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第7話「遠いものだった、夏の海」

登場人物

水無月みなづき 晴人はると

高校1年生。本作の主人公。どこにでもいる普通の高校生。

ある雨の日、かつての幼馴染・零花と再会する。

久しぶりの再会に戸惑いながらも、少しずつ彼女との距離を取り戻していく。


霧咲きりさき 零花れいか

高校2年生。晴人の幼馴染。長い時を経て、再び彼の前に現れる。

落ち着いた雰囲気と大人びた美しさを持つ少女。

どこか謎めいた言動を見せることもあり、その内面は容易には掴めない。


高瀬たかせ りく

晴人のクラスメイトで、中学からの腐れ縁。

明るくノリの良い性格で、遠慮なく距離を詰めてくるタイプ。

軽口を叩くことも多いが、いざという時には頼りになる存在。


桜井さくらい 美咲みさき

晴人と陸のクラスメイトで、中学からの腐れ縁。

明るく人懐っこい性格で、誰とでもすぐに打ち解ける。

場の空気を和ませる一方で、ふとした瞬間に核心を突くこともある。

――そして、海へ行く当日。


夏の朝。

強い日差しがすでに照りつけていて、駅前のアスファルトがじんわりと熱を帯びている。


待ち合わせ場所は、最寄りの駅。

人の流れも多く、どこか浮き足立ったような空気が漂っていた。


改札を抜けて周囲を見渡すと、すぐに見慣れた二人の姿が目に入る。


「二人とも早いな」


「おう、来たな!」


陸が片手を上げて応じる。


「やっほー晴人」


美咲も軽く手を振りながら、にこっと笑った。

そのまま少し歩み寄りながら、晴人はどこか気まずそうに頭をかく。


「あー…美咲、サンキューな」


その一言に、美咲はきょとんとした後、すぐに楽しそうに笑った。


「いいのいいの!気にしないで!」


あっさりとした返事。

けれど、その言葉で十分だった。


――頼れる相手。

そう思って浮かんだのは、やっぱり美咲だった。


あれから後日。

零花と、美咲と、そして俺の三人で水着を買いに行った。


とはいえ、俺は完全に付き添いだ。

美咲が主導してくれなければ、どうなっていたことか。


「いいよなー、俺も水着選びしたかったぜ!」


横で、陸が心底羨ましそうに言う。

その言葉に、思わず顔をしかめる。


「お前、本気で言ってんのか?」


「当然だろ!」


迷いのない返答に、呆れを通り越して感心すらしそうになる。


……こいつはまったく。


そんなやり取りをしているうちに、ふと時計に目を向ける。

集合時間までは、まだ少し余裕があった。


――零花は、まだ来ていない。

人の流れをぼんやりと眺めながら、なんとなく落ち着かない気持ちになる。


来る、とは言っていた。


けれど――どこかで、少しだけ不安が残っている自分がいた。


そして、集合時間ちょうど。

人の流れの中から、見覚えのある姿が現れる。


「おはよう、晴人君」


振り向いた先にいたのは、私服姿の零花だった。


淡いアイボリーのワンピース。

膝下まで伸びる柔らかな布地が、夏の風にわずかに揺れている。

装飾は控えめで、余計なものは何もない。


それなのに――どこか目を引く。

白に近い色合いが、強い日差しの中でやけに映えて見えた。


その瞬間。


「おっ……!」


隣で、陸の声がわずかに上ずる。

わかりやすい反応に、思わず苦笑しそうになる。


確かに、制服姿しか見たことがなかったせいか、どこか新鮮に見えた。

けれど、零花自身はいつもと変わらない。


落ち着いたまま、こちらへ歩み寄ってくる。


「ああ、えっと……」


軽く気を取り直して、陸の方へ視線を向ける。


「こいつ、陸。俺の友達」


「よろしくお願いします!」


陸は少しだけ背筋を伸ばし、いつもより丁寧な声で言った。


零花は小さく頷く。


「よろしく」


短い返事をして、視線が美咲へと移る。


「この前は、ありがとう」


穏やかな声で、そう言った。

その言葉に、美咲は少し驚いたように目を瞬かせる。


「全然いいですよ!むしろ楽しかったですし!」


