フランケンシュタインのゲシュタルト崩壊
私は誰だ。私は私だ。本当に私は私なのだろうか。けれど、私には私の記憶がある。フランケンシュタインになる前の私の記憶がある。なら、あの記憶は一体誰のものなんだ。以前の私にはあんな記憶はなかった。私の記憶は本当に私のものなのか。私自身の記憶というのは本当に存在するのか。私がフランケンシュタインになる前の私の記憶だと思っているこの記憶はあの記憶のように私を形成している他人のパーツの記憶の寄せ集めではないのか。フランケンシュタインになる前の私と、今の私は全く違う私ではないのか。私は誰だ。
疑問が一巡し、また巡っていく。あの旅行雑誌からもたらされた私の記憶と私の疑問。私という誰かの記憶。私は誰かという疑問。その誰かとは一体誰なのか。分からない。
私は誰なのか、という疑問は円周率のように、1÷3あるいは2÷3のように永遠に答がでないように思えた。
今、私は私を私という名の誰かの記憶に沈めてしまっている。その記憶はまるで深い海のようだ。私以外の他人にとっては、水たまり程度でしかないが、私にとってそれは海だった。
私という意識が霞んでいく。私という意識が私という海に溺れていく。
私には、それを止めることは出来なかった。