第十四週記念 クロ
打って変わって
6月の下旬になった。
寒さの冬とは違い、
蒸し暑い日々が続いた。
僕は学年が一つ上がり
高校生の最後の1年が
始まった。
日曜日の記念日は
名前がないまま
半年が過ぎていたが
二人とも話がまとまらず
今に至った。
部屋を出ると6月とは
思えない暑さが僕を
襲った。反射的に汗が
出た。Tシャツがジトリと
僕の肌にへばりつく。
公園には小さな子供は
暑さに負けず元気に
走りまわっているが
それを見守る大人達は
木陰でぐったりと
生気のない目で子供を
みている。
空調がきいている
博物館に人が押しかける
のは言うまでもなく、
駐車場が一杯だった。
クロが珍しく、
来るのを躊躇したのは
暑さのためだろうか?
毛色からいえば
一番暑いだろう。
自分の飲み物とともに
クロ用も持ってきた。
ベンチには麦わらぼうしを
被った彼女が
夏の暑さにも負けずに
笑顔を振りまいていた。
「こんにちは。
暑いね」
「暑すぎてどうか
しちゃうよ」
そっと彼女に原稿を
渡し、座った。
木陰のなかはやはり
涼しく、ありがたかった。
静かなひととき、
セミはまだ鳴いていない。
僕も本をとりだして
読み始めた。
読み終わったのか
彼女が一息吐く。
「喉渇いちゃった。
自販機行ってくる」
「一緒に行くよ」
同時に立ち上がる。
僕が五歩歩いた。
が、彼女はついて来ない。
何かを探すように
周りをみていた。
「どうかした?」
振り返り呼びかける。
「う~ん…」
もう一度みてから彼女が
「クロが見当たらない。
いつもなら私達の間に
いるのにいないなぁ~
って思って」
僕も周りを見てみる。
確かにクロらしき影は
見当たらない。
「5時には戻ってくるよ。
飲み物買いに行こう」
彼女は一瞬ためらったが
気を取り直して
歩きだした。
5時のチャイム。
しかしクロはいない。
「どこに行ったんだろ?」
彼女が不安げに言う。
僕も不安になる。
「とりあえず探して
みようか?」
二人でベンチの周りから
探し始めた。
湿った草木を
かきわけて、
クロの姿を探したが
どこにもいない。
5時を過ぎても
帰らないのでようが
大家さんの命令で
僕達を呼びに来た。
「お兄ちゃん
ラブラブなのは
いいけど…」
ニヤニヤ顔で来たが
僕が説明すると
サーっと顔色が
白くなり踵をかえして
ダッシュし始めた。
「おい!!どうした!?」
顔をわずかにこちらに
向けて
「ばあちゃんに
伝えてくる!!
ばあちゃんにも
手伝ってもらうよ」
数分後、ようのあとから
大家さんが汗だくで
ついてきた。
「どうしたのさ?
ようが顔色変えて
ばあちゃん来て!!
って言うから…」
困り果てた様子で
僕を見た。
「クロが見当たらない
んです」
説明をした。
大家さんは落ち着いた様子でこう言った。
「そうなのかい?
まぁ猫は散歩が
好きだからね。
そのうち帰ってくるよ。
ある程度探したら
帰って来なさいよ。
7時には帰りなさい」
「わかりました」
僕は頷いた。
二時間公園内をくまなく
探したが結局クロは
見つからず、僕達は
公園をあとにした。
迎えてくれた大家さんは
意気消沈した僕達を見て
「大丈夫、
すぐにお腹減らして
帰ってくるわよ」
と慰めてくれた。
大家さんの読みは
見事に外れてクロは
次の日もまた次の日も
帰って来なかった。
学校から帰ってから
公園に行って探したが
まだ見つからない。
水曜日にはタイラも
駆けつけてくれて
一緒に捜したが
結果は変わらなかった。
大家さんは
迷子の猫のポスターを
作って公園に許可を
もらって公園中に
貼ったが電話は
うんともすんとも言わず
迷惑電話が何件か
かかってきた程度だった。
僕は夜もあまり眠れずに
タイラから心配そうな
目で見られていた。
実際、クロのことばかり
考えて授業もバイトも
身が入らなかった。
クロがいなくなって
一週間が経っていた。
午前中も公園を探した。
一度家に帰ってから
彼女に会いに行った。
小説どころではなく、
彼女との約束を
初めて破ったような気が
した。
報告と捜索で今日は
終わってしまうと
思った。
運が良ければ、
クロが見つかるかも
知れないとも思った。
しかし現実は残酷だ。
彼女はベンチに
座っていなかった。
おかしいと思いながら
ベンチに近づくと
裏の草影に彼女はいた。
背中しか見えないから
ただ立っているようにしか
見えなかった。
猫の泣き声が聞こえる。
クロとは
全く別の泣き声。
しかし似た響きが
どこかにあった。
「どうし…」
僕に気づいた彼女は
こちらを振り向いた。
目に涙をためていた。
嫌な予感が僕を
愛おしむように撫でた。
草むらをかきわけて
その場所に行ってみた。
そこに広がっていたのは…
ガリガリにやせ細って
飢餓の中地面に身を
あずけるクロの
衰弱しきった姿だった。
目にはもう光がない。
わずかに口を動かし、
鳴いているようだが
全く声になっていなかった。
隣で泣いているのは
クロの母親らしき猫。
この様子はまるで…
「最初みたいじゃない…」
泣きじゃくる彼女は
嗚咽に耐えながら
声を絞り出した。
僕がクロに触ろうとすると
母猫は守ろうと
身構えて僕の手を
噛んだ。
それはまるで…
責めているようだった。
この僕を。
痛さが身にしみた。
身だけではなく
心にもしみる痛みだった。
クロを抱き上げて
抱き締める。
僕にはそれしか
できなかった。
顔を近づけると
光のない目で僕を
じっと見つめた。
どこを見ているのだろう?
