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09. 家族の状況

 一.


 義父のオペが行われたのは、入院してから二ヶ月半後の事だった。それは長い長い道のりで……そして、その間、家族のそれぞれの日常も動いていて……。

 今までにない、過酷な二ヶ月半だった。特に、皆を支える俊之にとって。


 正月休みの気の緩みからか、私は御用始の日に熱を出して寝込んでしまった。

「ちゃんと病院に行けよ。じーちゃんの方には感染を防ぐ為にも行かないって事をばーちゃんには伝えておくから、暫くは見舞いの心配せずに休んでおきな」

 俊之はそう言って出勤していった。気遣って、わざわざ遅刻の連絡を会社に入れ、優介を保育園に送り届けてもくれる心配りだった。

 彼は変わったな、としみじみ感じる。何処かで彼に対する可愛げの無い甘えが私の中に生まれて来たのは、この頃だったのかも知れない。

 私に何かあっても、きっと俊之がどうにか対処してくれるだろう。

 そんな風に思って、未熟な完璧主義者の私は家庭よりも仕事を優先した。

 後三ヶ月を切ったというのに、通常業務をこなすので精一杯だった先月の分を取り戻したくて、正月明けの比較的暇な今の時期に引継資料の作成等に専念する為、彼らが出掛けてから出勤した。

 病院に行った事にして、どうだった、と聞く夫にただの風邪だったと嘘をついた。


 十日を過ぎても熱が下がらない。辛うじて、ストックしてあった医者の処方による解熱剤で微熱まで熱を下げて俊之を誤魔化す毎日に限界を感じ、流石に心配になって近所の個人病院を受診した。

「んー……肺の音がちょっと変ですね」

 家には設備が無いので大きな病院で診察を受けた方がいいでしょう、と言われ、日頃持病のすい炎でお世話になっている総合病院への紹介状を書いてもらった。そこで諸々の診察を受け、初めて自分が肺炎を患っている事を認識した。

「相当辛かったでしょうに。どうして直ぐに来なかったんですか」

 いつもお世話になっている担当医が苦笑しながら私に優しくそう叱った。

「……私まで寝込んだら、今、とんでもなく大変な事になっちゃうんですもの……」

 私は、義父の入院や引越し、優介の小学校入学に関する諸々の問題など、知らない内に胸の内に蓄積されていたストレスを彼女に語る事で発散していた。

「それで先月は一度も来院出来なかったのね」

 もう、解熱剤を飲んだらダメよ、菌と戦っている身体が負けてしまうから却って症状が長引くからね、と言われ、いつものすい炎の薬と一緒に抗生物質を処方された。

「すい炎同様、肺炎でも入院は出来ないんでしょう?」

 と、担当医は困った笑みを浮かべながら言った。

 難しい我侭患者の私の為に、彼女は診断書を書いてくれ、私はそれを直接職場に郵送する旨を打診された。

「すい炎の時みたいに、一人でどうにかしようとしちゃダメよ。社員の健康維持を支援するのは職場の義務。助け合うのが家族。貴女のそれは、頑張りじゃなくて、ただの無理でしかないわ。事実を知ったら、皆貴女に感謝するより、きっと逆に悲しむわ」

 彼女のその言葉に励まされ、私は診断書の件をお願いし、その晩は俊之の帰りを待ちわびた。


「勘弁してくれよ……」

 帰宅した夫に自分の現状を話した結果、開口一番がこの一言だった。

 私は、話した事を後悔した。この人は、外面がよくなっただけで、相変わらず思い遣れない子供のままなのだ……。期待した自分が馬鹿だった。

「別に、俊之にどうこうして欲しいなんて思ってないわよ。勘弁も何もないでしょ。一応家族だから報告しただけ。病院には当分行けないから、おばあちゃんには肺炎の事を内緒にした上で……そうね、仕事の引継がかなり切迫してる、とでも言って、巧く納得させてもらえない? 私から言ったんじゃ、またおばあちゃんが要らない妄想で被害者意識を膨らませちゃうでしょうから」

「いちいちそういう引っかかる物の言い方すんなよ! 自分一人が大変だと思ってんなよなっ! 俺だってばーちゃんだって、それなりにいろいろ抱えてんだから、泣き言の一つ位聞き流してくれたっていいじゃないかよっ!」

 彼は怒鳴り散らすだけ怒鳴り散らすと、もう飯は要らん、と言って、寝室ではなくパソコンルームに閉じこもって出て来なかった。

 私が、自分の機嫌が直ぐとげとげしい言葉に出てしまうのは、俊之が相手だからこそ。私の方こそ、この程度くらい聞き流してくれてもいいじゃない、と、もっと、ずっと、寂しくなった。寂しく悲しく……孤独だった。

 俊之、あなたまで私を至らない嫁だと言うの?