いつもの調子で笑って返す。


自然なやり取り。

その光景を見ながら、俺は小さく息を吐いた。


――ちゃんと、来てくれた。

それだけのことなのに、どこかほっとした。


◇ ◇ ◇


強い日差しが、容赦なく砂浜を照りつけていた。

白く光る砂は熱を帯びていて、素足で踏むとじりじりとした感触が伝わってくる。


遠くからは波の音。

それに重なるように、はしゃぐ声や笑い声が絶え間なく響いていた。


――夏だ。

そんな当たり前のことを、嫌でも実感させられる。


すでに着替えを済ませた俺の隣で、陸が落ち着きなく周囲を見回していた。

視線は海というより、人の多い方へ向いている。


「いやー、来たな海!テンション上がるわ!」


さっきから何度も聞いてるその言葉に、俺は小さく息を吐いた。


「さっきからそれしか言ってねぇな」


「だってよ!夏だぞ!?海だぞ!?水着だぞ!?」


「最後のが本音だろ」


「当たり前だろ!」


……ほんと、ブレねぇなこいつは。


ため息をひとつ落としながら、俺は視線を海へ向ける。

青く広がる水面が、太陽の光を受けてきらきらと揺れていた。


「にしても、二人とも遅くね?」


腕を組んだ陸が、落ち着かない様子で言う。


「女子なんてそんなもんだろ」


「そっかー。でもよ、やっぱ期待するじゃん?」


「何をだよ」


わかりきった問いに、陸はニヤリと笑う。


「そりゃもちろん――」


「言うな」


被せ気味に止めると、陸は不満げに口を尖らせた。


「えー、いいじゃねぇかよー」


「はいはい、黙って待ってろ」


「つれねぇなぁ。お前も内心楽しみにしてんだろ?」


「……別に」


短く返したつもりだった。

けど、そのあとにほんの少しだけ空いた間が、自分でも気になった。


「その“間”がもうアウトなんだよ」


「うるせぇ」


そっけなく返して、視線を逸らす。

……楽しみじゃない、わけじゃない。


ただ――誰を思い浮かべてるのかなんて、考えたくなかった。

考えた瞬間、なんか、色々と面倒なことになりそうで。


波打ち際で遊んでる人たちを、ぼんやり眺める。


――その時。


「ほら、来たんじゃね?」


陸の声が弾んだ。


人混みの向こうから、見覚えのある影がひとつ、こちらに向かってくる。


――美咲だ。


明るい色の水着に身を包み、軽く手を振りながら駆け寄ってくる姿は、遠目からでもすぐにそれとわかった。


「お待たせー!」


弾んだ声が、夏の空気に溶ける。


「おっ、きたきた!」


隣で陸が大きく手を振り返す。

その様子に、美咲は少しだけ足を速めた。


「ごめんねー、ちょっと時間かかっちゃって」


「全然いいって!で――」


言いかけて、陸の視線が美咲の姿を上から下まで一瞬なぞる。

その動きがあまりにも露骨で、思わず呆れそうになる。


「……お、おぉ……」


「なにその反応?」


美咲が眉をひそめる。

けど、その頬は少しだけ緩んでいた。


「いや、普通に似合ってるなって思ってよ」


「でしょー?頑張って選んだんだから!」


くるっとその場で軽く回ってみせる。

太陽の光を受けて、水着の色が鮮やかに映えた。


「へぇー、いいじゃんいいじゃん」


「ちょっと、軽くない?」


「いや本音だって!」


「ほんとに~?」


軽口の応酬。

それだけで、場の空気が一気に明るくなる。


――やっぱり、こういうのはあいつの役目だな。


「ほら晴人も、なんか言いなよ」


不意に名前を呼ばれて、思考が引き戻される。


「え、あー……」


一瞬、言葉が出てこない。

視線だけが、つい美咲の方へ向く。


「なにその反応!」


「いや、その……似合ってると思う」


口に出してみると、思っていたよりもぎこちない。


「思う、じゃなくて?」


美咲がじっとこっちを見てくる。


逃げ場はないらしい。


「……似合ってる」


「よろしい!」


満足そうに頷く美咲に、陸がすかさず突っ込む。


「なんだその上から目線」


そのやり取りに、小さく息を吐く。

少しだけ、肩の力が抜けた気がした。


