10. オペに向けて
一.
義父の指先に付けられた酸素含有量の計測装置が、安定して百パーセントを示し続けて久しくなる。
井上医師より、オペに向けてのインフォームドコンセントを打診され、最終的な話し合いの場という事で私と優介も同席を許された。
「まだ肺炎が治ってないんだからまずいんじゃないのか?」
と俊之は案じてくれたが(いや、院内に菌をばらまくのを心配したのかも知れないが)、随分と影も薄れて来たし、咳き込みもなくなって来たから同席させて欲しい、と無理を言った。
義父に面会しない事を条件に、インフォームドコンセントの同席に限って許可をもらった。
井上医師から病名を改めて知らされ、それに伴う仔細を説明された。
胸部、を改め、胸腹部大動脈瘤。疾患部位は、横隔膜の真下の動脈。開腹してみないと断定は出来ないが、CTなどの映像から、胃腸部へ繋がる血管・腎臓へ繋がる血管二本、肝臓へ繋がる血管の四本も恐らく瘤が出来ているだろう、との事。
通常だと手術をしない位、難しい部位らしい。
だが、義父の場合は手術しないと危険であるから、手術した方がよい、というのが井上医師の個人的見解だと彼自身が仰った。
手術内容は、先日話した通り新規にバイバスを入れるのに加え、以前のバイパスの半分を交換・新規バイパスと結合させる手術になるとの事だった。
――体力がもつのだろうか……?
拭えない不安から来るその疑問を、私は口にすることが出来なかった。義母や俊之がその点に関する質問を一切しないものを、嫁の私が差し出がましく口を挟むのがためらわれたから……。
手術中の高致死率に繋がる懸念としては、血流制御のコントロール不可による失血死。しかし、人口循環器を用いるので、その危険性は少ないとの事。そうやって、危険を一つずつ消去していってくれる彼の説明は、少しではあるけれど私の不安を軽くしていってくれた。既に病院不信に陥っている私にとって、彼が唯一この病院で信頼出来る人になっていた。
俊之が、諸々の説明を聞いてから一枚の承諾書を書いた。
血液検査に関する内容――輸血を承諾するか否か、という承諾書。
義父は現在貧血気味らしい。だが、心配する程の貧血ではないとの事で、輸血量は一人分程度。輸血に対する同意に伴い、HIV検査をするかどうかの確認もあり、それはもし発症した場合、輸血によるHIV感染か、本人が輸血前から持っていた素因によるものなのかを明確にする為、付加検査としてある様だ。
つまり、責任の所在を病院側か患者かのいずれかに負わせるための検査、と言えなくも、ない……。
「もし保有していたとしたら、今ごろとっくに高熱を出していたりしてオペどころじゃないですから、大丈夫だとは思いますけどね」
と彼は言ったが、俊之は
「明文化する事に意義があるので」
と検査をする意向を明示した。
責任の所在を確実にしておく為の根拠の布石と見受けられる、彼のその慎重さが私を再び不安にさせる。まるで、オペ中に何かよくない事が起こるとでも言うかのような慎重さが私は怖かった。
「オペそのもののリスクは、ご高齢である事や、現在の体力等を加味した上で五分五分、といったところと判断しております」
問題は、オペそのものよりも、術後の経過にある、と井上医師が弱気な姿勢を見せた。
「オペは大手術となります。最短で、朝から始めたとしても夜の七時ぐらいになるでしょう。それ自体はまず心配ないとは思いますが、それによって回復を確約は出来ない事を事前にご了承いただきたいと思っております」
その理由として、一番怖いのが、“合併症”。
内臓各部に通じる血管を、極力いじらない様にするつもりでいるが、場所が場所だけに、メスを入れてみた具合で、血管の枝部も大きな瘤になっていた場合は、そこにも人工血管を入れるとの事だ。
