14. 急変
一.
仕事と、義父には遠く及ばない辛さ程度の闘病と、家事に明け暮れた三月が終わり、優介の保育園通いもとうとう終わった――四月の到来。
まだ住み慣れない義父母の建てた家に、俊之も義母もいない状態で過ごすのが、私にはこの上ない苦痛だった。まるで舅姑の家を乗っ取った鬼嫁になった様に感じてしまって……。
優介は、せっかく父さんが休みなのに、おばあちゃんと病院に行ってしまったとしょげていた。
「優ちゃん、父さんもね、好きでお休みしたんじゃないの。おじいちゃんの担当の先生にね、呼ばれたから、お仕事忙しいけど無理してお休みの時間を作ったの。今度普通のお休みが取れたら、優介をふれあい動物園に連れて行ってあげたい、って、父さんの方がすっごくお休みを楽しみにしていたよ」
だからそんな悲しい顔しないで、何なら母さんとお出かけしようか、と慰めると
「じゃあ、葛飾の古墳公園に行って遊ぶーっ!」
と、急に元気な声になってリクエストをした。
葛飾の古墳公園――保育園で毎日遊んでいた公園。今頃は、桜が満開で綺麗なんだろう。
「いいねっ。レジャーシート持って、そうだ、ファーストフードでキッズセット買って、ちょっと贅沢しちゃおっか」
「やたーっっっ!」
私達は、保育園時代のお友達親子数組に連絡を取って、公園に集まって午後を過ごした。
優介は寂しさを、私は主治医からの呼び出しの内容への不安を紛らす様に、喋り、遊び、写真を撮ったり、そんな風に日中をどうにかやり過ごした。
二.
呼び出しが来たのは、前日の事。
仕事中、俊之の携帯に義母から電話があり、今日休みを取れる状況に仕事の段取りを付けて欲しいと言われたそうだ。
「何かな、肺からシンキンが検出された、って話らしい。発熱とフクスイが出てたんで、CTを今日撮ったらしいから、明日検査結果を聞きに来て欲しいって言うんだけど、場合によっては即手術になるから、俺に同席して欲しいって事らしいんだ。一応俺が家族の代表だからな」
「し、シンキン? フクスイ? 何、それ?」
「あ……あぁそうか。新菌、新しい菌。前の検査でじーちゃんの中になかった菌が、新しく検出されたみたい。後、腹水ってのは、腹ん中に、体液が溜まるんだ。浮腫みの酷い奴、っていうと、少しはイメージ伝わるかな……」
事前にそこまで言うって事は、恐らく腹水の手術をする方向で既に見当をつけているんだろうから、優介も可哀想だし、凪は家で過ごしててくれていいよ、と言われた。
「……おばあちゃんに、そう言いなさい、とでも言われた?」
「違うって。そりゃ、俺としては凪と優介と一緒に過ごしたいけどさ、優介にこれ以上我慢させたくないだろ? かと言って一人で留守番させられっこないじゃん。……正直、じーちゃん見て、アイツに怖いって言葉を吐かせるのがキツイんだ、俺にとっては父親だしな」
でも実際死相の出たじーちゃんの顔は子供の目には怖いよ、と苦笑して言う俊之は、虚勢を張った空元気にしか見えなかった。
「ごめん、また僻んじゃった。何だか、自分だけ他人行儀にされている気がして……。そうね、優介もこの家の空気と友達関係の事で、あの子なりに心労が重なってるものね。車だけ、私が使わせてもらっていいかしら? あの子、ドライブが好きだから、何処かへ気晴らしにドライブに連れて行って来るわ」
そんな昨夜のやり取りを思い出しながら夕飯の準備をしていると、ようやく電話が自宅に入る。
「はい、藤枝でございます」
『あぁ、俺。もうそろそろ飯の用意をしてる頃だろうから連絡入れてやってくれ、ってばーちゃんがさ』
予想通り、義父は手術をする事になって、手術は既に終わっているものの、容態の安定を確認するまでは帰れないから、食事は外で済ませて来る、という連絡だった。
「それで……おじいちゃんの様子は、どうなの?」
『……まあ、よくは、ないな。覚悟は要るかも知れない、と俺は判断してる』
オペ自体は難しいものではないし、手術も成功しているけれど、義父の体力がどれだけ残っているかにかかっているのだという井上医師の話だったそうだ。その新菌、というのが、通常であれば自浄作用が働き発症する事もない雑菌なのだが、義父の場合、体力が低下している為に発症に至ってしまったのだという。
「な……によ、それ。何、それってつまり、病院側に過失は無い、おじいちゃんに体力が足りないのが悪かった、って、何かあればそう言いたいって事な訳? ――冗談じゃないわよ! 誰の所為で大動脈瘤で入院したのに肺炎でこんなに重篤にさせられたっていうのよ!」
『凪、落ち着けって! 声が携帯から丸漏れだってば!』
とにかく、当分帰れないから家でゆっくりちゃんと話すから、今はとにかく一旦切るわ、と言われ、半ば一方的に通話を切られた。
「おかしいじゃないの……」
誰にともなく呟いてしまう。
だって、そうでしょう?
普通に誰でも持っている雑菌なら、それじゃあ新菌って言わないんじゃないの、と医師の説明を疑ってしまう。そもそも、肺炎で覚悟を必要とするなんて、予想もしてなんていなかった。
沸々と湧き上がって来る感情が抑え切れなくなって来る。
――ガシャ……ァンッ!!