「……あれ、零花先輩は?」


陸が周囲を見回しながら言う。

言われてみれば、零花の姿が見当たらない。


「あ、今来ると思うよ。ちょっとだけ遅れて――」


美咲がそう言いかけた、その時だった。


「……お待たせ」


背後から、静かな声が届く。

振り向いた瞬間――


さっきまで耳に入っていた波の音も、周りのざわめきも、ほんの一瞬だけ遠くなった気がした。


白を基調にした、シンプルなワンピースタイプの水着。

その上に羽織った薄い布が、海風にふわりと揺れる。


陽の光を受けて、黒髪がやわらかくきらめいた。


――綺麗だ。


思考よりも先に、感覚がそう告げていた。


「……」


言葉が出てこない。

ただ、目の前の光景に意識を奪われる。


「どうしたの二人とも?」


美咲の声が、少し遠くから聞こえた気がした。

その一言で、ようやく現実に引き戻される。


「……いや」


慌てて視線を逸らす。

このまま見ていたら、何かがばれそうな気がした。


「……すごく、似合ってる」


どうにかそれだけを口にする。

自分でも驚くくらい、小さな声だった。


「……ありがとう」


零花は、ほんの少しだけ目を細めて、静かにそう答えた。

その表情が、なぜか強く印象に残る。


それだけのやり取りなのに――胸の奥が、わずかにざわついた。


「ちょっと!もっとちゃんとリアクションしなさいよ!」


美咲の声に、空気が少しだけ戻る。


「いやだって……なぁ?」


陸が苦笑しながらこっちを見る。


「……」


うまく言葉が出てこない。

視線を逸らしているはずなのに、どうしても意識が零花の方へ向いてしまう。


――なんなんだよ、これ。


自分でもよくわからない感覚を抱えたまま、

俺はただ、波の音に紛れるように小さく息を吐いた。


◇ ◇ ◇


「よっしゃ、行くぞー!」


陸が声を上げるなり、勢いよく海へと駆け出した。

そのまま迷いなく水の中へ飛び込む。


大きな水しぶきが上がった。


「ちょっ、いきなり!?」


美咲も慌てて後を追いかける。


「待ちなさいよー!」


バシャバシャと水を蹴りながら、二人はすぐに騒ぎ始めた。


……元気だな、ほんと。


その様子を少し離れたところから眺めながら、俺は軽く息を吐く。


水際まで来て、足先だけ海に入れる。

ひやりとした感触が一気に伝わってきた。


――冷たっ。

思わず顔をしかめる。


その隣に、ゆっくりと零花が並んだ。

波打ち際で足を止めて、水面を見つめている。


「……冷たい?」


ふと、そんな言葉が口をついて出た。


「ええ、少しだけ」


零花はそう答えて、そっと水に足を入れる。

波が寄せて、引いていく。


そのたびに、白い足元が揺れた。


「まぁ、すぐ慣れるだろ」


「そうかもしれないわね」


小さく頷いて、もう一歩だけ前に出る。

無理に踏み込むわけでもなく、かといって引くわけでもない。


その距離感が、なんとなく零花らしいと思った。


「おーい!何やってんだよ二人とも!早く来いよー!」


沖の方から陸が手を振っている。


「行くぞ、ほら」


軽く声をかけると、零花は一瞬だけこちらを見る。


「ええ」


それだけ言って、少しだけ足を速めた。

水に入ると、思っていた以上に冷たさが全身に広がる。


思わず肩をすくめると、隣で零花も小さく息を吐いた。


「……思ったより、冷たいわね」


「だろ」


少しだけ顔をしかめているのが、なんとなく新鮮だった。


――そんな表情もするんだな。


「ほらほら!」


次の瞬間、水しぶきが飛んできた。


「うわっ!?」


「隙ありー!」


美咲が楽しそうに笑いながら、水をかけてくる。


「お前な……!」


「ははっ、やり返せやり返せ!」


陸が横で煽る。

そのまま巻き込まれる形で、水の掛け合いが始まった。


バシャッ、と水をすくって投げる。

思ったよりも勢いよく飛んで、今度は美咲が悲鳴を上げた。


「ちょっと!?本気じゃん!」


「そっちが先だろ!」


そんなやり取りの中で、ふと視線が零花の方へ向く。

