6-06
イベントが始まる前に逃げてしまう事になるけれど、別段後悔はしていない。人生慎ましやかに終えるのが一番である。
時には積極的にスルーすることも大切なのだ。
「ここに残らないかい?」
「申し訳ありません、在野として過ごす方が性分にあっておりますので」
魔術師団長の引き止める声をすげなく切り捨て、ここしばらく務めた仕事を終えた。
この仕事に別段ノルマは無かったし、語り伝えていない経験等は、ギルドの守秘義務に入らない範囲で書き残してあるから問題ないと思う。
「残念振られたか。けど、何時でも待ってるからね、ありがとう」
「ええ。それでは」
別れの挨拶に軽く返し、本日の業務を終えて家に戻る。
相変わらず別れが苦手なので、打ち解けてきた他の術師には何も言わず、こっそり辞める事にしたのだ。
それに加えケモノの感知と召喚獣による察知でユスティさんに遭遇しないようにすぐさま王城を後にする。若干尾行かなと思う女性騎士2名も振り切って。
ややこしいイベントは起こさせない。
あの日記に書いてあった事が事実ならちょっと可哀そうに思うけれど、関わるとろくな事がなさそうですし。
やれやれ系の巻き込まれ系は性分じゃない。
「戻りました」
「おかえりなさいませ。お湯を入れておりますよ、シズナさん」
足早に家へ戻り、夕方少し前に辿り着いた玄関を開けると、阿吽の呼吸のようにそんな声が奥から返ってきた。流石アリエルさん。
「何時もありがとうございます……あ、本日も美味しかったですよ」
「まぁ。お粗末様でした。では、御約束を下さいませ」
「は、はい」
魔術で仕舞っていたお弁当の容器をリビングの流しに置いた時、隣接する部屋で服を畳んでいたアリエルさんが立ち上がって、"何時もの"催促をしてくる……いや、催促じゃなくて対価なんだけれどね。
「……では」
アリエルさんに近寄った私は徐に彼女へ抱き付いた。その手折れそうな腰を抱き寄せ、片手を彼女の頭に回して強く抱き寄せる。
しかしお互いの顔を近付ける事はせず、そのまま彼女の小さな顔を私の首筋へ埋めた。
……何でも、適度な運動後の匂いがイイらしい。
そりゃ私だってそう変態じみた事を考えた事はあるのだが、なんでも家事をしているアリエルさんは最近それに目覚めた、と。
服やシーツ、タオルなどを洗う時にその良さに気が付いたらしい。
専業主婦かっ。
いや専業主婦なのか……。
商家はほぼスルドナさんが後を引き継ぐことにしたらしいし、アリエルさん自身は偶に家を手伝いに行っているだけだそうだ。
彼女の母曰く、嫁がせている気でいるとの事。
今現在アリエルさんは私の家で、私と他の3人の面倒を一手に引き受けて下さっているので、頭が上がらない。
そんな彼女は今私の腰を両手で強く抱き締め、アリエルさん自らその柔らかな身体を押し当ててくる。
嫌な訳ではないけれど、ちょっといやかなり気恥ずかしい。
耳元ですんすんと、その綺麗に整った鼻を鳴らす音も聞こえてくるし、知らず自身の身体が火照ってくるのも感じる。
「……ん」
「あ、ちょっ、汚いですからっ!」
慌ててそう言ってしまう。
なにせ、湯も浴びてない首筋を舐められたから。
多分吸いつくと後が残るからと、若干ずれた配慮なのだろう。今晩は皆戻って来ると聞いてるので夕食も一緒だし。
けれど時たま思い出す、男であった時ならいざ知らず。
この"身体"でそんな事をされるとかなり焦る。何がどうと言う訳でもないのだけれど、先程より輪をかけて恥ずかしい。
抵抗しようとして身体を身動ぎさせたが、まるで獲物に絡みつく蛇か餌を捕まえた蜘蛛のようにその拘束を逃れる事が出来そうにない。
力ずくでどうにかする事も出来なくは無いが、けれどそんな危ない選択は元から却下である。
「ひぃ」
どう逃げ出そうか考えている間にも、彼女の執拗な舐め取りは続く。
そのうち、舐め取る音に水音が混じってきて、その音が耳朶を震わせる度に身体のソコから火照ってくるのを感じた。
「ふぅ。シズナさん、最近かまってくれませんでしたので」
「は……はぁ、ご、めんなさいぅっ!」
ようやっと終わりかと思った瞬間、今度は硬い物が首筋に押し当てられた。
自身の口から零れてしまう声を意識して無視し、何だ何だとそうなってしまった原因に意識を総動員してみる。
あ……歯を立てられてるっ。
「あっ、や、やめっ、あぁっ、あっ!」
声が、声が出てしまう。
自身の生命に薄皮一枚隔てたその箇所を、立てた歯で軽く甘噛みされてしまっていた。電流にも似た強い刺激が首筋から脳裏まで走り、その後全身を駆け巡る。
