったけど顔を忘れた知り合いってだけだ。
(誰だっけ誰だっけ…えーっと)
確かに会った記憶がある。けれど、そらされた横顔と暑くもないのに汗をかきまくっている額を凝視してみても、頭の中の浮かんでは消える人物と合致しない。
しかし焦点を頭上部に持って行った瞬間、脳でパズルのピースのカチリと嵌まる音がした、気がした。
あーはいはい、思い出した思い出した。こんなところで会えるなんてと偶然の悪戯に心をくすぐられる。
「あ」の形をとった私の口に呼応してびくっと跳ねる彼の肩。…なんか猫に狙われた時のハムスターみたいな反応されたんですけど。
恐る恐るといった風に顔の角度を無理がない方に戻した彼とばっちり視線を交差させて、久しぶりーという親しみを込めて笑いかける。三秒遅れてあちらも笑い返した。口の端を吊り上げただけとも言えるけど。
「何々?もしかして知り合いだったりする?」
私と彼の間に漂う空気を察して、さっき話したばかりの隣のお兄さん(名前忘れた)が横槍を入れてくる。
「はい。高校の時に、少し」
「へぇぇえ、凄い奇跡だなぁ。高校の時の知り合いが会社の同僚なんて、運命感じちゃうね〜」
妙に感心した口調でうんうん頷くお兄さん。だがその台詞は、椅子の背もたれが強く軋む音で遮られた。
「ーーなんでこんな所にいるんだよ!」
いきなり立ち上がった彼に腕を掴まれ、連れて来られた先は階段の踊り場。人の往来が多いトイレやエレベータの前ではないから、結構な大声でどやされて思わず肩が跳ねる。
「なんで…って、ここに就職したから。さっきの部長の話聞いてなかったの?」
「いや聞いてたよ!そりゃ今の時代女性でも就職ぐらいするよね!」
「じゃそんな驚く事でもないでしょ。たまたまここに面接受けに来て、たまたまこの会社に採用されたからはい、じゃ行きまーすっつって行ったらたまたまあなたがいた、と」
「いやまぁそうなんだけどそういう事じゃなくて…なんでよりにもよってここなんだ!?」
そんな事を私に言われても困る。私だって別に高校時代の同級生が就職先に居るなんて知らなかったのだ。詰まる所ただの偶然、神様のイタズラってやつだ。だから声を大にして言える。
「私に非はない!」
「…そう、そうだよな。別にお前だって悪気があって来たわけじゃないもんな…」
「分かってくれた?」
「この事については、な」
怒りの持って行き場を失って、高崎君が項垂れる。
と同時に、頭の頂上からアンテナばりに直立していたアホ毛も元気をなくした。
そう、これが私が彼だと気付いた唯一のきっかけだ。これが無ければ確実に思い出せていなかっただろう。アホ毛に感謝だ。
「ん…?あぁこれ、生まれつきだから多分一生そのまんまじゃないかな」
私のアホ毛に対する熱烈な視線に気づいて顔を上げた彼が、そびえ立つ数本の束をつまみながら説明してくれる。
言い返せば、アホ毛を見なければ分からなかった。もっと言えばアホ毛以外に身体的特徴で彼の自己同一性を保持するものはなかったということになるだろう。
…本当にアホ毛に感謝しなければならないのは高崎君じゃないだろうか。
「お前今ちょっと失礼なこと考えてただろ」
「ええ?そんな事ないよやだな〜」
「ほんとにか?」
「ちょっとじゃなくてかなり失礼なこと考えてた」
「考えてたじゃねぇか!ほんと失礼だな!!」
懐かしいなぁ。こういうやりとりをしていると高校の時を思い出して、我知らず顔がほころんでしまう。
だが私とは対象的に、高崎君はこの数分で20年は老けたように見える。ここは竜宮城だっただろうか。
ふぅーーーっと肺の空気を全部出すぐらいに長いため息をついて、彼は一言。
「あー…人生で15番目くらいに最悪だ…」
結構順位が低かった。
「逆にこっちが聞きたいんだけど」
「何?」
両手を顔に当てて仰け反っていた高崎君が一瞬にして普通モードに戻る。
「なんでそんなに私歓迎されてないの?高崎君に嫌な事でもした?」
「お…ま…忘れたのかよ!」
普通旧友に会えば「わー久しぶりー!」みたいにテンションが上がるものなんじゃないだろうか。実際私はテンション上がったし(2mmぐらい)。再会して早々なんでいるんだよと渋面で怒鳴られる程恨まれる事をした覚えは「お前高校の時俺の教科書にテントウムシ挟んだだろ!凄いびっくりしたんだからな!?」ないし、出席番号の関係で席が前後だったからむしろそこそこ喋って仲良く「あと俺の裁縫箱に弁当のカニ味噌詰めたりしたよな!お陰で俺の家庭科の成績3だよ!!10段階の!!!」してたつもりだ。
「ごめん」
「そんなあっさり謝るなよ!!俺がずっと根に持ってきた恨みはどうしたらいいんだよ!」
「シュレッダーにでもかければいいと思うよ」
「お前が言うな!」
語尾に⭐がつきそうな勢いで言ってみたら、おでこに手刀を下ろされた。裁縫箱にカニ味噌詰めたくらいで8年も根に持つなんて、みみっちぃ男である。
「まぁまぁ。今までの事は水に流そう? これから同僚として仲良くやって行かなきゃならないんだから」
さっさと忘れてくれないとこっちが困る。この就職氷河期でなんとか手に入れた職場で仲間と気まずい雰囲気という訳にもいかない。
しかし、
「ぐっ」
言葉に詰まるを見事に言葉で表してくれた。
「いや、まぁ水に流そうと思えば流せるんだけど…その、仲良くするのは…いや別に多摩川の事が嫌いって訳でもないんだけど、」
さっきまで勢いよく飛んでいた言葉が急に失速する。
そのままもごもご呟いているので、早く言えよという脅しを込めて首を傾げると、伝わったのか伝わらなかったのかようやく口を開いた。
「あんまり喋りすぎるとボロが出そう」
主語を濁した、アバウトすぎる言葉。この一文だけで何の事か分かったらノーベル文学賞でもとれそうだ。
…と、とぼけている私こと多摩川たま、実は彼が急に歯切れの悪くなった理由をなんとなくわかっていたりする。
「私がここに来て、高崎君と喋る事になにか問題でもあるの?」
高校時代に裁縫箱にカニ味噌を詰められたからでも、教科書に虫を挟まれたからでもない。彼が私との邂逅を拒んだ理由。
「私としゃべるとボロが出る…ねぇ」
私に見つめられた目が泳ぎだす。
「いや、その」
あんまり長い間二人きりで居ると怪しまれたりするだろうし、そろそろ切り上げにかかろうか。
「あ、もしかして私の事好きだったとか?」
「そんなんちゃうわ!!!」
踊り場に響き渡る関西弁。
メデューサと目があったりでもしたのか微動だにしない高崎君と、ここは私も合わせて石化しておくべきだろう!という謎の協調性を発揮した私が見つめ合うこと数十秒。
「ぁぁああああ…」
この瞬間、崩れ落ちたのだった。彼自身だけじゃなく、何か彼にとって積み上げて来た大切なものも。