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15. 最期の時

 一.


 四月八日、十四時。

 病院の見舞いが可能な時間になるのを待って、時間と同時に病室に入る。いつもの様に、受付にある来院者名簿に記名する。まだ新しい住所の番地まで覚えていなくて、前日の自分の名前を繰るのだが、毎日見舞う家族と思しき名前は、私達家族だけの様だ。家庭の事情なのか、薄情なのか――そんな事をぼんやりと思いながら、今日も義父の病室を訪ねる私達。

 今日も、うつろな目で、真っ黄色な義父だった。黄色いのは、黄疸の症状が日に日に色濃くなっている所為だ。あくまでも、薬の副作用ではなく、義父の体力の問題と言う。私には、もうそんな事はどうでもよかった。原因を知ったところで、手遅れな事に変わりは無いのだから。

 義父は、筋がキンキンに張ってしまっていて、もう、例え僅かでも首を動かす、という事もままならなくなっていた。横向きに寝かせて貰っている状態の彼の顔を真っ直ぐ見ようとして、私はベッドの脇に屈み込み、腰を九十度角に曲げて挨拶をした。

「おじいちゃん、こんにちはっ!」

 顔を近づけ、大きくゆっくりとした声で挨拶したら、うつろな目が一瞬大きく見開いた。――驚いた様だった。

『あれ? わし、もしかして寝てたんやろうか?』

 とでも思ったのだろうか。

「あはは、何だかおじいちゃんに添い寝してるみたいですねぇ」

 とおどけた調子で私が言うと、彼は一瞬だけ両の口の端をあげてくれた。きっと、笑ってくれたのだろう、と思う……。

 でも、もう笑う事さえ苦痛の様。彼は力無い微笑をすぐに引っ込め、目を閉じて溜息をつく様な仕草をした。

「いやぁ~、お父さん、笑ったわ~」

 義母がとても嬉しそうにそう言った。私も、義父が反応してくれる事は確かに嬉しかったけれど……。

 ほんの少し微笑んだ素振りを感じられただけで喜びを感じてしまう程に衰弱している、という事実が、苦々しい様な、締め付けられる様な、何とも言えない気分にさせた。


 判らない様で理解しているのだろう、優介も。

 日頃は見舞いに行くことを

「退屈ー、切ないから嫌~」

 と拒否したり、病室まで行きたがらなかったりしていたのに、ここ数日は、義母が送ってくれるだけでいいから、と言っても

「おじいちゃんの顔、見てから帰る」

 と言って利かなかった。毎日、自分から義父に会いに行った。もう入学式を済ませ、午前中だけとは言え通学も始まっているのだが、それでも見舞いは午後からだから、自分も一緒に行きたい、と義母の涙腺を緩ませていた。

 入学式の日は、お昼を済ませるまでは制服を汚さない為に脱ぎなさい、と言っても

「絶対制服とランドセルのまんま、おじいちゃんとこに行くのっ!」

 と言い、後でもう一度着ればいいから、と言っても頑として言う事を利かなかった。

 半分目を閉じた状態の祖父の前で、

「おじいちゃん、見てみて~。今日ね、入学式だったんだよ。もう僕、小学生っ。ランドセル、ありがとうっ」

 そう言って、くるっ、と一回転して晴れ姿を見せた。何の反応も無かった事に、優介はショックを受けていた。

「どうでもいいんじゃないよ、ほら、見て。一生懸命、指、動かしてる。喋る元気がないだけよ。おじいちゃんの手を握ってあげて」

 そう言うと、優介は気を取り直して、「優介だよ~、判る?」と尋ねながら、祖父の手を、その小さく柔らかな手で握り締めていた。

 優介は、祖父の苦しげな眉間の皺を、時折咳き込む姿を見ては、これまでならば、見てて辛いからもう帰る、と気紛れな事を言っていたのに、今日はそんな祖父を見て

「ほっとしたぁ~」

 と言っていた。全然動かないから、死んじゃったのかと思った、と小さな声で私に耳打ちをした。

「僕のあや取り、見てて~。おじいちゃん、早く、ちょっと起きてよぉ~」

 と、義父の手を握りながら言っていた。


 義父が最期を迎えるその日まで、そんな静かな日々が少しだけ続いた。




 二.


 四月十日、十四時。

 いつも通りの時間に、義父の見舞いに行く。

 義父の隣のベッドの患者の室内オペの前に、と思ってくれたのだろうか? オペ服姿の井上医師が、すぐに声を掛けて来た。

「あと、もって二、三日です」

 最高血圧が七十。酸素の吸収率も七十を切っており、調整を掛けても一〇〇パーセントの数値を出せない程、身体が酸素を吸収出来ていない状態である事を告げられた。真っ黄色の全身は、肝機能に限界が来た事の印……。


 奇蹟的な、オペの成功。

 最も懸念していた、術後一ヶ月間の経過も、第二の奇蹟と思わせるほどの回復振り。井上医師は、これなら、順調に元気に退院して帰宅出来る日も夢じゃない、と、明るい見解を信じ始めた矢先の急変でした、と、口惜しそうに言った。本当に、申し訳ありませんでした、という彼の謝罪を、私は今日、初めて直接耳にした。

