伍
それは実に、『村雨』と葛葉が最後に会った日から半年を過ぎた、ある曇りの夜のことだった。
この頃になるともう誰も義賊の噂をする者もなく、時折『村雨』の名を語る賊が現れてみたりはしたものの、すぐに岡っ引きにとっ捕まり偽物と知れ渡ったりもした。そんな吉原は変わらず平和なもので、今日も誰もが艶めいた賑わいに身を任せていた。
そんな色街の一角、滝川屋の軒の上に一つに人影があった。それがまさに本物の『義賊の村雨』であった。遠い日々通い詰めたその座敷へ辿り着くと、そいつは開け放たれている窓から中を覗き込んだ。
ところがそこに愛しい女の姿は無かった。うず高く積まれた布団、その部屋の中で一人の幼い少女がたどたどしく論語を読みあげているだけである。
「おい」
思わず村雨はその少女に声をかけた。頭のてっぺんでちょんと結んだ髪が揺れて、少女が顔を上げる。また頬がふっくらとした幼い顔立ちだ。
「ここは、葛葉花魁の支度部屋じゃなかったか。あいつは、どこにいる?」
問いかける間、じっとその顔を見つめていた少女はふいに「あっ」と声を上げると紙の束を放り出して駆け寄ってきた。
「もしかして、『よぎりねえさん』かい?」
心の臓がびくりと跳ねた。身体中の血が全て足元に落ちたのではないかというくらいに頭が軽くなり、反対に足は鉛のように重くその場から動くことができない。冷たくじっとりとした何かが額に滲み、村雨は言葉を失った。何故、何故この幼子に『自分の身元が分かった』のだろう。長らく呼ばれなかった名である。もう誰もがとうに忘れた名である。それを何故今になって。
浅い呼吸を繰り返す村雨に少女は続けて問う。
「あれ、違うのかい? だって葛葉姐さんは『長い髪を一つに結って着物の中に仕舞っている風来坊がそうだよ』って言ってたよ」
「なに、」
葛葉の名前に微かに声を上げる。そうだ、今は葛葉のことが先だ。
「葛葉花魁が、そう言ったんだな」
「あい」
「なら合ってる。……おれが、そうだ」
やっとの思いで肯定を口にすると彼女は安堵の表情を浮かべて帯に挟まっていた折りたたまれた紙を引っ張り出した。何度もそこに挟み直したのだろう、縦長の長方形の真ん中のところでへにゃりと折り目がついてしまっていた。角も綺麗な直角ではなく所々ひしゃげている。書きあがってから何カ月もたっていることは明らかだった。
村雨が恐る恐る手紙を裏返す。そこには流れるような、しかし決して綺麗とは言えない文字で『夜霧姐さんへ』と記してあった。
「おい、これは、なんだよ。どういうことだよ、あいつは、葛葉はどこだ。お前さんに手紙なんぞ託してあいつはどこへ、」
「おいらん姐さんは、五月前に病気で亡くなりんした」
ズシン、と。無邪気でそれゆえに直接的な言葉が全身に打撃を与えた。ぐわんぐわんと景色が歪む。禿の声が遠く聞こえる。
「肺の病と聞きんした。医者を呼ぶなんぞここではできないから、投げ込み寺行きになったの。床で姐さんがあんたに渡しておくれって……あっ『よぎりねえさん』!」
飛び出した。人目もはばからず高い軒から裏路地に飛び降りた。耐えられなかった。耐えられるわけがなかった。死んだ? 葛葉が死んだ? 楽しみにしていると、うんと楽しみにしていると、あいつはそう言ったのに。
「嘘吐き!!!」
叫んだ声は艶めいた騒がしさに溶けて誰の耳にも届かない。人混みをかき分け、押しのけ、ひたすらに走った。叫んだ。門番など気にせず大門を突き抜けてただただ走った。後ろからおい待てと罵声が飛ぶ。大勢の足音が迫ってくる。それでも村雨は足を止めなかった。葛葉のいない吉原など、葛葉のいないこの世など、もう何の意味も成さないのだから。
鉛に濁った空がぶるりと震え、ぼたぼたと大粒の雫を落とす。どことも分からない道がぬかるみ、足をもつれさせても止まる気にはなれなかった。このまま走り続けていたなら葛葉に会えるような気がしたのだ。このまま、どこかへ。葛葉のいない場所から、葛葉に会えるところへ。
不意に絡まった脚が村雨の身体を泥へ打ちつけた。起き上がろうと地に手をつき、そこで初めて自分が手紙を力任せに握りしめているのに気がついた。『夜霧姐さんへ』。ああこれは、これは葛葉の書いた字だ。葛葉が唯一この世に残した、彼女が確かに存在した証。
慌てて辺りを見回し明かりを探した。うっすらと、先の方の長屋から光が漏れている。勤勉な商人が金勘定でもしているのだろうか。だがそれは関係のないことだった。必死でその場へ辿り着くと、村雨は雨に濡れた手を震わせながらそっと手紙を開いた。
その後の『義賊の村雨』、もとい十年の昔吉原滝川屋で人気を誇った夜霧花魁のことは誰も知らない。雨の中泣き崩れたのだろうか、それとも無理に笑顔を見せたのだろうか。
しかし風の噂で時折運ばれてくるのは彼女によく似た女の話である。吉原から遠く離れたとある町の茶屋でその女は奉公をしているという。歳は重ねているものの、美しく気風の良い女である。そんな彼女には妙な癖があった。村雨が空を泣かせなさる日には決まって傘もささずにふらりとどこかへ出かけていった。何年もの昔から大事に大事に持っている、一通のぼろぼろになった手紙と、そして自分がしたためた簡単な文を持って。行く当てもなくまるで誰かを探すように、通り雨の中を彷徨うのであった。