 病気知らずだった私が、どうして暴飲暴食も遺伝的要素も無いのに、慢性すい炎なんて持病を患ってしまったと思っているの?

 私なりに精一杯やっているのに、まだ頑張り足りない、と言うの……?


 父の怒声に驚いて起きて来た優介が、怯えた声で

「母さん……父さんと喧嘩しちゃダメだよ。優ちゃん、悲しいよ……」

 と、私を慰める様に抱きついて来た。

「ごめん……喧嘩じゃ、ないんだ。母さんが父さんに嫌味な言い方しちゃったから、叱られちゃったの。母さんが優ちゃんを叱るのと同じ。喧嘩じゃないんだよ。心配かけてごめんね。ビックリしちゃったね」

 また、優介に押し付けてしまった。また小さな心を痛めさせ、彼に子供らしからぬ気遣いを強要してしまった、と悔やむ私がいた。

 乾いた咳を堪えながら、私は自分の家族を優介のみと心の中で決め、肺炎完治の診断を受けるまでは、午前中のみ出勤し、午後からは自分と優介の為だけの時間にする事にした。




 二.


 全てが終わって落ち着いた頃――この時期から数ヶ月程経った、夏を迎えようという頃に、俊之がこの頃に自分や義母の身に起きていた事を初めて私に語った。


 両親を亡くして、義父母が親代わりになって育てていた甥――俊之の従兄が事業に失敗し、義父に多額の借金をしたまま行方不明になり、その返済を入院費用にと当てにしていたのが消えてしまって、義母が俊之に相談していたらしい。

「あの子、何か変な思いつめた事をしないかしら。俊之、私は何を、どうしたらいいの?」

 それより現実的に、金だろう、と義母を叱咤し、従兄の件は、懇意にしている弁護士に相談する様指示をした。窓口は、今はこんな状況で義母は出来ないから、と従兄にとっても叔母に当たる、彼女の姉に任せる算段をしたそうだ。

 破産宣告をする事で借金を反故にし、僅かにあった財産は協議離婚した彼の妻に名義を変えられており、結局、義父母が貸したお金が戻る事は無かった。

 伯母は伯母で、義母から預かっていた生命保険を担保に、義母に無断で従兄にお金を追加融資していた事も判明し、俊之は怒って伯母にその返済を迫ったらしい。それによって、どうにか我が家の諸々の支出はどうにかなったのだ、という事を、

「ばーちゃんはそれが家の恥だと思ってるから、凪は知らない事にしておいてな」

 という断りと共に、結局俺って、凪には隠し事が出来ないんだよな、と苦笑しながら話してくれた。


 同じ時期に、かつて私の後輩でもあった俊之の部下が、借金の返済に行き詰まり、ノイローゼになって自殺を図っていたという事も、当時の俊之を精神的に追い詰めていた。

 その直前、彼が俊之に

「藤枝さん、ごめんね。迷惑掛けて。凪さんにも宜しく」

 と電話を掛けて来たそうだ。

 悪寒の走った俊之が、彼のアパートへ上司と共に駆けつけると、そこは異常な世界になっていた。

「お前はお節介だから、知ったらほっとけないだろうと思って黙っていたんだけど、あいつ、その数ヶ月前から無断欠勤が続いてたんだ。時折様子を見に行ったりはしてたんだけどな……」

 ゴミの散乱したワンルームの中、布団の中の血の海で、彼は横たわっていたそうだ。枕元には、パソコン。遺書めいた彼の現状と心情が綴られていたらしい。吐き気を催す悪臭に、上司は耐えかねて部屋の外に出て嘔吐した。

 彼は、俊之の腕の中で事切れたらしい。それは、彼が背負うにはあまりにも重い十字架だった。

「もっと見てやれてたら、事情を知っていたら、あいつは死なずに済んだかも知れないのに……」

 俊之はそう呟くと眼鏡を外し、頭を抱えて嗚咽した。

 あの頃の彼の

『勘弁してくれよ……』

 という一言の裏に、そんなたくさんの大きな問題を一人で抱え込んでいた心労があった事を、妻でありながら露ほども察していなかった。夫の言う通り、自分だけが頑張っている、可哀想な自分と、勘違いをして彼の冷たさを心の中でなじっていた。

「全部、俊之の所為じゃないわよ……ごめんね、あの頃気付いてあげられなくて」

 誰よりも一番、お兄さんが頑張っていたのよね、と、昔の呼び名で彼の頭を抱きかかえると、彼は昔の様に、抱え込む事無く、思いつくまま気負う事無く、戦友としての私に対して胸の内を話してくれた。

 あれが俺の精一杯だったんだ、と――。

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