13. 疑念
一.
オペから一ヶ月程過ぎた、三月中頃、井上医師より初めて『退院に向けての診療計画』についての説明をしたいという事を打診された。
合併症の懸念が無くなったと判断され、私達家族は何とも言えない気持ちになった。喜び、とか、安堵、とか、そんなものではなかったのだ。該当する言葉が見つからない。
高齢ゆえに諦めていた義父の命、救ってくれた井上医師への感謝は計り知れない物だった――少なくても、私にとっては。
「最優先事項はやはり、自力呼吸への切替ですね」
井上医師は、今回は藤井医師の同意もあって、明確にその旨を私達に伝えた。俊之は既に自力呼吸を遅らせる場合の弊害を認識していたので、それについて何も質疑や異論は唱えなかった。だから、気になっていたすい炎の現状を訊くのも差し控えたのだろう。
危惧すべき事態なら、先生から言ってくれる筈だろう、というのが義母の判断だと後で聞いて、少しだけ違和感を覚えはした。
術前のゴタゴタも、結局その『だろう』という判断で大変な想いをしたのにな、と……。
だがまあいいだろう。呼吸器を外すことが最優先である事は変わり無いし、その後の回復具合ですい炎の方を確認すればいいのだし、と、まずは第一目標に意識を集中する事にした。
また、胸部から臍部にかけての大きな傷なので、てっきり点滴で麻酔、鎮痛剤などの点滴投与が行なわれているとばかり思っていたのだが、オペ以降は一切そういった依存しそうな薬品の投与は使用していないとの事だった。今後も、緊急事態を除いては投与の予定は無い、との事だった。
術後、完全に封じてしまうと、体内に傷口が塞がっていない間に漏れて来る体液や血液が溜まってしまう為、ドレーンを挿入して縫合していた。そのドレーンも、だいぶ出血の色が薄くなって来ているので、明日、一度取り外してみましょう、という事だった。
「え……あの、でもまだピンク色をしている、という事は、何処かしらまだ出血している部分がある、という事ではないのですか? 傷がまだ治癒していない内に外してしまって、お腹に溜まってしまったらどうなってしまうんでしょう?」
自分なりに、批判めいた口調にならない様に慎重に言葉を選んだつもりだ。二人の医師がどう受け取ったのかは解らないが。
「外して少し経過を見てから、口を閉じますから」
とだけ回答された。
おおよその計画は、次の通りだ。
まずは、呼吸器の卒業。少しずつ呼吸器の設定を弱くして行き、自力呼吸主体に切り替えていく。自力呼吸で酸素量の数値が一〇〇%パーセントに安定したと判断出来たら、カニューレを外す。
次に、少しずつ体のリハビリ。
現在の義父は、麻痺患者の様に両腕が曲がってる。手首も、ねじれた形で内側に曲がったまま。見舞時に、極力筋を伸ばして固まらない様にマッサージをしてはいるものの、自力で動かすそれとでは、明らかに運動量が違うので、どうしても外的要因で動かす程度では、筋肉や関節がほぐれないのだ。
痛みを伴う苦しいリハビリではあるけれど、首を自由に痛みなく曲げられる、腕や脚を曲げ伸ばし出来る、箸やスプーンなどを自分で使える、という程度の運動を目標に、少しずつ身体を動かす“一連の動き”によって、脳が刺激され、働きが活発になって来るらしい。その上で、言語障害の有無を判断されるそうだ。
そして、最終目標は、車椅子に介助付で座り、移動出来る状態。それが、病院生活での最終目標。
「目標は、最短で三~四ヶ月、といったところでしょうか。肝臓の方も、顔色がよくなって来ていますし、快方に向かってる、と言えるでしょう」
今回の説明は、患者である義父にとっても喜ばしい退院に向けての計画の話だった為、義父本人も同席した個室での説明だったので、彼は義父に笑顔を向けてそう説明を締めくくった。
「本当に、先生、今回もお助けいただいてありがとうございました。ご挨拶が遅くなってしまって本当に申し訳ないのでございますが……」
義母は手厚く礼を述べると、井上医師に近づき、両手で恭しく“封筒”を差し出した。
「あ、いえ、藤枝さん、そういう事は困りますから」
「そう仰らずに、ほんの私どもの気持ちですから」
そう言って義母は、彼のボタンの開放された白衣の前をめくり、内ポケットへその“封筒”を捻じ込んだ。
「そんな、困りますから……」
そう言いながら、彼はその封筒を内ポケットから再び義母の手に戻す事は無かった。
――過去の慣習、って、俊之は言ってなかったっけ……?