少しだけ離れた位置で、様子を見ながら控えめに水に触れている。


完全に輪に入れていないわけじゃない。

でも、どこか一歩引いたままの距離。


――まぁ、いきなりは無理か。


そう思った、その時だった。


少し大きめの波が、足元をすくうように押し寄せる。


「っ――」


バランスを崩しかけた零花の体が、わずかに揺れた。

反射的に、手を伸ばす。


「危ね」


軽く腕を支える形になった。


「……ありがとう」


すぐに体勢を立て直した零花が、小さくそう言う。


「ああ」


それだけ返して、手を離す。

ほんの一瞬のことだったのに、妙に意識に残った。


「おーい!イチャついてんじゃねーぞー!」


「してねぇよ!」


陸の声に即座に返すと、美咲がくすくすと笑う。


「はいはい、続きやるよー!」


再び水をかけられて、今度は完全に巻き込まれた。

バシャバシャと騒ぎながら、気づけば俺も普通に笑っていた。


……こういうのも、悪くない。

その中で、ふとまた視線がそっちに向く。


零花はさっきよりも少しだけ近い位置にいて、波に合わせて静かに水を掬っていた。


ほんの少しだけ、楽しそうに見えた。

――気のせいかもしれないけど。


それでも、なんとなく。

それだけで、十分な気がした。


◇ ◇ ◇


「はぁー……疲れたー……」


砂浜に戻るなり、陸が力を抜いたようにその場に倒れ込んだ。

熱を持った砂に背中を預けて、大きく息を吐く。


「はしゃぎすぎなんだよ」


呆れながらも、俺もその隣に腰を下ろす。

濡れた体に当たる風が、じんわりと熱を奪っていく。

さっきまでの騒がしさが、少しずつ遠ざかっていくようだった。


「でも、楽しかったでしょ?」


美咲がタオルで髪を拭きながら、どこか得意げに言う。

濡れた髪が光を受けて、きらりと揺れた。


「まぁな」


短く返すと、美咲は満足そうに笑う。


「でしょー?」


そのやり取りの横で、零花も静かに腰を下ろす。


濡れた黒髪が肩に張り付いていて、いつもより少しだけ輪郭がはっきりして見えた。


水滴が頬を伝って落ちる。

その様子に、ほんの一瞬だけ目が止まる。


「……大丈夫か?」


気づけば、声に出していた。

自分でも、少しだけ驚く。


「ええ、大丈夫よ。少し、疲れただけ」


零花は呼吸を整えながら、静かに答える。


その声音は落ち着いているけど、ほんのわずかに息が上がっているのがわかった。


「そりゃあんだけ動けばなー!」


陸が笑いながら言う。

さっきまでの疲れなんて感じさせない声だった。


「零花先輩、体力はない方っすか?」


「……否定はしないわ」


少しだけ間を置いて、零花が答える。

そのあと、ほんのわずかに口元が緩んだ。


「でもさ、こういうのもいいよね!皆で海来て、騒いでさ」


美咲が空を見上げる。

その言葉に、つられるように視線を上げる。


どこまでも広がる青空。

ゆっくり流れる雲。

遠くで光る海面。


さっきまであれだけ動いていたのに、今はただ、時間がゆっくり流れているように感じた。


「まぁ、悪くないな」


ぽつりと呟く。

自分でも、思っていたより素直な言葉だった。


「……ええ」


すぐ隣から、小さな声が返ってくる。

零花も同じように、海の方を見ていた。


その横顔は――さっきよりも、少しだけ柔らかく見えた。


「よし、飯でも買ってくるか!」


陸が勢いよく立ち上がる。

砂がぱらぱらと落ちた。


「あっ、なら私も行く~!」


美咲もすぐにそれに続いて立ち上がる。

さっきまでの疲れなんて感じさせない動きだった。


「なら俺も――」


「晴人は先輩と一緒に休んでて!」


反射的に腰を浮かせかけたところで、美咲がくるりと振り返って俺を静止させる。


「でも、いいのか?」


「いいのいいの!」


美咲は軽く手を振る。

深く考えている様子はまったくない。


「晴人、お前は先輩をナンパの魔の手から守る任務があるんだ!」


「任務ってなんだよ」


思わず眉をひそめる。

けど、陸は楽しそうに笑ったままだった。


