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06. 通例

 通例【つうれい】 ――名詞・副詞的名詞


 一. 慣わし。一般的なやり方。

 二. (福祉的に用いて)一般に。通常。




 一.


 院内の喫茶店で、俊之を待つ。気まずい雰囲気の中、義母と、仮眠から目覚めてしまって退屈で仕方の無い優介と三人で。

「まあ、もう言ってしまったものは――口から出てしまったものは戻らないからしょうがない事だけれどね」

 病院の手前、貴女を随分こき下ろす言い方になってごめんなさいね、と言った義母の言葉を、素直に言葉のままに解釈出来ない自分がいた。

 ここぞとばかりに、本当に想っている胸の内を吐き出したのではないか、と思っていた。言葉のままを受け取れず、裏を読んでは、自分の被害妄想で気持ちを波立たせていた。

 この時の彼女の胸の内は、未だに聞いた事は無いから解らない。知らなくていい事だと思うから。

 ただ――今は、少しだけ……気持ちが上向きの時だけは、少しだけ、思う。

 義父が私に怒鳴った、あの憤りの発言も、この時の義母の言葉を聞いた私の様に、素直に言葉のままを受け取れなかっただけなのかも知れない、と……。今でも耳に残る怒声だが、気持ちが上向きの時だけは、ふとそんな風に思って、自分を慰める私がいる。

『病気が言わせているだけで、本人の心からの言葉ではない』

 という義母の言葉を頼りに、どうにか後悔を押し込める自分が今もいる――。


「いらっしゃいませ」

 恐らく席へ案内しようと店員が近づいたのだろう。

「あ、待たせてますから、案内は結構ですよ」

 という独特のくぐもった声を耳にして、私と義母は、喫茶店の奥でも俊之の到着を知る事が出来た。

「あー、父さん、お帰りーっ」

 と、優介が駆け寄ると、久しぶりに起きている息子を見た彼は、愛しげに優介を抱き上げた。

 よっ、と軽く手を挙げる仕草はいつもと変わりの無い俊之だが、今日は普段のユニフォームではなく、スーツで決めているのがいつもより彼をサラリーマンらしく見せた。

 今日はたまたまお客様との打合せで、正規の恰好で出勤した為だ。

 義母が手を振り店を出ようと席を立つと、彼はウェイトレスにコーヒーを二つ、すれ違いざまにオーダーした。

「そんな、注文しなくても凪さんも落ち着いた事だし、談話室で話したらいいでしょう」

 義父が気になる彼女は、俊之にそう言ってオーダーのキャンセルを求めた。

「先に優介とじいちゃんとこに行ってやって。まずは凪から話を聴くから」

 それが、義母には気に入らなかったのだと思う。

「何も別々に話さなくても、そんな二度手間な事をする必要はないでしょうに。コーヒーが飲みたいなら自販機でもそう変わらないでしょう?」

「あのな、ばーちゃん。俺、今仕事抜けて来てるから、めっちゃくちゃ思考が仕事モードになってんの。嫁姑の優先順位とか気にしてる暇無い訳。カミさんとばあちゃん、そろって話を聴くと、こいつは噛み合わない説明が生じた時に、ばーちゃんの面目を潰さん事を、報告義務よりも優先してしまうだろう。ばーちゃんも、凪に聞かせたくない話を端折るじゃん。俺は、事実と状況を把握したいんだよ。凪よりばーちゃんの方が今落ち着いているだろ? 凪に一歩譲ってやってよ」

 俊之は、義母に有無を言わせず一気にそう言い、義母の掴んだ伝票を、この位払わせてよ、と摘んで、義母に再び取られない様にするかの如く、内ポケットにしまいこんだ。

「……はいはい、それならまあ、ご馳走さん」

 義母はそう言うと、そしたら凪さん、お先にね、と私にも一言声を掛け、優介と共に喫茶店を後にした。


 懐かしい、職場時代に惚れ込んだ、あの頃の俊之を久々に見た気がして、私はこの時、いつもより随分素直な女でいられた、と思う。

「嫁と姑、両方を立てる言い方をするの、大変だよね」

 ごめんなさい、と素直に謝る私に、俊之はおどけた調子で「気色悪っ、珍しい」と私をからかった。

「ストレスMAXって顔してるわ。ばーちゃんも来ないだろうし、吸えば?」

 彼は私にそう言って、自分も煙草を取り出した。

 私も、バッグに忍ばせているシガレットケースと共に、システム手帳をテーブルに置く。

「さて、ほんじゃ、始めよっか」

 かつて仕事でパートナーとして組んでいた頃の様に、感情と思考と事実を分ける、我が家独特の打ち合わせが始まった。




 二.


