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03. 義父の孤独

 一.


 俊之と義母がインフォームドコンセントを終え、私も義父との面会を許された。

「時間も時間だから、外で夕飯にしよう、ってばあちゃんが言ってた。その時に内容は話すから」

 俊之にそう促され、優介を彼に預けて、私はようやく今日初めて義父と顔を合わせた。

「おじいちゃん、びっくりしましたね。落ち着きました?」

 私は、極力義父を刺激しない様細心の注意を払い、いつも以上に穏やかな口調と、いつも以上の柔らかい言葉を選んで投げかけた。

 義父は、元気に家で過ごせる時は、本当に張り倒したいと思う程憎らしいのに、こんな時は、ついこちらまで涙が出そうになる程弱々しく、心細げで、まるで親に見捨てられた孤児の様な縋る目で私を見つめる。今回も、いつもの様に拝む様に手を合わせて

「ホンマにご迷惑かけて、家の事や仕事もあるのに、すんませんなぁ」

 と心の底から詫びる様に言った。お腹や腰が痛むと言っていたのに、寝たままで謝罪する事が申し訳ないと思ってくれるのか、一生懸命身を起こそうとしては、痛みで眉間に深い皺を寄せる。起きちゃダメですよ、と言って近づく私に

「まだ、棺桶に半分しか入っとらんねん。もうちょっと辛抱しておくんなはれ」

 などと言うから……。

「そんな馬鹿な事を言ってる元気があるなら、早く治して退院して、前にお勧めしてくれた讃岐うどん屋さんに連れてって下さいよっ!」

 義父の不吉な言葉を振り払うかの様に、思わずその拝む手をばしっ! とぶってしまった。

 そんな事を言われるのは初めてで、私も、入院時にこんな悪寒を感じるのは初めてで、つい語調を荒げてしまった。

「約束破ったら、一生生霊になって呪いますよっ! 生霊は怖いんですよっ! 私って本当は、とっても怖い嫁なんですよっ!」

 驚いた顔で呆けた義父は、次の瞬間、寂しげな、それでいてとても穏やかな眼差しで私を見つめた。それは、少し前にも見た覚えのある、一層不吉な予感のする瞳の色を帯びていた。




 二.


 同居に伴う実家の改装工事中、その騒音に堪り兼ねて、義父が癇癪を起こした事があった。彼は心臓にも不整脈の持病があり、ペースメーカーを入れているものの、無知故に、激昂による義父の心拍を心配する私は、仕事を半日で切り上げて工事中の一ヶ月間の午後、義父を改装の騒音から解放する為にあちらこちらへと出かける為の足となった。

 ある日、同行の義母が、商店街の馴染みの店で買いたいものがあるから、お父さんを行きたいところへ連れて行ってあげて、と私に義父を預けて人ごみに消えた。

 義父と二人きりになるという機会は、藤枝の家に嫁いで七年目にして初めての事で、核家族で育った私は、親というよりもむしろ祖父に近い年齢の彼と何を話してよいのか戸惑ってしまっていた。

「おじいちゃんも、定年以来の久しぶりの場所でしょう? 何処か、お勧めの場所を私に教えて下さい」

 同情や施しを嫌う義父に、『連れて行ってあげる』という言い方をしない様、慎重に言葉を選びながら私が提案すると、見慣れた義父の仏頂面が久々に緩んで明るい表情に変わった。

「そうか、凪さんは遠くから嫁いでからずっとわしや優介の世話ばかりで、ろくにこの辺りも知らないやろうし、美味いお店でも教えたろうか」

 焼き鳥の美味い店があるんじゃ、今度俊之が休みの時に皆で来よう、と言いながら、食道楽の義父は、その店への道を案内してくれた。私は、義父が指差す方へと車椅子を押しながら、その途中途中にある古びた商店街の老舗の説明を「へぇ、そうなんですか」と、大袈裟なほどに感心の合いの手を打ちながら聞いていた。

『永らくのご愛顧をありがとうございました。』

 義父が案内したその店の張り紙の記載日は、もう数年前の日付になっており、張り紙も、カードケースに入れられ風化を遅らせていたものの、今にも外れそうなほどにぼろぼろになっていた。

「そうか……せやな、もう二十年以上も来ておらんさかい、変わっていて当然やな……」

 義父のうな垂れた後姿があまりにも寂しげで、小さく丸まった背があまりにも儚げで、憎まれ口ばかり叩く小憎たらしい舅だけれど、その時ばかりは憎々しさが半減し、私は“変わらない物”を必死で思い浮かべて商店街をうろついた。