その問いが強く心を
打った。
ペロリと僕の顔を舐めて
ニャアと力なく鳴くと
クロは目を閉じた。
手で土を掘った。
土は濡れていた。
何故だか知らないが
土は乾くことなく
また掘り進めても
乾いた土はなかった。
彼女と二人で掘った。
クロとの思い出が
土から掘り返される
かのように蘇る。
二人で泣いた。
クロの大きさより
ちょっと大きい穴を
掘った。
そこに優しくクロを
寝かした。
言葉を振り絞り
「今までありがとう。
ゆっくりおやすみ」
掘った土を優しく、
クロが苦しくないように
かけてあげた。
5時のチャイムが
哀悼の意を示すかのように公園に鳴り響いた。
クロは死んでしまった。
無言で二人で家に帰る。
足取りは重い。
いつもの道が延々と
続いているかのように
思えた。
やっとの思いでついた。
大家さんとように
説明する。
話し終えると二人は
しばらく黙ったあとに
公園に向かった。
僕達は部屋に戻った。
ドアを開けると
(誰)もいない。
靴を脱いであがる。
他人の家のような感じ。
殺風景な光景。
そこに一つ光もの。
ステンレスの丸皿。
手に取ってみる。
にじんだ僕の顔しか
映らなかった。
僕の問いかけに
答えてくれない。
「……のせいだ」
彼女が近寄り
僕を恐る恐る見る。
「どうしたの?」
僕はステンレス皿を抱き
崩れ落ちた。
「僕のせいだ!!
僕がちゃんと探せば
クロは…クロは…」
言葉は出なかった。
ただ、昔描いた小説が
頭に浮かんだ。
「クロは結局、
母さんとは会えなかった。
小説なんて…。
現実は残酷だ。
ただの絵空事は
残酷で非情なものに
潰されるだけだ!!」
彼女は黙って僕を
みていた。
その表情は哀しげだった。
どこもかしこも
クロがいる。
心がきしむ。
こんなことに
なるのならば…
「会わなければ良かった」
僕が言うと彼女が
息をのんだ。
「拾わずに
会わずにいれば…」
彼女が最初に…
「名前なんて…
つけなければ
こんなに
悲しまなかった!!」
名前は知ってしまえば
否応無しに他人との
つながりをつくり
自身も他人も縛り付ける。
「違うよ…」
彼女は言った。
「何が違う?」
苦々しく敵意むき出しで
僕は彼女に聞いた。
「違うよ。
全然違う。
名前があるから
クロはいたんだよ!!
名前がなかったら
死んでいるのと
同じなんだよ!!
辛いのは辛い分以上に
楽しかったことが
あったからでしょ!!
それまで否定しちゃだめ!!!」
一度深呼吸してから
彼女は言った。
「クロは最後に
お母さんに会えた。
あなたのおかげ。
あなたが小説で願い、
実現した。
あなたに助けられて
一緒に幸せに暮らせて
お母さんと会えて
嬉しかったって
最後クロはそう言いたくて
あなたを舐めたと
思う。幸せな命だったと
思うよ」
沈黙が訪れる。
「死んだら
何もかも終わりだ」
僕は言う。
彼女はうつむき、
玄関まで歩いて
部屋を出ようとした。
しかし立ち止まった。
「私は向き合うよ。
受け入れるよ。
クロやあなたが
教えてくれたように
クロの死も過去も…」
そう言って
扉は閉められた。
タイラは僕を
元気づけようとしたが
僕は一切を無視した。
学校も受験勉強も
小説も何もかも
無意味に思えた。
家に帰ると
そこら中に残る
孤独と喪失感と悲しみが
僕を激しく責め立てた。
ようも大家さんも
夕食に誘ってくれるが
僕はすべて断った。
扉は閉まったまま。
そのまま一週間。
日曜日だった。
たしかに日曜日だ。
いつもの記念日だ。
だが何かにすり替えられてしまった。
行かなきゃと
思いつつも僕は
動けなかった。
あそこにも
数多くが残っている。
行けば必ず傷つく。
扉はとても重かった。
1時30分。
もう彼女はいるだろうか?
2時00分。
彼女は何をしているだろうか?僕を待っているだろうか?行かなくては…
3時00分。
もう帰ってしまっただろうか?来なかった僕を怒っているだろうか?来なかったから悲しんでいるだろうか?
4時00分。
あと一時間でチャイムが…
チャイムが鳴った。
「お兄ちゃん!
いるの?」
いつもなら扉を叩くようが
チャイムを鳴らした。
「どうした?」
扉は開けずに
鉄を隔てて会話をした。
「お姉ちゃんがね、
お兄ちゃんに手紙を
描いたから届けて
欲しいって」
「手紙?」
扉をちょっと開けて
手紙を受け取り閉めた。
眺めてみると
手紙とは思えない
厚さで封筒が膨らんでいる。
上の端をちぎって
何枚もの文章を
数分かけて読む。
「…!!!」
僕は手紙を手に
握り締めて
勢いよく部屋を
飛び出して公園に
走って行った。
扉は開けられた。