HERO②
これはついこの間の話さ。僕にとってはろくでもない話だ。ろくでもないから話題にもならない。
記録用に記述されるしか能がないような話だ。
思い出すとき,夢に見るとき,記述するとき。あの日について,それらを何度繰り返してもいつも始まりは一緒だ。身震いするほどの夕焼け模様の中,校庭から聞こえる生徒の遠いかけ声を聴きながら,僕は放課後の教室にいた。何をしていたわけでもなく,ぼんやりと教室全体を見ていたんだ。なんというか,学校の教室には夕陽のオレンジが似あうんだよね。白い壁は朱に染まりやすく,木目の床は窓から落ちる夕光に渋みと深みを与えるんだ。ああ,永遠でも居れてしまうね。当然,夕焼けが永遠に続けばだけれども。
とにかく僕は,上機嫌だった。歌いもせず,踊りもせず,笑いもせずだが上機嫌だったんだ。
けれどあの日,彼女が僕の「お気に入り」を壊したんだ。
彼らの足跡が遠くから聞こえてきたんだ。パタパタと慌てたような駆け足の音だったよ。最初,まったく気に留めてもなかったよ,その音に。誰か廊下を走ってるのかな,とさえ思わなかったね。別にそれほど特異な現象じゃないしね。そこに廊下があって,生徒がいれば走りもするだろうさ。
その音に関心を持ち始めたのは,その音がだんだんと大きくなってきた時だったよ。近づいてくるとそれが一人分じゃないと気付いたんだ。何人かはわからなかったけれど。少しだけドキドキしていたのを思い出すよ。パトカーのサイレンに似ているかな。遠くで鳴っている時は気にならないけど,徐々に自分の家に近づいてくるとなんとなく落ち着かないだろう?
だから,僕は体の向きを変えて廊下のほうを見たんだ。
しばらくは何の変化もなかった。相変わらず廊下は夕陽で赤く染まり,窓際の壁に設置された掃除ロッカーが無言で立っていた。でも,変わらない風景とは対象的に,足音だけは徐々にボリュームを上げていったんだ。なんだか音と画面がずれてしまったビデオを見ているようだったよ。ほんの数秒間,そんなチグハグな画面を見ていたんだ。
突然,僕が見ていた「画面」の右側から女の子が一人飛び込んできたんだ。正直言うと,見れたもんじゃなかったね。目は何かを恐怖してこわばり,汗まみれで,息切れのせいで口は開きっぱなし。髪は乱れて,足元もおぼつかない。走り疲れた真っ赤な顔。あと,首に巻かれた真っ青なマフラーが旗のように風で靡いていたね。後に対面した彼女は,一般的には美少女といわれる外見をした女の子だったけれど,この時はそんな言葉,欠片も浮かばなかったよ。
そして彼女を追いかけて,もう一人が現れた。モグラのような男だったよ。ぼさぼさで,たわしのような髪の毛をした太った男だった。彼もまた,彼女とは別の意味で必死の形相だったよ。印象的だったのは目さ。腫れぼったい瞼から除く目の光。ライオンや鷹のような鋭さはないけれど,間違いなく狩る側の目をしていた。獲物を逃がさないという執着,ねちっこい眼光を放っていたんだ。
その2人が2メートルほどの間隔をあけて走り抜けていったんだ。2人にどんなことがあって,どうして「おいかけっこ」をしてるのか,その時僕にはわからなかった。あんまり見ない光景だからね。もしかしたら,犯罪的な光景かもしれないし,何かの競技かもしれないし,そもそも実は2人は何の関係性も無くて,彼女は「彼ではない何か」を恐れて,彼は「彼女ではない何か」を求めて走っているのかもしれない。そんな何の利益もないことを考えていたんだ。
