17. 義父の形見
一.
怒涛の数ヶ月が過ぎていった。
様々な、、生々しい人間関係を垣間見た数ヶ月でもあった。
今更ながら、気がついた。義母は、姑であると同時に、義父の親族から見たら『嫁』なのだった。悲しむ余裕も無い位、軽薄な義父の親族に揚げ足を取られぬ様、万全を期する事に専念していたのが印象的だった。
不甲斐無い事に、私はこの大事な時に、また寝込んでしまった。とは言え、床に伏せっている訳にはいかないので、気力と薬でどうにか持ち堪えはしたものの、義母の様に『完璧な嫁』に徹する事が出来ず、悔し涙を抑えられずにいた。
完璧でおれない事が悔しい程に、義父が無形の形見を私に残していってくれた事が、葬儀の席で初めて解った。
私は、彼の死によって初めて地域の方々に受け容れられた。
私には憎まれ口ばかりで、一言も直接言ってはくれなかった癖に。
義父を偲ぶ思い出話の中から、葬儀に参列して下さった方々が、たくさんの義父の言葉を語ってくれた。
「おっちゃん、いつもお嫁ちゃんのお蔭で、雨の日も億劫にならんと病院に通える、って、ホンマに自慢しとったんよぉ~」
「俊之君もおばちゃんも、興味無い、言うて話を聞いてくれへんのに、凪さんはホンマに好きらしくて、歴史の話を語り合える、言うてえらい喜んどったんよ」
「偶然死んだ娘さんと同じ名前やさかい、何やホンマの娘みたいでつい我侭言うてしまう、って、この遺影の様な顔をしてね、よく照れ笑いしてたんよ」
皆、一様に
「本当にこれまでよう頑張りはったなぁ、お疲れ様でしたなぁ」
と、ねぎらって下さった。それはもう、これまで散々心の中で毒を吐きまくった事に罪の意識さえ感じる程に。
時間を、巻き戻したかった。せめて四ヶ月前の、彼が入院する前からの時間を取り戻し、もう一度やり直したいと心から悔やんだ。やり直して、もっと理論的に病院と……。
いや、今はそんな事を考えている場合じゃない、と、その時はその先を考えてしまうのを無理矢理止めて、目の前の事に専念した。
二.
人は、亡くなった時にその人間性を窺い知れる、という。
俊之に代わって、喪主挨拶の草稿を作る。ある程度の定形文に、義父のこれまでの経緯を簡略に述べたものを作ってみたのだが、俊之も智之さんも、皆一様に
「うーん、じーちゃんらしくないな」
と言う。私の作った草稿を下地に、彼らもろくに眠っていないだろうに、推敲を重ねて下書きを渡して来た。
「笑いを入れる方がじーちゃんらしい」
闘病生活を綴る弔辞の挨拶が、義父の意地悪じいさんっぷりを、面白おかしく綴られた挨拶に変わったその草稿に、私も思わず笑ってしまった。――義父らしい、そう思った。
参列して下さった方々は、通夜でも葬儀でも、式の始まる一時間も前から斎場に集まって下さり、長い事義父の遺影に、そして棺の中の義父に話しかけながら、目には涙、なのに、笑い声で溢れる会場だった。泣きながらも、思い出すのはつい噴き出して笑ってしまう、お茶目な義父のエピソードばかり。
地味にせぇ、という彼の遺言に従うつもりが、気付けば数百人余りの人が集ってしまった、その人間性。
よく、義父は自分の事を『憎まれっ子世に憚る』と言っていた。本当の彼は、憎み切れない茶目っ気じいさんだった。だから、惜しまれながらも逝ってしまった。彼は、世に憚り切れなかった。私には、それが口惜しかった。
後悔、口惜しさ、やり切れなさ、義父との確執が薄らげば薄らぐ程に湧き上がってくる、心の奥底に押し込めたもの。
せめて、葬儀が終わるまでは言葉にすまい、と、脳裏に浮かんではちらつく想いを、私は必死で掻き消していた。
三.
数日後、義父は小さな壺の住人になった。
荼毘に臥されて現れた義父の喉仏は、見事なまでに完全な仏様の状態でそこにあった。指仏も、とてもきれいな状態のままで、本当に崩れが少なかった。
骨太でしっかりとした身体を持っている人だった。
が。
お骨の色は、これまでの薬の影響か、乳白色ではなく、ピンク色や茶色の、違和感の大きな色だった。
義父は、とても、とても、小さな姿と、少しピンぼけした遺影の人になった。
私は、気を張って常に呼び声に耳を澄ます必要がなくなり、気を遣って、二階や下でも、ドタバタと走りまわってやかましい優介を制する必要もなくなった。
再就職活動でも、毎週木曜日の通院送迎を考慮した求職をする必要もなくなった。
スケジュール帳の午後の予定に、『難波医大病院』という文字を追記される事が無くなった。
義父が私に残してくれたものは。
大幅に増えた自由な時間と、近隣や親族との繋がりと、義父に対する感謝の気持ち。
そして――。
深い後悔と激しい憤りと、病院に対する深い疑念だった。




