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11. オペ

 オペ【operation(独語)】 ――医療用語

 手術。

 医者がメスなどを用い、患部を切開したり切断・摘出したりして回復させる治療法。

 用手的に創傷あるいは疾患を制御する治療法で、生体に侵襲(医療において、生体内の恒常性を乱す可能性のある外部からの刺激。外科手術、感染、中毒など)を加えるものをいう。




 一.


 その日がようやくやって来た。――オペ。義父の、大動脈瘤の手術の日。

 義父が緊急入院、手術の必要がある、と言われ搬送されたあの日から、二ヶ月半が過ぎた、雪のちらつく朝にやっと事態が進展した。

 その頃には私の肺炎も、完治はまだだったものの、随分と身体的には楽になっており、週に一度の通院と服薬治療で、仕事も終日就ける程に回復していたが、勤務中の知らせだとまた仕事と家庭の板ばさみで苛つく事が判っていたので、自宅で優介の入学準備をしながら、俊之の知らせを待つつもりでいた。

 優介の方も、家で退屈しながら過ごすよりも、病院で長丁場を耐える事態が起きた場合に備えて、昼間は少しでも解放的な気分でいられる方がいいだろう、と保育園に預け、友達との遊びを満喫させる事にした。大人にとっては何かと鬱陶しい降雪も、彼にとってはとても喜ばしいプレゼントとなった様で、寒空の下、自転車に乗せて送る間も、機嫌よく両手を空に伸ばして雪をすくいながら歌っている、彼の生きるエネルギーを感じられる事が、大きな私の救いになった。


 四時間を経過した辺りで私に安堵の睡魔が襲って来た。

 この時間まで連絡が無い、という事は、順調に進んでいるという事なんだろう。事前に義母から知らされていた言葉を思い出す。初期段階で万が一の事があった場合は、数時間で結果が出るらしい。

 今回の義父のオペについて言えば、一番怖いのは炎症が完治していない肺を持ち上げて、胸部の大動脈を引っ張り出す事により、肺が圧迫されて呼吸困難に陥り酸欠を起こさせてしまうかも知れないという事だった。その危惧が消えた事が、何よりも私をほっとさせた。大動脈瘤で入院したのに肺炎で亡くなる事になんてなったら、私はきっと、内科病棟での対応の恨みから、病院に殺されたとしか思えず、また病院に喧嘩を売ってしまうだろう。争いごとが嫌いな俊之や義母を思うと、何事もなくオペが成功し、義父が回復してくれる事が、唯一の私の望みだった。


 優介の入学準備の品々を作りながら、私はこれまでの寝不足の反動か、ふとした瞬間にはうとうととまどろんでいた。いつの間にか、テーブルに突っ伏したまま眠ってしまい……。


 夢の中で、義父は再びうるさい程に喋っている。

『凪さん、アンタそないに雑に作ったら優ちゃんが可哀想や。布のバッグならお母さんに作ってもらいなさい』

 今度そんな憎まれ口を言ったら、もう遠慮なく言い返してやろうと思っていた私は、思ったままを口にする。

『そんな事ばっかり言ってケチつけてたら、もう約束していた讃岐うどん屋さんに連れてってあげませんよ』

『往生しまっせ……』

 と困った顔で、縋るように義母を見る彼を見て、義母も、俊之も、そして私も笑っている。

 優介が、母さんも頑張ってるんだから、そんな事言っちゃダメ、と義父を優しく諭している。


 夢から覚めた後も、私はその夢の内容を誰にも話さなかった。話したら、本当に儚いただの夢になってしまいそうで。

 時計を見ると、優介を迎えに行く時間に近づいていた。

 (八時間も経ったのか……あと、二時間位かな……)

 俊之からの連絡は、無い。

 それは、順調にオペが進んでいるという事なのだ、と自分に言い聞かせ、私は優介を迎える為にコートを羽織った。




 二.


 深夜の十一時を回ってから、俊之は義母を実家に送り届けて帰って来た。

「ずっと連絡待っていたのに。それどころじゃない状況だったの?」

 憮然とした顔の夫に、責めているつもりは無かったけれど、選んだ言葉がついとげとげしくなってしまっていた。私は、電話さえ出来ない程の大変な状況になっているのではないか、と九時を過ぎた辺りからは、自分も優介を連れて病院へ行くべきか否かを逡巡し、玄関とリビングを動物園の熊の様に行きつ戻りつを繰り返していたのだった。つられた優介も夜更かし気味になってしまい、ついきつい口調で息子を叱ってしまった自己嫌悪から来る責任転嫁も、刺々しい批判めいた俊之への言葉に見え隠れしていた。

「直接帰ってから話しても問題ないって思ったんだ。とにかく疲れたし、まずはコーヒーを淹れてくれる?」

 私の気短な気性を熟知している夫は、私の内心の願いどおり、喧嘩腰な私の言葉を軽く聞き流してそう答えて寝室に入っていった。

 彼が着替えている間に、既に淹れてあるコーヒーをカップに注いで彼の席に用意した。

「オペ終了後、たった十分。成功したっていう一言で終わっちまった」

 質問も途中で遮られて、帰宅を余儀なくさせられた、と腹立たしげに彼は言う。

「……何で? 私は前回のオペの時は優介を生んだばかりで行けなかったから解らないけれど、それって普通の対応ではないって事なの?」

「まさか。普通な訳ないじゃん。ただ……最終的には十四時間もかかったから、実際に先生自身も疲労困憊だっただけなのかも知れないとも思うし」

 でも、今後に関するカンファの示唆も無いってのは、何か隠し事でもあるのかな、とか、つい疑ってしまうんだ、と彼は眉間に皺を寄せた。“オペは”無事成功しました、という表現も気に掛かる、と。