もう彼女を抱いていた手は込める力を失い、アリエルさんの首に腕を回して何とか立って……いや砕けている腰を支えている状態だ。
そう、すでに足腰は砕けてしまっている。腰に回されている彼女の手が無かったら、無様にへたり込んでいるだろう。それくらい首への刺激はヤバい。
「あ、ありえるさ、ん、うぁっ……だ、だめ、やだぁっ、あっ」
「ふぁい、ん」
立てた歯の隙間から返答するアリエルさん。そして名残惜しそうに歯を浮かせ、ねろりと舌で一舐めされる。その刺激にぞくぞくと得体の知れない物を感じた。
「……大丈夫ですの、跡にはなっていません」
「そういう問題じゃぁひっ!」
こちらの発する声を遮るかのように、またも首への甘噛みを繰り返される。
ヤバいヤバい。
今までの非じゃないくらい、刺激が強すぎる。
……後になってこの事を思い返し、それとなくモエに首筋は弱点足りえるか聞いてみると、怪訝な顔をされてしまった。
そしてその後は説教が始まってしまう。
「いい?首、若しくはお腹を相手に差し出すっていうのは、その相手に対してもうどうにでもして下さいって合図なのよ」
「え?」
「はぁ……これだから……つまりね、ほら、よく子狐は親狐に首筋を咥えて運んで貰ってるでしょうし、お腹なんて致命的な部分は気を許した相手にしか見せないでしょう?」
「はい。確かに言われてみれば」
「そ。つまりケモノ的な因子を持っている私達のような種の、まぁ本能で分かる弱点って訳ね。心臓とか、脳とかとはまた別なの」
冷静に返されて、今まで知らなかった事を怒られてしまう。アヅマ母にも教わらなかったのか、と。
確かに、知らずにいる事は危険な事だったかもしれない。
そんな弱点を――今正に直で甘噛みされている。
「あっ、あぁ、あっ……」
意味のある声を出す気力も無くなっているさなか、それは来た。
「っひ!」
強い刺激で食い縛った歯の奥、喉の奥から音が漏れてしまう。意図せず瞳は閉じてしまい、けれど瞼の奥にちかちかと点滅する火花を消すことができない。
また、水音がする。
「な、にを……あ、あぁ……あり、えるさ、ん……なにを、っ!」
それも、粘つくような、そんな水音が。
分かった。
丁度鎖骨と顎の中間地点の、最も柔らかい首筋。命を握られていると言っても決して過言ではない箇所を甘噛みされながら、その綺麗で長い舌によって舐め上げられたのだ。
ぞくぞくと、私の背筋が震える。
腰から甘痒い刺激が這い上がる。
あ、ヤバ――。
そこから先は、まぁ記憶がないって事にしておくしかないね。
お風呂から上がると、そんなに長い間入っていた訳でもないのに皆が帰宅している気配がする。
脱衣所を出て真っ先に見つけたメルカちゃんに声をかけた。
「おかえりなさ、メルカちゃん」
「ん、シズねぇただ、い、ま……」
「どうかしましたか?」
「い、いや……えとね」
「?」
「あ、あたしお風呂頂いてくるねっ」
メルカちゃんは頬を赤くし、両の手を後ろに回してもじもじと俯いたかと思うと、そう声に出して足早に脱衣所に向かってしまった。
何だ何だ。
「あ、メルカちゃん着替え……アリエルさん、メルカちゃんの着替えどこですっけ?」
「はい。わたくしが持っていきますので、大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
おっちょこちょいだなぁメルカちゃんと思いながら、リビングに入り残りの2人に向き合った。
「お帰りなさい、姉さま。モエ」
「おう」
「ただいまシズ、ナ……」
姉さまは短い返答をして、座っていた椅子から振り向いたあと怪訝な表情を浮かべている。
モエなど、固まってしまっていた。
変だな……お風呂に入ったから匂うって訳でもないだろうし、特に髪型も弄ってないから変な所は無いはずなんだけど。
……あ、ちゃんと首筋に跡が残ってないかも確認した。
ちょっと赤くなっていたけれど、まぁ誤魔化せない範囲じゃなかったのでそのままにしてある。
……脱衣所にメルカちゃんの服を置いて戻ってきたであろう、アリエルさんが自身の首筋に手を当てて、意味深に艶やかな唇を真っ赤な舌でぺろりと舐め上げた。
笑みの顔を浮かべているし、その仕草を見た私は何か恥ずかしく感じてしまう。
アリエルさんと一緒にリビングの大きな椅子に座ると、動き出したモエが唐突に声を出した。
「ちょ、ちょっとどうしたのよシズナ」
「え、何がですか?」
「あんた、尋常じゃなく、その……何ていうか、ね」
「はい?」
さっきのメルカちゃんと同じように頬を染めて俯いてしまうモエ。
いやここまで露骨な反応をされると、何かあるのは理解できるけれど……何なんだ?
