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夜の海は境が見えなかった。街灯がなければここも海なのではないかと思ってしまう。気を抜くと飲み込まれてしまいそうで、だけどなぜか目をそむけることができなかった。
「あれっす」
前を走るリョウトが顔を少し横にずらして言った。数百メートル前に光が寄り集まったような場所が見える。
俺たちはスピードを緩めると店の駐車場にへ右折した。近づいてみると木目なのかそう見える塗装なのかいずれにしても南国を彷彿とさせる外観がライトアップされていてなかなかオシャレな雰囲気だった。二つ並んだ店のうちステーキ屋の方へ入る。
一瞬、店員が躊躇するのが分かった。その反応で自分が他人からすると敬遠したくなるような雰囲気であることを思い出す。仲間といるとそれが当たり前だからよく忘れてしまう。俺たちが身にまとっているものは学生の制服と似ているかもしれないと俺は思う。これさえあればとりあえず自分の居場所が保証される。そこが気に入る、気に入らないに関係なく。俺たちは新しく自分の居場所を作る難しさを嫌という程思い知ってきた。多分俺たちに限らず、この年まで生き残ったやつみんなそうだろう。裏切り裏切られ、時に場所を変え自分の椅子を守ってきたのだ。そうやって手に入れた場所で俺は今、なんだかひどく浮いたように感じる。足が地面を踏む感触がまるで希薄だ。確かにここは居心地がいい、けれどなんだか物足りない。おかしな話だ、生きるために必死で手に入れた場所、おさまってみるとまるで生きている気がしない。それはきっと俺がバカだからだ。見ちゃいけないものを見ようとしているからなのかもしれない。
海風で髪も肌もパリパリになった頃、俺たちは集合場所を目指した。十二時をまわり、前にも後ろにも俺たち以外にタイヤを転がす者は見当たらない。エンジンの振動でさっき食べた胃の中のステーキが跳ねる気がする。俺は、もう歳だな、なんてたいして生きてもいないのに思ってみる。でも、なんでもあっという間に消化していた昔の身体とは違うのは明らかだ。二十歳越えたらくるよ、なんて先輩達はよく言ってたのは本当だったようだ。
「うおー、やべー」
リョウトが音量も気にせず上を向いて叫んだ。俺も視線を空に向けてみる。怖いほどよく晴れ渡った星空だった。ここら辺でこれほど星が見えることなんて滅多にないだろう。みなが暫く黙りこくってただ宙を見つめる。けれど俺の眼は空よりもっと奥に焦点を合わせていた。
あの日の空は正反対だった。夜だっていうのにドス曇りだとすぐ分かるくらいにまとわりつくような憂鬱が漂っていた。
「おい、マジかよ。降ってきやがった」
低めの落ち着いた声が言った。
「やっぱ、ヨウスケさん、雨男なんすよ」
聞き慣れた笑い声が響く。
「ちげーだろ、たまたまだろ」
ヨウスケさんが下顎を突き出した。
「俺もカイトに賛成っすね。これはヨウスケさんのせいです」
これは・・俺の声だ。振り返るった俺は、まだ髪の長い頃のヨウスケさんと四六時中見てた懐かしい顔を捉えた。
「ほらぁ。前回もその前の前もヨウスケさんが来る時だけ天気悪いんすもん」
「雨降ったくらいでぴーぴーうるせぇなー」
ヨウスケさんは煙草に火をつけてカイトに煙を吹きつけた。
「けむっ」
「まあでも最近俺ら調子いいんで、今日ももらいましたね」
俺はカイトの肩に腕を置いて、なっ、と軽い声を出す。
「そうなんすよ。絶好調すから。ヨウスケさん足引っ張んないで下さいよ?」
「なにぬかしてんだよ中坊が。百年早えよ」
俺は道路の反対側に視線を向ける。
「今日の相手群馬の奴らなんすけど。なかなかやるらしいすよ」
「瞬殺」
中指を立てて見せるヨウスケさんとカイトの声が重なる。ははは、そうっすよね、と笑いながら俺は浮いた気持ちだった。
その頃の俺らは怖いものなしだった。バイクが体の一部だと思えるくらいにはなっていたし、エンジンの音でその日のマシンの調子が分かったし、プロにだってなれるんじゃないかとさえ思っていた。他のグループとのレースだって負けなしだったし、警察をぶっちぎるのなんて朝飯前だった。でも逆に風を切っていなければ落ち着かないくらいにはとりつかれていた。だいぶ前、ヨウスケさんが、
「俺くらいになるとぎりぎりを極めたぞくぞくするような走りができるんだよ」
と言っていた。俺とカイトはよく考えもせずそれに憧れてヨウスケさんの背中を追いかけていた。そして最近、
「なんか風が耳を掠める時、一瞬越えちゃいけない線みたいなものを感じるんだよな。その線ぎりぎりに寄せる時のスリルがたまんねぇよ」
とカイトが朝日を見ながら語った。
俺は・・・俺も同じだった。普通に走ってるだけでも楽しいさ。けれど一度味を知ったら、もう普通じゃ足りない。バイクを降りた後でもビリビリと頭の奥の方に残る高揚、身体中の神経が一斉に活動して生死のラインをギリギリ感じとって、自分は生の側にいるという証明。それを何度も確かめたくなる。人は欲張りだ。