 本当は、私はこの辺りを熟知していたのだ。七年もこの辺りで暮らしているのだから、義母に連れられ、思い出話と共にとうの昔に知っていた。義父に心の張りをを持たせたかったのに、かえって消沈させてしまった現状に責任を感じ、“変わらない物”を、記憶を頼りに探すのだが、大手スーパーのチェーン店がひしめき合う一角に面したこの商店街でそれを見つけるのは不可能に近かった。


「……葛飾寺にお参りに行きたいなあ」

 頭をあげ、私にそう言って振り返った義父の、これまでに無い穏やかな、それでいて寂しげな瞳を、私はその後忘れる事は無かった。

「ああ、そうですね。おじいちゃん、ずっとあそこの千日参りが楽しみでしたものね」

 半身不随になってから参れなくなった事を思い出した私は、快く商店街を抜けた先にある葛飾寺まで足を運んだ。




 三.


 駅前の喧騒や、商店街の寂れた風情とも違う、厳かな静けさが漂う境内で、私が義父から預かった賽銭を彼に代わって投じると、彼は長い時間、観音様に何事かを願って手を合わせていた。

 実は全くの不信心者の私だが、信仰心厚い義父の手前、彼の後ろで適当に手を合わせていた。義父に

「お参りは終わったかね?」

 と訊かれ、ドキリとしながら、はい、と短く返事をした。

「一度、ちゃんと凪さんに言うておかねば、と思っていたんじゃが」

 ――よう、俊之をここまで育ててくれた、ありがとう――

 義父は、振り返らないまま私に突然そう礼を述べた。

「へ?」

 優介の間違いでは、と思った私は、何とも間抜けな返答をしてしまった。

「わしは、四十五でようやく俊之が生まれて、やっと念願の跡取りが出来て、可愛くてしょうがなくてなあ……甘やかし過ぎてしまった所為で、あんたには随分と苦労をかけた」

 義父は、自分の幼少時の虐げられた生活から始まり、親の愛情不足による心の飢えから、俊之に同じ想いをさせたくない、と、真逆の育て方を心に決めた結果、何でも買い与え、悪事を働けば盲目的に息子の弁だけを信じて学校や教育委員会まで苦言を呈しに言った事などの夫の生い立ちまでを語った。一時期、俊之の依存心の高さと我侭ぶりに愛想を尽かして離婚騒ぎを起こした私への憎悪の気持ちが胸の内にあった事まで告白し、その気持ちをあからさまに私にぶつけていた事を自覚していた、という事も語って聞かせた。

「だがな、最近、わしは思う様になったんじゃ。やはり、あんたが正しかった。俊之に小遣いを渡さなくなって、自分の稼ぎだけであんたや優介を養い始めてから、あいつの目付きも言葉も考え方も、わしの“子供”ではなくなった。何より、わしらには与えてやれなかった『自信』というものを持てる様になったんは、あんたのダンナ教育の賜物じゃ。安心して、いつでもあの世に逝ける、と思えるくらいに大人になった。親は、いつまでも生きてはおらんのでな。優介も、あんたの思う様に育ててやって下さいな」

 俊之と優介を宜しく頼む、という義父の声には嫌味や皮肉の色は無く、直情的ではあるけれど、腹に一物を持たない彼らしい心からの言葉だと私は受け取れた。

 私は、何も言えなかった。ひと声でも発したら、その僅かな動きでも眼から涙が零れ落ちてしまいそうで。

 ただでさえ大きな眼を更に大きく見開き、上を向いて和解の喜びを流さぬようにする事で精一杯だった。

「今まで、すまんかったな」

 そう言って、先程の穏やかでいて寂しげな瞳をした義父は、初めて私を振り返った。

「なーに言ってるんですか、おじいちゃんらしくない」

 義父の瞳の色に何処か悪寒を感じた私は、

「これからはいっぱい喧嘩しましょうね、腹に持つのは同居生活ではキツイですからね」

 と、わざとはしゃいだ声でそう言う事で、自分の悪寒を振り払った。


 ――やだもう、おじいちゃん……あの時と同じ様な瞳をしないでよ……。

 数ヶ月前のその事を思い出し、私は義父の併せた手を包み、そして、その合掌を無理矢理解いた。

「退院したらがっつり返して貰いますから、そんな拝んでも容赦しませんからねっ」

 無理矢理明るい声を出して、少しでも義父の苦笑を誘おうと冗談を言った。




 四.