私は、味噌汁を作るつもりで湯を沸かしておいた鍋を、シンクに力いっぱい投げ付けていた。
許せない……もし、義父に万が一の事があった時には、絶対あの病院の事を許さない。
肺炎で覚悟、なんて予想の中に入ってなかった。大動脈瘤で入院したのに。
その激怒の根拠は、義父を思って、などという優しさからではななく――。
「――理不尽過ぎる」
跳ね返った熱湯で火傷した手を冷やしながら独語する。そんな痛みなど微塵ほども感じなかった。それ以上に痛い所は山ほどあり、それは流水などで軽減なんて出来ないのだ。
「母さん、何かおっきい音したよ。何?」
隣の部屋で遊んでいた優介が不安げな声でキッチンに顔を出した。
しまった、ドアが閉まっているから聴こえやしないと思っていたのに……。
だが、彼の鈴の音の様な澄んだ声が、私のヒートアップした怒りを沈静させてくれた。
「ご、ゴメン……びっくりさせちゃった? もう~、母さんドジだから、お鍋ひっくり返しちゃった~」
努めて明るい声を出し、ペロ、と舌を出して薄紅に染まった手の甲を見せた。
「う……ゎぁ~……痛そう~」
優介はそう言うと、私の横に来て、患部ギリギリの位置まで手をかざして
「痛いの痛いの、飛んでって僕のお口に入っちゃえ~、パクっ!」
と“痛い痛い虫”を掴んで食べてくれた。
それは私のオリジナルの振り付けで、いつもそうして優介が痛いと言って泣く時は、そんな風に私が“痛い痛い虫”を食べて、「あ痛たた……母さんに“痛い痛い虫”移ったから、もう優介は痛くないでしょ?」と誤魔化すのに重宝していたものだった。
「うわ、凄い! 僕、母さんの“痛い痛い虫”食べても、全然お腹、痛くないっ!」
「凄い、強いなぁ~、優は。母さんより、すっごい強いっ! 母さんも全然痛くないよ」
「ふふんっ」
子供をあやした訳ではなかった。本当に、和らいだのだ――心の痛みが。
今、いきり立って騒ぎ立ててもなるようにしかならない。負の感情を持て余して家庭に日が翳る雰囲気を漂わせるよりも、今はとにかく義父の回復をひたすら祈ろう。希望を捨てずに日々を過ごそう。悪い予想が凶事を引き込むかも知れない、と自分を律して日々を過ごそう、半年後には、笑い話で今の事を語れるように。
あれだけ波立った激情が、凪いだ。
私は優介にまた救われていた。
三.
四月四日。
腹水除去の手術の日から数日しか経っていないのに、再び井上医師に呼ばれた俊之。
初めて、口にされたそうだ。
『覚悟が必要か、と……』
優介が熟睡してから、階下の義母の部屋で、三人で話をしたい、という事で呼ばれた私の口から、開口一番に出た言葉は。
「――訴えてやる」
私達は――家族は、どれだけ心の声を押し殺して来た? どれだけ病院を、医者を信じようと努力して来た? どれだけ、彼らの『最善を尽くします』という言葉を繰り返し心の中で復唱しては、不審の想いを噛み殺して来たって言うの?
「凪、気持ちはあり難いけど、医療訴訟なんてな――」
「所詮私は他人よ。しょうがない、って割り切ろうと思えば割り切れるわ。でも、あなたは息子でしょう?! こんな、奥の手を使ったり脅さないと動かない様な、そういう人間が医者として『先生』なんて呼ばれて偉そうにしているのを許せないって思わないの?! おばあちゃんだって、どうしてそんなに機嫌取りばっかりするんですか?! だから結局逐一俊之さんを呼び出すまで、妻であるおばあちゃんを馬鹿にしてないがしろにして何一つ聞き入れてもくれないんじゃないんですか?! 筋が通ってないのに、どうして私達までそれに便乗しなくちゃいけないんですか! 被害者でしょ、私達は!」
私の激昂に、彼らは悲しげな瞳で……苦笑した。
「凪、被害者は、俺らじゃないだろ……じーちゃんだ。じーちゃんは、あんな状態でも生きたいと思っていると思うか?」
「凪さん、それにね、もう、いいの。井上先生、貴女の言っていた事を認めたわ。ドレーンを抜くのが早過ぎた、申し訳なかった、って、頭を下げて下さったの。内科と外科の教授まで見えてね、一緒に頭を下げてくれたの。病院の非を認めてくれた、それでもう、私は充分……」
訴訟を起こしたところで、義父は回復しないし戻らない、と、義母と俊之は言う。
気持ちを切り替えろ、と――。
もう、疲れたの、と義母は言う。
もし大学病院という大きな組織を相手に訴訟を起こしたとしても、家の様な一個人、しかも今では甥に殆どを渡してしまって充分な財産も無い私に、医療訴訟に長けた優秀な弁護士を雇う余裕も無いのだから、負けは最初から目に見えている、と。
世間から、お父さんの死をお金に替えたと後ろ指を指されて暮らすのは耐えられない、と、義母はかつて私が見たドラマで言っていた事と同じ言葉を口にした。
「謝って貰っても、おじいちゃんは回復しないのに諦めるんですか……?」
「訴訟を起こしても、じーちゃんは回復しないだろう? 逆に、病人と出費が増えるだけだ」
それが、現実……。
私は、もう返す言葉が無かった。
思い知った。
如何に病院を信じ過ぎる事が危険か、という事も、そして、俊之や義母の、義父への真の愛情深さも、それに及ばない自分の家族としての不甲斐無さも。
俯いて、両膝に握り拳を震わせる私に、二人は言った。
「凪さん、私達の分まで怒ってくれてありがとう」
「優介と一緒に、会いに行ってやってくれるか?」
私は、言葉無く頷く事しか出来なかった。
永遠に、再び義父に『凪さん』と呼んでもらうという希望も、腹を割って喧嘩をするのだという未来も閉ざされてしまった。