彼女と彼が走り抜けた後,色のない空気の対流が見えた気がした。掻き混ぜられた空気が景色を歪めたように感じたんだ。でもそれは一瞬で,数秒後には再び,元の夕焼けの廊下に逆戻り。白昼夢とは言わないけれど,夢だったのかと思うくらい痕跡の残らない出来事だったよ。足音が再び遠っていった。それに対応するように,僕の興味も薄れていったんだ。だから僕はまた,何をするでもなく教室を眺めることにした。でも,実際はそうはならなかった。
体の向きを元に戻そうとした瞬間,僕の挙動の出鼻を挫くように彼女が現れたんだ。
足音なく現れた彼女はまるで幽霊のようだった。教室からは廊下にいる人の足元は見えなかったけど,
足がなく,空中を移動しているような,そんな浮遊感を感じさせる人物だった。女子にしては短めの黒髪にすこし季節外れの夏服(季節は晩秋だった。)作り物のような白い肌。僕は彼女から目が離せなくなった。彼女は浮いているかのように,上下運動無しに,廊下を移動していた。実際はしっかり地に足をつけて歩いているのだけれど(この後,僕は彼女に足があることをあっけなく確認する。)。何度も言うが,教室から彼女の足元は見えなかったんだ。
彼女は教室の2つの出入り口の真ん中くらいまで来ると,足を不意に足を止めた。そして,しばらくそこで立ち止まっていた。何をするわけでもなく,視線だけは前方の何かに向け続け。不意に彼女は言葉を発した。
「あなた,お人形さんみたいね?」
何の前触れもなく,文脈もなく彼女はそう言い放った。独り言と判断してしまってもいいくらいの一言。
だけど,僕にはわかったんだ。それが僕に向けられた言葉だということに。当たり前だ。だって,そうだろう。
僕は僕自身を人形だと思っていたのだから。
だから僕はこう言った。
「そうだね。」
その言葉を聞いたからなのか,最初からそうするつもりだったのかはわからないけど(今でも聞く気にはなれない。),彼女はこちらを向いた。
そして僕の目が,彼女の目から離れなくなった。端的に表現するね。僕は彼女の目に捉えられ,囚えられたんだ。
彼女から伸びた見えない大きな手のようなものが僕を捕獲して? 違う。
彼女の瞳が僕を魅了して? 違う。
彼女の魔法にかけられて? 違う。全く違う。そんな甘いもんじゃなかったよ。
彼女の目が認識する空間。僕と机と椅子と黒板と窓とカーテンと時計と壁と・・・教室にあるすべてと窓から覗く真っ赤な夕陽と夕焼け。その風景がまとめて彼女の目で切り取られて,そして閉じ込めれれた。空間ごと把握された。そんな感じだったよ。
そう,僕の好きだった夕陽に染まる教室は彼女に把握されてしまったんだ。つまり,僕だけのモノではなくなったんだ。何か大きな力で台無しにされてしまったんだ。喪失感が僕を襲ったよ。そして襲われた僕にすかさず,彼女は,たしかこんなことを言ったんだ。
「手伝ってほしいことがあるの。」
この時点から,正確なところは覚えていないんだ。でもたぶん,彼女はそんなようなことを言ったはずさ。何せ僕は「僕」として初めて動揺というものを体験していたのだから。誰にも会ったことがない「僕」が何の「役割」も通さずに,彼女に話しかけられてしまったんだ。息子ではない,生徒ではない,友達でもない,何でもない「僕」が初めて人と言葉を交わしたんだ。彼女の言葉は僕の演じてきた役割を,被ってきた仮面を,作っていた壁を容易く貫通した。これも同じく覚えていないのだけれど,僕はわけもわからずこう答えたと思うんだ。
「もちろん。」
こうして僕は「僕」として初めて人と言葉を交わすことに成功したんだ,と思っていた。一種の興奮状態というやつだったのかもしれない。でも,結果的にはこれはぬか喜びだったんだ。今現在,一連の出来事が終了した時点での僕,この日記を書いている僕をしてなお,「僕」は「彼女」と出会ってすらいないのだから。