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16. 義父、逝く

 一.


 四月十一日、未明。

「俊っ! 起きて早く!」

 という義母の声で、私は目覚めた。

 いつの間にか、向かいのソファで眠っていた義母は俊之と交代し、そこにはまだ夢うつつの夫が身を縮めて横たわっていた。慌てて私も飛び起きて、疲労が蓄積している時の彼の起こし方で……義母が見たら、それは怒るであろう、乱暴に頬を叩いて

「俊之、起きなさいっ」

 と子供を叱る様な言い方で、彼を文字通り『叩き』起こした。

「ぅお……? おおっ! 寝ちゃってた!」

 ようやく身を起こした俊之達に続いて、私も病室へ行こうと立ち上がると

「貴女は後っ!」

 と義母に厳しく制された。

 何故、制されたのか、実は今でも私は判らない。今更義母に尋ねたところで恐らく彼女は覚えていないだろうし、何より、私は無意味な事をするのは嫌いだ。その根拠を知ったところで、険悪になるだけの様な気がする。

 私はその時、一瞬感じた“疎外感”を無理矢理心の奥底に捻じ込んで、義母が制したのは、自分が頽れて取り乱す様を嫁の私に見せたくない、というプライドが私の同席を制したのだと解釈した。

 程なくしてロビーに戻って来た俊之が、言った。

「一時三十五分でした。俺が行ったら、もうペースメーカーを取り出し終えてたよ」

 義父は、義母が俊之を呼びに部屋を出て間もなく息を引き取ったのだそうだ。

 “その瞬間”に……家族は、誰一人いなかった。義父の甥に当たる智之さんだけが見送ってくれていた。

『生』と『死』、その違いが解らない位静かに、義父は旅立ったらしい。何ひとつ、見た目には変わらないまま、心音が、止まった。

「えぇ顔してるで。やっと解放された、言う顔してるわ。見たって」

 智之さんも病室から出て来て私に入室を促した。

「おばあちゃんは……私が行っても大丈夫なのでしょうか」

 何言ってんだ、当たり前だろ、と俊之に言われ、私はようやく義父の眠る病室へと足を向けた。

「失礼します……」

 一瞬、自分の目を疑った。一瞬、有り得ない期待をしてしまった。

 まだ人工呼吸器を外されていない義父は、その肉体が抜け殻でしかない、とは感じさせなかったのだ。人工呼吸器の稼動する力に揺り動かされて、義父の身体は定期的なリズムで動いていて、それは生前と何ら変わりがなかったから。

 まだ、動いてるじゃん、首、振ってるじゃん、と、私には『義父の死』という事が、現実の事として、ピンと来なかった。


 一つだけ……。

 表情が、とても、優しくなっていた。見慣れた眉間の皺が、一本も無かった。

 その表情は、ようやく苦痛から解放されたと語っている様に感じられた。


 義母は、夫の傍らで笑顔で語り掛けていた。

「お疲れ様でしたね、お父さん。やっと、楽になれたねえ。一緒に、家に帰りましょうね」

 そう言って私に向き直り、

「凪さん、家の準備を。二時間くらいで、お父さん、家に帰れるから、仏間にお布団を北枕にして敷いておいてくれる? お父さんのベッドに敷いているお布団をそのまま使ったらいいから。すぐ、俊に送って貰って帰って頂戴」

 義母の目には悲しみの涙は無く、それは、非情さから来るのではなく、悲しむ余裕さえない、今後数日間の忙殺を考えての余裕の無さだと、今の私は思っている。

 私は、最期の瞬間まで傍にいたい、なんて我侭を言っている場合じゃなかった、と後悔した。結局、結果的に義父を独りぼっちで逝かせてしまったし……。

 最悪の気分で、ボロボロに泣きながら、俊之に家まで送ってもらう。

「ごめんなさい。私、結局おじいちゃんを怒らせたまま逝かせてしまった……独りぼっちで逝かせてしまった……」

「そうか? いい顔してたじゃん。俺は結構ほっとしてるんだよ? やっとじーちゃんが楽になれたんだからな。これは、悲しい事じゃあないんだよ?」

 私がしっかりしてないから、俊之は悲しむ余裕すら、ない。

「ほら、泣いてる暇ないんだから、これからすぐに忙しいぞ。……頼むな」

 俊之はそう言って私の頭をくしゃ、と撫でた。




 二.