「でも、井上先生なら信頼出来るんでしょう? おばあちゃんはいつもそう仰ってるじゃない。大丈夫なんじゃないの?」

「ばーちゃんも感情の人だから、あんまあの人の洞察力ってのも信用し切れないんだよな。俺は、医者は基本的に皆全面的に信用しちゃいけないって思ってる。特に、大学病院みたいな派閥バリバリみたいなでかいトコはね。――悪いけどさ、明日にでも一度病院に俺の代理だって事で凪、病院に行けないか? ばーちゃんも多分明日はダウンするだろうから、まともに頭回らないと思うんだ。いつ先生に時間を作ってもらえるか、俺の仕事の都合もあるから、明日明後日両日の間に返答をくれ、って回答期限をきっちり区切って伝えておいてくれ」

 明日はどうしても抜けられない会議があるんで、悪いけど宜しく、と言ってコーヒーを飲み干すと、疲れ切った体を休める為にダイニングを後にした。


 その数日後、俊之の勘が当たっていた事を知る事になる。

 翌日私が夫の意向をを伝えて間もなく、術後の報告をしたい、と直接彼の携帯電話に掛かって来たそうだ。その晩の内に、義母と一緒に病院へ赴いたらしい。

 義父の動脈の、バイパス手術自体は五時間程度で終わっていたとの事だった。

 何故、その後九時間も要したのか。

 各臓器への細い血管の接合に手間取ったらしい。なかなか止血出来ず、輸血も予定以上に多くしたそうだ。体温が、三十四度からなかなか上昇してくれず、いろいろ措置を施していた、との事で、術後二日目の午前中になって、ようやく三十六度まで戻ったと、数日も経って初めて家族に知らされた。

「合併症を警戒するのは、約三週間と見込んでいます。それさえ、藤枝さんが乗り切ってくれれば、肺機能の回復も考慮しながら、呼吸器も外せますし、少しずつリハビリも行なって、退院に向けての計画を立てられると思います」

 執刀した井上医師はそう言い、初めて家族に余裕のある柔和な表情を見せたらしい。

「これでもし体温が戻らなかったら、じーちゃんが死んでたら、低体温だった事を隠すつもりだったのかな、とか考え始めたら、何もかもが一層信用出来なくなって来ちゃってさ……」

 そんな不快感がつい顔に出てしまって、義母に横から突付かれたそうだ。

 煮え湯を飲まされた気分だ、と呟く彼に、オペの成功を喜ぶ気配を感じられなかった。

 ふと、脳裏に浮かぶ術前に夫が言った言葉。

『オペの成功率には自信がありそうだけど、俺が回復や退院の見込みについての確率に拘る質問ばかりしていたから滑舌が悪かったんだろうな』

 私の安堵の対極にある、先を見て不安を覚えたその表情に、自分まで感化されまいと私は自身を奮った。

「成功したんだから、後はきっと優介がおじいちゃんに元気を与えてくれるわよ。きっと、絶対うるさいわよぉ~。取り敢えず、食べもん! 水! って大騒ぎよね。想像するだけで可笑しいじゃない」

 楽しみな先だけ考えましょう、という私に、力無く首を横に振る俊之。

「ばーちゃんは、これまでの長期間の沈静で、痴呆が進行した状態で覚醒するんじゃないか、って心配してるし。俺らのエゴで、生きてて欲しい一心で、じーちゃんにオペを受けさせてよかったのかな、って、今になって自信なくなって来た……」

 優介が甘える時にそうする様に、俊之も私の手を取り自分の頬に押し当てて、心細げに呟いた。

「なあ、凪。『生きている状態』というのは、何を指して言うんだろうな。『生きていてよかった』と思えないまま生かされているじーちゃんは、本当に生きていると言えるのかな……」

 私は、彼に答える言葉を見つける事が出来ず、もう一方の手で彼の空いた頬を撫でる事しか出来なかった。


 その当時には解らなかったけれど、今の私は何となく思う。

 俊之が抱いていた迷いは、あまりにも慌しく決断を迫られ、熟慮出来ないままに決定権を委ねられ、日頃から、自分や家族の生き方の方針、万が一大病に倒れた場合に自分がどうありたいか、を話し合うどころか考えた事も無かったが為に生まれた迷いや不安だったのではないか、と。

 よく考えたら、人は生きている限り、誰もが“死に往く途中”であるにも関わらず、誰も『如何なる死に方を望むか』について、しっかりと考えた事が無い。

 義父は、病気がちだった為に、家族の誰よりもそれについて想いを巡らせていた。

 彼は確かに手術を受ける事を了承したけれど、家族の意向を汲んでくれただけで、本当は半分サイボーグの様になっている欠陥だらけのその肉体から、もう解放されたかったのではないか、と。

 私達は、義父の心の声を今までどれだけ聞いて来れていなかったのだろう。

 義母や私は繰り言に必死で、自分の気苦労へのねぎらいを求める事にばかり気持ちを向けて。

 俊之は、そんな面倒臭い女の感情を、争いごとに発展させない為に間に立って調整することに必死になって。

 誰もが、義父の心の声を聞く事を怠っていた。

 きちんと話を聞く姿勢もとらなかった癖に、すぐ癇癪を起こす、と上からの目線で義父を捉えていた。

 この時夫は、誰よりも早くその事に気付いてしまったのかも知れない。家族としての想いと、患者当人としての想いの板ばさみになり、一人心を痛めていたのかも知れない。

 何も彼の励ましになる言葉を思いつかないまま、

「おじいちゃんの意識が戻ったら、直接聞いてみましょうよ。私達は、またこうして話せて嬉しいよ、って、伝えてあげましょ、ね? 俊之」

 とようやく言葉を紡いだ私に、彼は寂しげな笑顔を返していた。

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