 彼の話は以下の通り。

 始めに白血球が減り始めた。酸素の取入れが悪いと感じ、即レントゲン撮影したら、肺が既に真っ白になっていたそうだ。

 肺が出す菌を、白血球が必死で殺す。その、残骸物を処理し、排出する為の臓器が、肝臓や腎臓。それらの負担が大きくなり、義父の体力の限界に……。

 これまで、多い日で三リットル排出していた尿が、昨夜からまだ一度も排出出来てないとの事。便も皆無。

 今後の方針の事で、話し合いたいという事だったので、私は病院の外に出て携帯から俊之に電話を掛けて井上医師の伝言を伝えた。

「どーいう事やねん?!」

 俊之の、第一声。私と話す時は、関東の言葉で話す彼が、義父と同じ地元の言葉に戻るほど動揺していた。覚悟はしていたものの、腹水除去の手術をして間もなく、あまりにも早過ぎる“その時”に、心の準備が出来ていなかったのかも知れない。

「とにかく病院へ……詳しくは、井上先生からうかがってくれる? 気をつけて、安全運転で焦らずに、でも急いで、来て」

 そんな無茶な言葉が出てしまう私だった。




 三.


『副作用のせいではないのか』

『大動脈瘤で入院したのに、何故肺炎で危篤にならなきゃいけないのか』

『内科病棟で放置されて雑菌が肺に入りさえしなかったら、こんな事にはならなかったのではないか』

 私も、俊之も、そして、恐らく義母も、その言葉を抑える事に必死だった。過ぎた事を言っても仕方が無い、と話し合ったのだから、もう口にすまいと決めたのだから、然るべき時が来た今になって掘り返しても、意味がない。理性が感情に必死で訴えていた。

 オペ前の菌が今回検出されていない事実を知って、『体力の限界』だと認識せざるを得なかった。やはり、今更な事を口にしなくてよかったのだ……。

 井上医師の上司に当たる、外科の教授が病室に見えた。

「ご高齢で、これだけの稀有な手術をよく乗り越えてくれた、と思います。――本当に頑張ってくれはった。私共も、オペ後の藤枝さんの一ヶ月間の回復振りは正に奇蹟的で、全快を信じておりました。我々のこれまでの認識を希望的観測へと変えてくれるかも知れない、とさえ思っていました、しかし――藤枝さんの予備体力が、そうさせてくれていた、と、私共も今初めて思っています」

 今更、そんなおべんちゃらはどうでもいい。用件をさっさと言いなさいよ、と私は心の中で毒づいた。

 御家族とご本人の、生きるというお気持ちがあれば、私共も、最大限の助力をさせて頂きたい、という響きの良い言葉で、教授は形式的な問いを私達に打診した。

「延命措置を、致しますか?」

 強心剤を強くして。

 抗生物質を強くして。

「いえ……もう父は解放されたいと思っているでしょうから、天寿を全うさせてやって下さい」

 俊之は、長い沈黙の後、穏やかな声でそう言った。

 今夜は恐らく大丈夫です。

 そう言われて、一度帰宅した。


 同日、二十時二十分。

 いつでも対応出来る様に、と、私は簡単で手軽な食事を作る。大人は皆食欲が無く、優介も遠足みたいだ、と喜んだので、おむすびと味噌汁程度の軽食にした。

 義母の回線の電話がメロディを奏で、一瞬全員の動きが止まった。

「はい、藤枝でございます。――あ、井上先生ですか、お昼間は教授にもお時間を頂戴しまして――」

 義母の言葉が途中で止まり、俊之に受話器を回した。彼は言葉少なに相槌を繰り返し、最後にすぐお伺いします、と返答をして電話を切った。

「凪、ばーちゃん、すぐ出る準備してくれ。大丈夫と言ったのだけれど、容態が急変した、って」

 熱が三十六度、最高血圧が、電動血圧計では測定不能。手動計測で上が四十~六十、酸素吸収率測定不能、心拍数十二~二十二/分、やや強く打てる時だけ、五十四~六十/分。

 俊之は、淡々と医師から伝えられた言葉を私達に告げた。私は、それを聞きながらも握り飯を携帯できる状態に段取りをする。優介にパジャマに着替える様に促し、私も優介の仮眠の準備をして長丁場の準備をした。


 三十分後、病院に着く。

 義父は……これまでも充分に凄惨な姿だと思っていたのだけれど、これまでの比ではない程の痛々しさで。優介は、子供の素直な残酷さで、「怖い」と言って顔を背けて私に抱き付いて来た。

 義父は、目の筋力が衰えた為にどうしても半開きになってしまい、眼球が乾燥してしまうから、と、瞼に湿した脱脂綿を置かれていた。

 心電図モニターは、不整脈を打っていた。そこに示されている数値は、とても、とても、有り得ない数値で――ペースメーカーで六十/分設定にしているのに、筋そのものが動かないと機械が反応しないから、まるで冬眠している動物の脈拍の様な数値だった。