 夜中の二時半に自宅に到着。そのまま俊之は病院へ、義父を智之さんや義母と一緒に連れ帰る為戻って行った。

 冷たい夜の空気に触れた為に、優介が目を覚ましてしまった。

「あれ? お家? びょーいんは? おじいちゃんは?」

 呼吸器を外した無残な姿を孫には見られたくないだろうから、という義母の意向に沿い、義父の最期を看取らせなかったので、優介は不思議そうに私に尋ねた。

「うん……おじいちゃんね、天国に行ったんだ……。身体だけね、お家にやっと帰って来れる事になったの」

 悲しくて泣いてしまうだろうか、と不安を感じながらも、優介に祖父の死を伝えた。

「わーいっ、おじいちゃん、よかったっ! やっとお家に帰って来れるんだっ!!」

 かつて一度、私の祖母――優介から見たら曾祖母を見送った経験がある優介なのだが、まだ幼すぎて、何処か『死』という概念が認識出来ていなさそうだった。

 無邪気に祖父の帰宅を喜ぶ彼を見て、何とも言えない、複雑な気持ちになった。

 手伝うと申し出てくれた優介の厚意に甘え、仏間に義父の布団の準備をしながら、彼に『死』という事の意味を説明した。

 彼にも解って貰える様に、と願いながら、わかりやすく、具体的な言葉で説明をした。

 もう、約束していたあやとりも折り紙も出来ない、という事。

 もう、お話出来ないのだ、という事を。

 それでも、意味がピンと来ないらしい。

「ずっとそうだったじゃん」

 優介は、何を今更、という呆れた顔をしてそう言った。帰って来たら、おじいちゃん頑張ったね、お帰り、って言ってあげるんだ、と張り切った声音で私に語った。

 義父の帰宅後、言葉どおり、優介が一生懸命、何度も何度も

「おじいちゃ~ん」

 と呼び掛けていた。

「元気になってないじゃん。お話してくれないじゃん。何で帰って来れたの?」

 そう言って、首を傾げていた。

 何で冷たいの? 何でお鼻に綿入れてるの? おじいちゃん、苦しくて死んじゃうよ。また病院に帰らなくちゃいけなくなっちゃうよ。

 あどけなくそう言う優介を抱きしめ、俊之が彼に説明した。

「じーちゃんはな、もう苦しくないんだよ。死んじゃったから」

 この身体に、もうじーちゃんの心は身体になくって、これはただの肉の塊なんだ、と幼い我が子に説明した。

『心が無い』

 その言葉を聞いて、優介が初めて理解した。

「おじいちゃん、いなくなっちゃったの?」

 死ぬって、心がなくなっちゃう事なんだ、という彼の言葉が私の胸に深く突き刺さった。




 三.


 私の祖母の葬儀の時は、外孫だったので特に仕切って葬儀の段取りをする事も無く、遺族として葬儀の段取りをするのは初体験だった。

 感傷に浸る間も無く日々は過ぎた。


 三時半頃に、義母が既に段取りをつけていたのだろう、葬儀屋に送られ義父が帰宅した。病院で死化粧を施されて来た義父は、とても、とても、穏やかで、そして、十歳は若返っていた。その面差しは私達の結婚した時の義父の顔によく似ていた。

 頬に触れると、もう冷たかった。

 上の歯、入れ歯を入れて貰えたのかな、と唇に触れると、もう死後硬直が始まっていて開かなかった。

「……」

 もう、私を呼んではくれない、冷たくなった唇。

 本当に、最期の言葉が、あんな悲しい言葉になってしまったんだ……。

 黒く渦巻く感情と、滲んで広がっていく冷たい感触が私の心を覆っていく。

 どうしてこんな事になってしまったんだろう。約束したのに、喧嘩しようって。一緒に暮らそうって。大嫌いな人だった筈なのに、どうしてこんなにかき乱されるのだろう。解らない事もいっぱいあって、共感する部分も一杯ありそう、と期待もあって。

 どうして、この人は死んでしまっているのだろう……どうして、って、それは……。

「凪、ちょっと、一緒に話聞いておいて」

 心の中で“どうして”の回答を言葉に置き換えてしまう前に、俊之が私を現実に引き戻してくれた。

 (そうだ、そんな感傷に浸っている場合じゃない。私がしっかりしないで、どうするの)

 私の感傷は、それから数日間は葬儀の段取りや事後の手続きの忙殺によって心の奥深くにしまいこまれた。

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