参
ほの暗い座敷の中、女が紫煙をくゆらせる。無人ではなかった。人がいた。焦りと緊張で呼吸が詰まる。眉ひとつ動かすこともできずに村雨は次の一手を考えるべく働かない頭を懸命に叩き起こした。
女が闇に沈んでいた顔をこちらへ向ける。ほのかな月明かりに照らされ、丁寧に化粧を施した顔ににじませた驚きの色が露わになった。静けさの中に響いた息を飲む音は、女のものか義賊のものか。
「……美しく、育ったな」
長い長い沈黙ののち、掠れた声で村雨が呟いたのはそんな言葉だった。
「あれ、旦那はあちきを口説いているのでありんすか」
ころころと女が笑った。美しく整った目尻は垂れさがると歳相応のあどけなさを取り戻し、たおやかで色っぽい声音は、鈴のように跳ねて美しく鳴った。
「けれど残念。あちきを買いたいのなら、いくら色男でもキチンと茶屋を通しておくんなまし」
煙管を口にくわえ、挑発的に微笑む。その冗談につられるように村雨も口角を上げた。
「お前さんを買いにきたんじゃねえ、お前さんの『度胸を』買いに来たのさ」
「へえ」
強張った体をほぐしてその場にあぐらをかく。いつもの大胆不敵な調子を取り戻すと一考ののち、ぱんと膝を叩いた。
「おれは今ちょいと仕事の際中で、嫌あなことに捕り方に追われてる。しばしの間ここで奴らの頭の血が足の先まで落ちるのを待ちてえんだが、どうだい。誰に何を聞かれてもその綺麗な紅をひいた口を閉じといちゃくれねえだろうか」
「何か見返りは?」
「そうさなあ、この色男が毎晩愛を囁きに来てやるよ」
女はけむりを長々と吐き出す。
「しかしよほど位の高い花魁さまとお見受けする。もしおれが今ここを追い出されたなら傷心のあまり通りで『滝川屋の花魁は人の世を乱す物の怪だ』とふれまわってしまうかもしれんなあ」
「……あちきを脅してるのでありんすか」
「そう怖ぇ顔をするもんじゃねえよ、美人が台無しだ。いや、変わらず美しいか」
不敵に笑い合う。けむりの香りがゆるやかに鼻孔を刺激して、そして。
「わかりんした、色男の頼みとあれば断る道理もござんせん。ここはあちきの支度部屋、普段はあちきしかおりいせん。いつでもお好きなときに旦那が使いなんし」
火鉢に煙管をコツンと打ちつけて灰を落としながら女はそう言った。その横顔はどこか楽しげですらあり、同時に哀愁に満ちているようにも見えた。
「恩に着る。このご縁に、花魁さまの名前を教えちゃくれねえか」
「葛葉でありんす」
村雨がぽっかりとその口を開けて呆けた顔をしたのはほんのひとときで、次の瞬間には腹を抱えて笑いだしていた。
「へええ! 冗談のつもりだったが、まさか本当に物の怪だったとは! 葛の葉と言やぁ立派な化け狐じゃねえか。偉い美人に化けたもんだなお狐様よ」
涙を流して笑う村雨に、葛葉は端整な顔をむっとゆがめて
「あちきの姐さんが物の怪と噂されたせいでこんな名付けられ方をしただけでありんす。あちきは正真正銘人でありんす」
と反論した。
「そうかい、そりゃあ悪かった」
「ふん」
そっぽを向き、また煙管を口へと運ぶ。村雨はその様子に苦笑いで頭をかき、そしてすっかり静かになった裏通りを覗き込んだ。
「そうしたらおれは行くとしようかね。あんがとよ」
敷居に足をかけて振り返ると、葛葉は慌てて不機嫌な顔を直してこう言うのだった。
「旦那のお名前も知りたいでありんす」
すがるような目に、一度は躊躇ったものの素直にその名を名乗る。
「村雨だ」
ほ、と彼女の口から驚きの息が漏れた。
「噂話もよろずの色、あの『義賊の村雨』だと」
「そんな大したもんじゃねえさ」
これは自分自身の願望のために。だから義賊などともてはやされるようなものではないのだと、村雨は自嘲気味に微笑んだ。
「それでもうちの女たちは喜んでおりいす」
「そりゃあ良かった」
目を細めて笑顔を向ける。そんな義賊に葛葉も柔らかく微笑んだ。
「今宵は月がまん丸で、とても綺麗でありんす」
「そうだな、気がつかなかった」
花魁の言葉に促されて夜空を見上げる。白い光の中で楽しげにウサギが餅をついているのが見えるほど、今夜の満月は鮮やかに輝いていた。こぼれた月明かりが座敷にゆっくりと落ちている。
「暗い部屋でのお前さんも美しかったが、月明かりに照らされたお前さんの方がケタ違いに綺麗だな」
「おかたじけ」
天女のように神秘的な美しさを一層際立たせ、ふわりと笑った葛の葉は、眩しげに手でひさしをつくって村雨を見上げた。
「村雨殿も月を背にした姿はとても麗しいでありんす。凛としていて妖しくて、それに深い黒の髪もよく映えて……」
言葉を切った葛葉は、こんこんと可愛らしい咳をした。
「その髪、殿方にしては長いでありんす」
「ああまあ。よく分かったな」
髪結処に行く金もないからひとつに結って着物の中に仕舞ってあるのだと言えば、彼女は納得した様子だった。
「真っすぐで美しい長髪。あちきはそれがとてもうらやましくて、好きでありんす」
「昔誰かにもそんなことを言われたなあ」
曖昧に微笑んだ村雨は来たときと同じところから軒に降り立ち、歩き出しながら美しい花魁に背中越しに手を振る。
「それじゃあな」
「またいつかの夜にも待っておりいす」
「ああ」
短い返事に、葛葉は満足そうに笑って障子を閉める。その向こうからまたこんこん、と幼子のような咳が聞こえていた。
呼応するように急な黒雲が音もなく月を隠す。ぽつりぽつりと落ち始めた大粒の誰かの涙に、通りの人間は慌てふためき逃げ惑う。誰かがこう言った。
「村雨だろう、こういう雨はすぐ止むさ」
暗い雨に濡れ泥を跳ね上げながら、誰にも見咎められることなく溶けるように、義賊はそっと吉原から姿を消した。一輪の懐かしい華に出会えたことを心の底から喜ぶように、口元にかすかな笑みを浮かべて。