「つまり、放置、ってのは、ばーちゃんや凪の主観、だな。事実としては、ナースコールをしなかった可能性も否めない、と。じーちゃんには、いろいろ言ったら却って感情的にでもなられたらえらい事だし、確認しようがないなぁ……」

 俊之は、私が用意した手帳に私の話をメモしながら、事実や状況と、思考と感情を分類した。

「でも、半分意識があるのかどうかって状態でナースコールなんて、普通出来る? それにね、私聞いたのよ。名札見忘れたのが失敗だったけど、何度か痰を取って欲しいってナースコールした時、結局痰を取れなかったんだけど、こっちも忙しいんですよね、って言ったのよ! 有り得ない!」

 再びいきり立ち始めた私に、それは浜口先生に伝えたのか、と訊かれ、私は当然でしょう、と鼻息を荒くして答えた。彼はそれを“事実”の欄にメモをし、その話の横に“済(浜口医師)”とチェックを付した。

「了解、それはそれで、置いておこう」

 『了解』、それは、その話はそれ以上聞いても無意味だから聞かない、という彼独特の終止符。私はその言葉で自分の感情が高ぶっている事を認識し、口を閉ざす事で夫の意を了承出来た事を表した。

「内科でも預かってるのが怖い状態っていうのは微妙だなあ……浜口先生の個人的な見地なのか、上のゴタゴタの余波なのか」

 あぁ、この人も何だか奇妙な事を言っている。

「あのさ、この間から気になってるんだけど……その、“上のゴタゴタ”とか、妙に病院に下手に出たり、とか、何?」

 一瞬、彼の眉がぴく、と上がったのを私は見逃さなかった。心の中で“しまった”と焦っている印。

「話すと長くなるから、それは取り敢えず、後にしよう」

 彼はそう言って話題を元に戻した。


 二人で私の視点で見た状況を分類整理し終えると、上階に行って義母たちと合流した。今度は私と優介が、義父の話し相手をし、談話室で義母と俊之とで話をした。


「凪の感情論。ばーちゃんの低姿勢。締めが俺でよかったよ」

 打合せを終えて病室に戻った俊之はそう言い、義母がこれまで病院に対応して来た事項と私の話を総合して、自分が出した結論だけを私達に伝えた。

 義母には、従来どおり柔らかな対応を、私には、その場で疑問を口にせずに、全てメモを取るよう指令を出した。

「まあ、言ってみれば“北風と太陽”の、それぞれの役割分担って事だな。それから凪、お前は今すぐからでも、投与されている薬剤を全部チェックする事と、病院の対応を、実況と感想を分類して、日記形式でまとめていく様にしてくれ。ばーちゃんは、凪が病院に来れない時は、凪に代わってよく見ておいて、それを凪に報告してくれ」

 伝えるべき事を伝えると、彼は浜口医師と話す為にナースステーションへと向かって行った。




 三.


