肆
『義賊の村雨』が盗みを働くのはいつも悪徳の金持ちからだけだった。高利貸しとして幾多の家を破滅に追いやった者、材木を買い占め値段を吊り上げ町人の商売を立ちゆかなくさせた者、毒薬麻薬を裏で不当に売りさばき財を得た者その他諸々、挙げればキリがない。彼らは貯め込んだ財で豪遊することが多いが、その舞台に吉原が選ばれることはそう珍しいことでもない。嗚呼何の因果か、肥え太った奴らが買うその女はいつかの昔、自分が潰した御家のために売られた末娘なのだ。背負った借金を返すため、目の前の男が自身の家族を苦しめた悪の権化とも知らずに機嫌を取る遊女たちの悲しきことよ! (格下の遊女たちは客を選ぶことなどできない、小判を振らせてくれるものには誰であろうとすり寄らねばならないのだ)身請けなど夢のまた夢、万が一引き取られたとしても、その先で待っているのは汚らわしい愛人と周囲に罵られて暴力を振るわれる過酷な環境であることも多い。身請けされた者が全て幸せを手にするとも限らないのだ。
『村雨』が見つめる先にはいつでも遊女たちがいる。鳥籠のなか囚われて、逃げることも飛び立つこともかなわず空を見上げてそれでも誇りだけは失うまいと懸命に生きる彼女たちが。願わくは一人でも多く、病死でも身請けでも老衰でもなく、自ら手にした金で吉原から解放されてくれと、そんな思いと共に義賊はまた盗みを繰り返すのだ。
人々が喧騒に呑まれ『村雨』を忘れる頃、そいつはまた小判を抱えて吉原の夜に降り立った。一月に一度くらいだろうか。盗んでは撒き、盗んでは撒いた。そうして最後には必ず滝川屋の前に立つのだ。小判餅を手に取り愛おしげに記すその名前は『葛葉』。彼女の笑顔を願い、自由を願い、欠かさずその座敷を訪れた。他愛もない話をして、笑いあって、少しずつ少しずつ互いの距離を縮めた。二十歳を過ぎたばかりの彼女が時折見せる歳相応の無邪気で愛らしい笑顔が、村雨は息が詰まるほどに好きだった。透き通るように白いその肌も、触れたらくずれてしまいそうに華奢な手足も、儚く咲く花のようでどうしようもなく心を奪われた。
しかしそれとて葛葉もまた同じことだった。流れる季節の中で彼女が村雨のことを忘れる日は一日たりとも無かった。雨が降る夜には必ずその後ろ姿を思い出した。もっと会いたい、永久にそばに居たいという想いを胸の奥に仕舞い込んだまま眠った。
そんな穏やかな日々の中、あるとき葛葉の元を訪れた村雨は顔を曇らせこう言った。
「近頃捕り方連中がやけに躍起になっておれを縄にかけようとしてやがる。どこのお偉いさんから金を貰ったんだか……」
「金に物言わせてあんたを捕まえようって? ふふ、そんなことできるわけがないのに」
すっかり聞き慣れた地の言葉遣いで彼女はくすくす笑う。
「信用してくれてんのはありがてえが、事はそう簡単じゃねえんだ」
参った、と呟くときょとんとした顔で首をかしげられた。
「おれがねぐらに使わせてもらってた茶屋に火をつけられた。つっても火消しどもが気張ってくれたおかげで、そこまでひでえことにはならずに済んだんだ」
怪我人もいなかったしな、と付け加えて村雨は頭をかいた。事態の深刻さが理解できたのだろう、葛葉も神妙な顔で口をひき結んでいた。
それでだ、と立ち上がりながら言う。
「ここを嗅ぎつけられたら困る。お前さんに万が一のことがあっちゃいけねえからな。だから悪い葛葉、しばらくは……」
こほん! と大きな咳が言葉を遮った。続けざまに葛葉が苦しそうな咳を繰り返す。村雨が慌ててうずくまった彼女の元へ駆け寄って肩を掴んだ。
「お前……最近咳が多い。大丈夫なのか」
「あちきのことはいいの、それより」
「葛葉!」
「あちきがいいつったらいいの。それよりさっき言いかけたこと」
大丈夫、と心配そうな表情を浮かべるその頬を両手で優しく挟むと、歯痒いと言いたげな視線を畳に叩きつけて村雨は呻くように、
「……ほとぼりが冷めるまで、盗みは、やめておく。だからお前さんとも……今までみたいにゃ会えねえ。次ここに来れるのは、いつになるか……」
今日も多分捕り方がしつこくその辺りをうろついてるだろうと、そう言った。ゆっくりと葛葉の手が頬を滑り落ちる。そう、と静かな声で彼女が呟いたような気がした次の瞬間、ものすごい力で着物の合わせを引っ張られ、体勢を崩した村雨は間近に迫った葛葉のいたずらな笑顔に目を見開き、そして。
それは一瞬のことだった。
「それじゃあ見つからないうちに早く行きな」
ぐいっと背中を押されて村雨が半ば無理矢理外に押し出される。
「次に会える日をあちきはうんと楽しみにしてるから」
早口にそう言われて、別れ際にもう一度その顔を見ようと思ったものの、ぴしゃりと障子を閉められてしまった。ふと我に返って、そうだ早く吉原から出ていかねばと走り出す。
夜風が熱くなった頬をかすめていく。思い出して村雨は唇に付いた紅を親指で乱暴に拭い取った。
「あいつ……っ」
悔しげに舌打ちを一つすると、今宵の義賊はひどく冷静さを欠いたまま闇へと消えた。