「はぁ……おいシズ。おんし、さっき何しておった?」
「え、えっと、さっきですか?」
「おう。大方おんしが湯に浸かる前じゃな」
「……」
何か確信を持って聞いてくる姉さま。いや、恥ずかしくて細かくは答えられないけれど。
「ワシはまぁ別段当てられんけんどのぅ。ケモノっ子にとってそれはキツイじゃろうに」
「はぁ」
「まぁええ。おんしはの、今誘ってるんじゃ」
「……は?何ですか、姉さま。藪から棒に」
誘ってる?
「まぁここ数日おんしは俗に言うアレじゃろ、発情期に入っとったんじゃろ?ええ、そこはケモノっ子なら仕方ねぇ。でもな、今のおんしの雰囲気はのぅ、この家の子には毒じゃ。つまり――」
何でも、私の雰囲気が淫靡な物になっているらしい。
なんだそれ?と思うけれど、続く説明を聞いて納得出来た。つまりは獣人を相手に誘うような仕草や雰囲気を発しているそうだ。
朝はそんな事なかったらしいから、原因は多分、さっきのアリエルさんとのアレだよなぁ……?
でも何でだろうと思いつつ、ある仮説を思いついた。
初めての発情期が終わって、身体自体が女性のものだと理解、自覚したのではないだろうか。
今までに、精神的に男ではないと自覚できる事はあった。
思い出したくもないけれど奴隷に落とされた時は色々な事を仕込まれた。その過程で精神的な部分での男性的な要素を上手く抑え込めるようになったと思う。
けれど、今回初めて身体が発情期を迎えて、先程ようやっとその期間が終わった所だ。
そして、思えば今日のアリエルさんの催促は、何か激しかった気がする。
多分そのアリエルさんとのスキンシップで心も身体も、そしてケモノの本能も女性であると理解したのだろう。
自身にはあまりその気がないし、多分一過性のものだと思う。
「心当たりがあるようじゃけぇ、なんも言わんがの。暫く外に出るのはやめにしぃや。色々と、面倒じゃぞえ」
「はい、そうしておきます。でも何て言うか、モエとメルカちゃんは大丈夫でしょうか」
「それ程気にせずともええじゃろうて。あん子らも嫌じゃないはずじゃけぇ」
んんん?
モエは分かるが、メルカちゃんも?
「ワシもあと50若かったら危なかったがの。そこの妖魔なんぞ、おんしの気に同調しておるわ」
「ふふ、リーンさまったら。わたくしは何時もどーりですのよ?」
「そうかぇ」
姉さまはやれやれと首を振ると、魔法袋から本を取り出し、夕食までの時間を潰し始めた。
その横ではチラチラとモエがこちらを伺っているが、今の話を聞いた後だと途端気恥ずかしくなってくる。
アリエルさんは頬に手を当てて微笑ましそうにモエを見た後、夕食の支度に戻って行った。
メルカちゃんのお風呂は女の子らしく長いし、夕食までまだ時間がある。
何というか、落ち着くまで私は大丈夫であろうか?
城から逃げ切ったと思ったら、今度は自分から罠に嵌ってしまったでござるの巻。
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