 諸々の手続きを終え、病院を後にしたのは、夜の八時を過ぎた頃だった。

「お腹空いたわねえ。考えてみたら、私、朝から何も食べて無いわ」

 何か食べに行こうか、と義母が私や優介にも提案した。久しぶりに、日頃は多忙な俊之もいる事だし、魚介が苦手な凪さんには悪いけれど、この子の好きな海鮮料理のお店に行こう、という話になった。日頃なら此処で又、“事前にもう俊之と打ち合わせ済みでしょうに、形だけ私の意向を聞くなんて白々しい”などの愚痴の一つが出てしまう私なのだが、今日は食欲も無く、病院での医者との話を聞きたいとも思っていたので、

「私、蟹三昧させて貰いまーす」

 とおどけた口調で同意した。


 食事をしながら、優介が料理に夢中で大人の話に見向きもしない間に、俊之と義母は、私にインフォームドコンセントでの内容報告をしてくれた。義父の性格、これまでの病歴やその際の反応、それに対する対応など、事細かに最近の出来事等を訊かれる事が主だった内容だった。

 何故か、といえば、義父が看護士に

「ワシをみんなが仲間外れにしとって、家庭が巧くいっとらん」

 とこぼした事が、病院として気がかりだったからだ、と言っていたと俊之が言った。

 義母が私を巧く丸め込み、二人でどこかへすぐ出掛けては、自分を放ったらかしにして冷たくあしらう、また、俊之が何かにつけて『じいちゃんが悪い』という様な言い方を偉そうに説教するのだ、など、看護士にいろいろと愚痴を言ったのだそうだ。

「ワシが、死んだ方が皆が楽やねん」

 とぽつりと呟いた義父の言葉に、嘘はない様に見えた、と、当直の先生は言ったらしい。

 義父が胸の内にそんな想いを抱えていた事を、私達家族の誰もが知らずにいた。

「少々、被害妄想が入っているかも知れませんね」

 という先生のフォローが虚しく感じ、義母は特に消沈してしまった様子だった。

「幾ら尽くしても、あの人はいつもああやって悪く悪くとっては癇癪を起こして……」

 そう嘆く義母に、私は少しだけ悲しくなった。


 巧く言葉に出来ないけれど……私には、義父の孤独が少しだけ解る気がした。

 ――義父は、私の様な人だったんだ。

 自分に自信がなくて、自分が嫌いで、自分の欠点をよく知っていて、それをどうしても自分で制御できなくて、それが苦しくて、それを一番大事な人に八つ当たりと言う形でぶつけては、また余計に自分が必要のない人間、と自分を疑ってしまう。自分をどこまでも、自分自身で屑扱いしてしまう。そんな無様な自分を人に見せたくなくて、義父は癇癪という形で、私は勝気な責任転嫁を心の中でしては毒づく、という行為で隠そうと躍起になってしまう。

 私自身の事は解らないけれど、義父について言えば、皆、彼のその茶目っ気が、憎たらしさが、可愛くて大好きで仕方がないのに、それを信じられない程に、彼自身は自分が嫌いなのだ。

 どうやっても、どう言葉や態度で表しても、それは自分自身が自分を好きにならない限り拭えないものなのに、それが頭では解っているのに、心がついていかなくていつもいつも苦しんでいる。

 義父と私は、家族の愛し方が解らず不器用に振舞ってしまうという同属嫌悪の関係であり、また家族でただ一人、家庭に恵まれなかったが故に孤独に自分を誘ってしまう、といった、歪みについて分かり合える同士でもある、夫の俊之とはまた違う、稀有な関係なのではないか、とふと思った。


 妙にはしゃぐ義母だった。私達が結婚して七年の間で、初めて義母がビールの中ジョッキをおかわりするのを見た。

「あー、これで今夜からはゆっくり寝れるわぁ」

「しばらく、またみんなで美味しいものを食べに行けるわねっ」

 “一生懸命”、この事態の『それでもいい面もある』という部分を探しているかの様だった。俊之や私も、妙にはしゃいだ。ふざけて夫婦漫才しては義母を笑わせたり、親子漫才で義母を笑わせたり……。


 帰り、実家に義母を送り届けた時に義母が家の前で

「それじゃ、また明日お願いね」

 という挨拶の終わりに私に言った。

「凪さん、年賀状はこんな状況だから、今年は作るのをもうちょっと待ってね。手術が成功して、しばらく経つまでは出せるかどうか解らないから」

 私は、その言葉の裏にある義母の考えている未来の可能性の一つを考えると言葉が出ず……首を縦に振る事しか出来なかった。


 ……助けて下さい……。

 この気持ちは、何なのだろう?

 助けて、と、誰に願っているのだろう、私は。

 助ける対象は、患っている義父の筈。私は、何から助けられたいのだろう……。


 これまで、幾度と無く命拾いをして来た義父なのに。

 今まで、散々心の中で毒づいて来た、面倒くさい気難しい義父を疎ましく思っていたのに。


 幾ら拭っても拭い切れない不安と、『置いていかれるのではないか』という孤独に苛まれ、私は救いを求める様に、とうに夢の世界に落ちている優介を抱きしめた。

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