その日はいつも以上にその線がハッキリと感じ取れていた。多分俺だけじゃないはずだ。カイトもヨウスケさんも、だから俺は自分と二人の輪郭がくっきりと分かった。いつもだったらここで浮いた気持ちに徐々に焦点があってきてボヤけたピントが調整される。でも、その時は違った。なぜか俺の腹はいつまでたってもふわふわしたままで、視点は少し遠い気がした。その分視界は広く、普段より周りがよく見えた。ゆっくりに見えた。
三人でチームを組んで決められたコースを最初に十周した奴がいる方が勝利。定番、俺たちがよくやるレース形式だ。コースといっても夜のめったに車が通らないような道を勝手に通行止め、貸し切り状態にして行う。三人で協力し、チームの一人を勝たせるために相手のエースを妨害したり、それを守ったり、と結構危ない場面もある。やんちゃな奴が多いからちょうどいいのかもしれない。詳しい奴に聞くとなんでも自転車ロードレースに似ているらしい。初めにこれをやり出した奴はきっと自転車のレースを真似してルールを考えたのだろう。俺はこのレースを結構気に入っていた。駆け引きはもちろんチーム全体での戦略みたいなものも必要で運転技術だけでなく頭も使うからだ。ヨウスケさんとカイトとチームを組むようになった最近は連戦連勝、勝つのが当たり前、それでも二人と走るのは楽しかった。
「ほらね、楽勝っすよ」
「まだ終わってないぞ、カイト、前向け」
俺たち三人は縦に並んで、カイト、ヨウスケさん、俺の順で走っていた。調子に乗ってるカイトをヨウスケさんが戒める。レースは残り二周、だけどこの時点でほぼ勝負は決まっていた。もちろん俺たちの圧勝、のはずだった。残り一周、俺たちは退屈になったレースに見切りをつけ、少しづつ感覚を削りながら沈んでいった。高速で叩きつける雨の音が遠くなり、やがて消えていく。雨の冷たさも空気を切る時のひりひりするような肌の感覚も鈍くなる。雨の日のコンクリート特有の湿った匂いなど遠に忘れて、視界から色が薄くなっていった。感じ取れるのは俺達自身と曲がりくねった道、それとあの境界線。見えているわけではない、聞えているわけでもない。だけどすぐそこにある。越えてしまいそうになる自分を何とか抑えながら、俺たちは全身の血が逆流するような感覚の中、その線だけをみて走った。
それはいったい誰が引いたのだろう。神様が暇つぶしに、気まぐれにペンを走らせたのだろうか。今まで滑らかだったものが突然波うつように、本当に気まぐれに、跳ねた。俺たちはあっという間にそれに飲み込まれた。気づいたら向こう側だったのだ。
俺の色を失った視覚は先頭を走るカイトのその瞬間をとらえた。若干オーバースピードでコーナーに突っ込んだカイトは少しバランスを崩しながら車体を倒した。林道の下り坂、左カーブ、雨、水のたまった白線。前輪がそれに乗った焦ってコース取りをミスったか、雨で見えなかったのかどちらにしろ、カイトのバイクは地面との摩擦を失った。そこからは映画のワンシーンかと思える出来事がコマ送りにゆっくりと見えた。
気づくと俺はまばらに生えた雑草の上に横たわっていた。すぐ横に幹の太い木がある。なんとか上半身を起こして木に寄りかかった。荒い息のまま視線だけを彷徨わせると針金みたいに曲がったミラーが数歩先に転がっている。さらにその先にカイトがいた。身動き一つしないが、この位置からは様子がわからない。俺は自分の体を動かしてみた。痛みで鈍いものの手足の感覚はある。目も見えているし、耳も聞こえる。とりあえずカイトのところまで行こうと体を起しかけた時、左わき腹に激痛が走った。とっさに右手で体を支えたが、咳込んだ。咳をするたびにナイフで刺されるかのような痛みを感じ、横になってしまう。抑えていた左手を見ると血まみれだった。
「なあ、シン」
カイトの声がする。
「わりぃ、しくった」
声の方へ視線を向けるとカイトが顔だけ横にしてこちらを見ていた。その顔はいつも、わりぃ 遅れた、と言って遅刻してくる時のそれと同じだった。そんな憎めない笑顔で彼は続ける。
「俺、ヤバイわ。痛みも感じねぇから・・」
「ランニングハイってやつじゃねぇ?」
俺は自分でも訳のわからない冗談を言っていた。
「はは、バイクでもそれがあるなんて初耳だな」
「俺もだ」
「相変わらずてきとうだな。初めて会った時からそうだよお前は」
「自分だっていい加減だろ⁉︎ だからお互い気があったんだろうけとな」
「ちがいねぇ。・・・こういう終わり方もありかな」
「・・・」
俺は何も言えない。
「最後の最後まで楽しかったしな」
カイトは実に愉快そうな笑みを浮かべた。と思ったら真面目な顔になって、
「リョウト、頼むよ。あいつも俺と一緒でバカだからよ。小さいころから俺の真似ばっかしやがって・・」
「気づいてないのか。お前の方がバカだぞ、リョウトの方がしっかりしてる」
「へっ、だからだよ。ちゃんと考えてるんだけど、妙なところで頑固で融通きかねぇから、よ」
カイトは苦い表情を浮かべている。
「ちっ、面倒くせぇな」
俺は極力平然を装って応えた。
「わりぃな、いろいろと」
そう言ってカイトは目を閉じた。