 呼吸器の振動で義父の首が上下していた。それを見て初めて、これまで彼が、力無いながらも自分の首を自力で支えていた事を認識した。――言い換えれば、今はもう、機械の振動のされるがままになっている程、余力が残っていないという事も、嫌でも知らしめられていた私達だった。

 ゴボゴボと言う度に、看護師に痰をとってもらう。

 いつも、とても苦しそうに眉をしかめていた義父。まだ声が出ていた時は、ナースコールを押して呼ぶ私に怒っていたっけ……。チューブを通すのは、確かに痛くて苦しいだろう。いつも、見ていてとても気の毒で痛々しくて、その顔を見ていられなかったのに。

 眉間に皺さえ寄せず、されるがままになっているそれを見る方が遥かに辛い、と私は初めて感じていた。

 生きている、という証を得られない恐怖。それは、じわじわと私を侵食して行った。事態を俯瞰で見ているもう一人の自分を感じていたそれまでと違い、徐々に実感として感情が動き出す。耐え兼ねて、入院前の自分の義父に対する気持ちを思い出し、少しでも痛む心を軽くさせたいと試みたが、思い出されるのは、あの怒声と、穏やかでありながら寂しげな、葛飾寺で私に向けた瞳だった。

 他人の癖に……この私を泣かすなんて、何て嫌な人なんだろう。最期まで私を引っ掻き回して、何て甘ったれた、何て勝手な、何て我侭な……何て……。

「……っ」

「凪……家で待機してて。優介もいる事だし、お前、俺以上にじーちゃんとの時間が長かったから、辛いだろう?」

 俊之に、乱暴にぐしゃぐしゃ、とハンカチで顔を拭かれるまで、そこまで涙が溢れているなんて気付かなかった。抱きかかえていた優介は、いつの間にか寝息を立て始めている。

 俊之の気遣いに一度は頷いたものの、やはり、どうしても家にはいられなかった。幼い息子には悪いと思ったけれど……私の我侭なのだけれど……義父の傍に、いたかった。そして、優介にも、義父の傍にいて欲しかった。家族として、最期まで義父の傍で全員で過ごしたかった。

 今となっては、孤独な生涯だった彼に私達が唯一してあげられる事は、それしかなかったから……。




 四.


 二十三時三十分。

 同じ階のロビーのソファに優介を寝かし、隣でそれを見守りながら時間を過ごしていると、智之さん――私達の結婚の際には義父に代わって俊之の親代わりを務めてくれていた、俊之の従兄に当たる人――が、仕事帰りに直接病院まで駆けつけてくれた。

「こんなちっこいの連れて、何で凪さんまでおんねん」

 彼は私に開口一番、心配そうな顔で叱責した。今アンタが倒れたら、誰がおばちゃんや俊之を支えるのや、と。

 私は昼間、溜まりに溜まっていた“泣き言”を友人に口にした事で、オーバーフローしてしまっていた。少し前まで他人だった自分より、他の家族、親族の方が数倍も辛いのに、と堪えていたもの全てを友人に吐き出した事で、もっともっとたくさんの義父とのこれまでを思い出していた。

「どうしても、傍にいたいんです……私……おじいちゃんの、最後に聞いた言葉が、『何でわしに逆らうんや。言う事、何で聞いてくれへんのや』っていう言葉のままで……」

 罪の意識を、智之さんに洗いざらい吐き出してしまった。智之さんの到着に気付いた俊之や義母も、いつの間にかロビーに来ていて一緒に話を聞いていた。

「そうだったの……」

 智之さんのみならず、義母も、初めて私が未だにそれを苦にしていたのだと知って、俊之と共に三人そろって、

「あんなおっちゃんでごめんな。辛い思いさせとったんやな」

 と私に謝罪をした。……違う、そんな事をして欲しくて言ったんじゃ、ない。

「違うんです……私が……私がもっと、勉強をしていたら、もっと義父の事を、内面を見ようとしていたら、感情的に病院に噛み付かなかったら、もう少し長生きして貰えたんじゃないか、と、申し訳なくて……本当に、至らない嫁で申し訳ありません……っ」

「何もかも、全て、恨みっこ無しにしてやって」

 と、義母が言った。

 義父の体力低下の根本的原因の事も、私の罪悪感も。

 恨んでも、お父さんは帰って来ないから……だから、あの人の言葉も、堪忍してやってくれる? 逆に、自分を責めないでやって欲しい、と、義母が深々と頭を下げて、そう言った。

「違うんです。謝って欲しいんじゃなくて……」

「もういいから、少し寝なさい。貴女は丈夫な方ではないんだから。優介だって、暗いロビーに独り寝させていたら、目を覚ました時に怖い想いをさせてしまうわ」

 私も向かいのソファで眠るから、俊之と智之にお父さんについてもらうから、遠慮しないで眠りなさい、と促され、私はそれ以上の不毛な言葉を飲み込んだ。


 狭いロビーのソファをくっつけて。

 息子に甘える様に彼を抱きしめ、私はほんの少しだけ、眠った。

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