それが巧く機能しなかった場合は、血流が途絶える、もしくは機能不全に陥る可能性がある。
当該箇所が腎臓への血管だった場合、人工透析になる可能性がある。
胃腸部への血管だった場合は、内臓壊死に繋がるので、死に至る可能性が高い。
「確認出来るのは、オペ終了後、二両日と見込んでいます。また、肝臓への血管だった場合も、胃腸部と同様になります。黄疸症状が出ます」
と、彼は一気に事務的に説明された。
私は、心を無にしてメモを取るのに専念をする。その言葉の一語一句に感情を動かしていたら、事後の為の資料として、彼の発する残酷な説明を筆記していく事が出来ないからだ。
大病知らず、入院知らずの私には、その内容はあまりにも衝撃的過ぎた。
入院期間のおおよその目安や具体的な術式などの詳細が伝えられ、来週始めにでも最終的な手術の承諾是非をうかがいます、と井上医師の説明は締めくくられた。
義母と俊之が、即答で手術はするという方向で決定しているので、とは言ったが、
「即決ではなく、他のご家族やご親族との話し合いもあるでしょうし、取り敢えず、今日はお話をさせていただいた、というところまでで」
と、承諾書の捺印を保留にして欲しいと仰り、カンファレンス室を立ち去った。
二.
「ねえ、言ってもいい……?」
その夜、優介を寝かしつけてから、私は大動脈瘤の術式をネットで調べている俊之にそう声を掛けた。
「ん? 何?」
「私が言える筋合いではないのだけれど……本当は、手術しない方がいいんじゃないか、って思ってるの。どうしてもね、不安で怖くてしょうがないの。……こんな事言ったら、あなた、怒るかも知れないけれど……」
カンファレンス室では言えなかった不安を、私は俊之に打ち明けた。
「先生もあまりオペを勧めていなかった様に感じなかった? 入院当時より、明らかにおじいちゃんの体力も低下しているし、本当に、承諾書にサインするの?」
嫁である私が義父の死を考慮していると俊之に不快感を持たせない様、言葉を慎重に選んで訊いた。
「前回の時よりも、あまりにも先生が終始慎重な言葉や表情をしてらっしゃったから、何だか不安で……」
画面をスクロールする手を止めて、彼は私に向き直った。
「先生が弱気オーラ全開で説明してたのは俺にも解ってたよ。きっと、俺がオペそのものの事ばかりじゃなく、“最終的に回復・完治の上で退院出来る可能性”についての質問ばかりしていた所為だろう。そりゃ、オペが終わらないと答えようがないんだろうとは思うけど――こっちは、場合によっちゃ、葬式の段取りも考えないといけない部分もあるからな」
俊之は、苦虫を潰した様な顔をして、最後の一言をためらいながら答えた。
「それでも、オペの道を採るよ。どうせ死んでしまうなら、最善を尽くしておいた方が俺らに悔いが残らない。放置だと確実に死ぬ訳だからな、じーちゃんは。……もう、本人が今一番、生きてるのが辛いと思う。それなら、少しでも早く楽にしてやりたい。オペって助かるなら儲けもの、という程度の認識なんだよ、俺もばーちゃんも」
意外だな、凪がそんなにじーちゃんに生きてて欲しいと思うなんて、あんなにぼろくそに言われてて文句ばっかり言ってたのに、と、無理して彼が笑うから、私はその下手くそな笑顔に泣けてしまった。
また熱が上がるから、早く寝な、と、俊之は私を優介の眠る寝室へ促した。
寝付けずに考える夜が暫く続いた。時は確実に刻まれてゆき、どうする事も出来ないけれど、本当に、手術に臨んでよかったのだろうか、本当に義父はそれを望んでいたのだろうか、当日まで、一人悶々と考えていた。
せめて、内科病棟で肺炎にさえならなければ、すぐ手術が出来たら、今頃こんな事にはなっていなかった筈なのに……。
私は、今更言ってもどうしようもない繰り言を、オペの当日まで心の中で繰り返していた。