 俊之は、浜口医師との話の後は病室には戻らず、病院を出る旨だけを電話で伝え、そのまま仕事に戻っていった。

『優介に“お仕事行っちゃダメ”とか泣かれたら、俺、行く気失くしてまた凪を怒らせちゃうかも知れないじゃん?』

 今日中にお客様への書類を作成しなくてはいけないから、ごめんね、という彼の声は、電波を通しても寂しげなトーンだと私に感じさせた。

 事務仕事を終わらせ深夜に帰宅した彼は、遅い夕食を摂りながら、昼間の私の疑問に答えてくれた。

「今はそんな事無いだろう、と俺は思うんだけれどな、病院って、いろんな暗黙の通例、みたいなしがらみがあるんだよ」

 それは、入院経験皆無の私には、いつか見たドラマの様な内容だった。


 まだ俊之が生まれる遥か前に、義父は結核で入院した事があるらしい。その時、満床を理由に他の病院を紹介された。しかし結局、その病名から、何処も入院を遠回しに断られ、途方に暮れてご近所に住まう、姉の様に慕っていた、ある大学病院の部長の奥さんであるご婦人に相談したらしい。

『そういう事ならお任せなさい』

 彼女はそう言って義母を慰めた。

 翌日、義母は彼女に自宅に招待され、都合をつけて赴くと、一度は断られた病院からの封書を渡され

『すぐにご主人を入院させなさい』

 と促された。そして、一言アドバイスをされた。

『これからは、主治医の先生へのお盆とお中元のご挨拶と、お礼の包みを忘れずにね』

 必ず、退院時ではなく、早い目にするのよ、と、念を押されたそうだ。


 要は、付け届け次第で患者への対応が変わる、という事――。


「ばーちゃんの奴、未だにそういうのを信じ込んで、どうも現状何も出来ていない事が放置の理由なんじゃないか、って思ってるらしい。今、そんな事したら、犯罪もんなんだけどなあ……」

 内科の浜口医師には、理論構築で選択を迫ったそうだ。

 我が家の意向をまず伝えたらしい。

 オペをするしないに関わらず、生存率が極めて低いのであれば、最善を尽くす事が最優先である事、その結果、義父が命を落としてしまったとしても、それが天寿と家族は病院を責めずに納得出来ると満場一致で臨んでいる事を説明した。

 その上で、緊急性があると先の病院で判断されて入院している状況にも関わらず、主治医すら決まっていない事についての理由説明すらないのは筋が通っていないのではないか、と病院側に説明を求めたそうだ。

 どうやら、浜口医師はまだ若い医局員らしい。渉外に得てている俊之の口に、対抗出来なかった様だ。沈黙を続ける彼に、俊之は苦笑しながら言ったらしい。

『責任転嫁ごっこですか、上の人同士で』

 つまり、失敗の可能性が高い義父の執刀を、派閥の上の面々が押し付け合いをしているが故に執刀医がなかなか決まらないのではないか、と暗に質問したという事なのだと私に説明してくれた。

 浜口医師はその質問に答えず、そして決して俊之の目を見なかった。

 暫くの沈黙の後、

『外科に連絡を取ってみます』

 とだけ返事をしたそうだ。

 俊之は食いついて補足した。

『連絡だけならこれまでと同じでしょう? こちらは井上医師を指名します。根拠は前回義父を助けて戴いて、お力を信頼しているからです。もし万が一の事があっても、井上先生なら全力を尽くして下さった上の事だ、と信じられる。彼なら、私は医療訴訟なんて考えもしないでしょうね』

 そういう言い回しをして、笑顔で対応して来たのだそうだ……。

「……怖い人ね。家の内と外とのギャップ、あり過ぎ」

「だから、ばーちゃんのフォローが必要なんじゃん。明日辺り、こめつきバッタで腰痛めるんじゃね?」

 二人で、そうやって義父の入院生活を守って来たのだ、と、私は自分の暴走を猛省した。

「何だか、ドラマでやっていた病院の派閥の話みたいだね。患者やその家族の気持ちなんて病院は見向きもしない、みたいな……ただのフィクションだと思ってた」

「事実に基づいたフィクションだよ、きっと。昔の話だしね。閉鎖的な社会だから、どこかしら臭いは残ってるだろうけど、今は随分クリーンになったんじゃないかな」

 だから、家族の声をちゃんと聞いてもらうのだって、本当は必要な事なんだ、代表弁論、お疲れさん、と俊之は私の過失から来る罪悪感を軽減させようとする慰めを言った。


 無知ほど怖いものはない、特にこういう命に関わる事に関しては。

 それを痛感する、閉ざされた『病院』という小さな社会での通例を知った私だった。

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