初めて、井上医師に対して不審の芽が私の中に芽生えた。
ナースステーションの受付壁面に、かなり大きな文字で張り紙がされている。
『当院では、謝礼を一切お断りしています』
実際、その後ナースステーションへ菓子折りを持参したが、婦長は丁重に義母からのそれを固辞していた。
まるで、澄んだ水に一滴の墨が落ちた様に、私の心の中にある、彼のクリーンなイメージが、徐々にグレーに変わっていった。
二.
相変わらず点滴投与を受けている、その薬品名を控えて自宅に持ち帰る。毎晩、ネットで薬品の副作用や投与の限界量等々を調べてみる。
『黄疸の症状が見られた場合は投与を中止する事』
『血液の凝固を妨げる場合がある』
極少の確率ではあるが、そういった副作用の内容を目にし、私はそれらをプリントアウトして俊之に見せる為の資料として保管した。
だが、年度末の多忙期で、俊之は帰宅自体もままならず、貴重な休暇を義父の為ではなく優介の卒園式出席に使ってくれた。式終了後はすぐにまた仕事に向かうほどの多忙ぶりだったので、元同期で、彼の多忙の程度を職場内レベルで理解している私は、つい家庭人より仕事人としての自分の判断を優先してしまい、“余計に負担を増やしてしまうだろう”と勝手に判断して、資料に目を通すのを強要しなかった。
私がどうにかしなくては、家庭を預けてくれる俊之の信頼に応えなくては、とキャパシティが狭い癖に背負い込んだ。
「藤井先生、義父の顔が黄色くはありませんか?」
ある日、思ったままに、そう問うた。声のトーンは、批判めいた口調にならない様、細心の注意を払った。それであれば、これはただの質問であって非難ではない。普通に答えてくれる筈だ。
「そうですね、ちょっと、出てますね。大きな手術の後で体力が低下しているので、全体に一時的に代謝が悪くなっているとは思うのですが、徐々に体力が付くに連れて回復していくと思いますから大丈夫だと思いますよ」
いつもの薬品と、栄養点滴をセットしながら、彼は私にそう答えた。
「先生、尿の量が減って来ている気がするんですが……」
腎臓機能が弱って来ているのではないかと不安になって訊いてみた。
「そうですね、若干、少ない日もありますね」
バイタルチェック表を見ながら、それでも昨日は普通でしたし、許容範囲内だから大丈夫でしょう、との返答だった。
「先生っ、黄疸がきつくなってませんか?! 本当に大丈夫なんですか?!」
明日にはもう暦が新年度に変わる、という日になる頃には、私はまたもや半狂乱で感情的な自分に陥っていた。藤井医師もまた、そんな私の態度を挑発と受け取ったのか、あの“笑い”を交えて言い放った。
「藤枝さん、いいですか? 副作用というのは、何万の成功例の中のほんの数例でも、症状が出たら副作用として明記されるものなんです。一つ一つ副作用を気にしていたら、何の治療も出来なくなるんですよ。私達に、治療をさせる気がありますか?」
更に食って掛かろうとする私を、義母が制する。
「凪さん、私は電車で帰れるから、もう帰りなさい」
でも、と言う私を一瞥し、義母は藤井医師に、これみよがしに
「本当に、いつも嫁が口うるさい事を申し訳ございません」
と、深々と頭を下げて謝罪していた。
どうして?! 何で?! 義父が“人質”だから?
下手に出ても、こんな状態になっているのに、今更何故機嫌をとるの?!
本当に、回復に向かっているの? 一時的な症状なの、これは?
幾つもの疑問と疑念と憤りが、私の思考を逡巡させる。
誰に正しい答えを求めていいのか解らない。
心は、術前のあの追い詰められた気分になっていた。
――誰か、助けて。
私はまだ、義父に怒鳴られたまま、きちんと和解の言葉を交わせていない。家族として受け容れられているのか、私の努力を解ってくれているのか、何一つ彼の真意を聞いていない。
その後、ほんの一週間程度の事ではあるが。
「凪さんはもういいから、優介の面倒を見てあげて」
と、義母に病院へ赴く事を拒否された。
義母が何を思い考えているのか解らなかった。
夫は出張で帰る事すらままならず、相談する事も出来なかった。
そして、ようやく俊之が帰って来て時間の都合がついた時、まるで息子の帰りを待っていたかの様に、義父の容態は急変した。