「じゃ、頼んだぜ~!」


「ちょ、待てって――」


呼び止める間もなく、二人は人混みの中へと紛れていった。

色とりどりの人影に溶けるように、その姿が見えなくなる。


――残されたのは。


俺と、零花だけ。


「……」


不意に、周囲の音が少しだけ遠くなる。

波の音も、笑い声も、さっきよりも一段落ち着いた気がした。


さっきまでの賑やかさが、嘘みたいに引いていく。

隣を見ると零花は変わらず、静かに海の方を見ていた。


風に揺れる羽織が、ゆるやかに動く。

その横顔に、意識が引き寄せられる。


――二人きり、か。


少しだけ、落ち着かない。

けど、不思議と、このままでもいいと思っている自分がいた。


しばらくの間、何も言葉はなかった。

波の音だけが、静かに繰り返される。


……こういうの、嫌いじゃない。


「……静かね」


「あいつらが騒ぎすぎなんだよ」


「ふふ……そうかもしれないわね」


小さく笑う声が、風に溶ける。


少しだけ、間が空く。

無理に言葉を探す必要もないような、そんな時間だった。


「……こういうの、あまり慣れていなくて」


「海?」


「ええ。それもあるけれど…」


わずかに言葉を区切る。

そして、ほんの少しだけ視線がこちらに向く。


「誰かと、こうして過ごすこと自体が」


「……」


少しだけ、言葉に詰まる。

そんなふうに思っていたなんて、少し意外で。


でも――どこか納得もしてしまう。


「まぁ……あいつらがちょっと騒がしいだけで、普段はもう少し落ち着いてるぞ」


我ながら、的外れな返しだと思う。

けど零花は、わずかに目を細めた。


「そうね…でも、悪くないわ」


その声は、思っていたよりも柔らかかった。

風が吹き、羽織が揺れて、白い布がふわりと広がる。


「……私にとって」


「ん?」


「こういう時間は、もっと“遠いもの”だと思っていたの」


零花が、海へ視線を向けたまま静かに言葉を紡ぐ。

その言葉はどこか、最初から手の届かないものに触れているようにも聞こえた。


「…そうなのか?」


「ええ」


それ以上は、何も言わなかった。

俺も、何も聞かなかった。


波が寄せて、引いていく。

その繰り返しを、ただ眺めていた。


――不思議と、落ち着く。

何も特別なことをしているわけじゃないのに。


ただ、こうして隣にいるだけで。

それで、十分な気がした。


◇ ◇ ◇


その後も、陸と美咲の勢いに引っ張られるまま、俺達は海を満喫した。


波に突っ込まされて、砂浜を走らされて、気づけば何度も笑っていた気がする。


そして――帰りの電車。

窓の外は、もう夕焼けに染まり始めていた。


オレンジ色の光が車内に差し込んで、どこか現実感の薄い、柔らかい空気を作っている。


「……すぅ」


「……ん」


向かいの席では、陸と美咲が揃って寝落ちしていた。

さっきまであれだけ騒いでいたのが嘘みたいに、静かに呼吸を繰り返している。


肩が少しぶつかっているのに、それすら気にしていない。


まぁ、あれだけはしゃげば無理もないか。


隣にいる零花は窓の外を静かに眺めていた。

夕焼けの光が横顔を照らして、その輪郭をやわらかく浮かび上がらせている。


「……今日はどうだった?楽しめたか?」


「……ええ、思ったよりも楽しかったわ」


振り向かずに、零花は答えた。

その声音は、昼間よりもずっと落ち着いている。


「……そっか」


それだけで、十分だった。

窓の外を流れていく景色を、ぼんやりと目で追う。


見慣れない海辺の町が、少しずつ遠ざかっていく。

さっきまでそこにいたはずなのに、もう手の届かない場所みたいに感じた。


「……ね、晴人君」


不意に、零花がこちらを見る。


「なんだ?」


「今日みたいな日って――」


言いかけて、ほんの少しだけ言葉を止める。

まるで、続きを選んでいるみたいに。


「ちゃんとここにあるのに、どこか遠く感じるの」


夕焼けの光の中で、その言葉だけが少しだけ輪郭を持つ。


「……そんなもんじゃないのか?」


うまく言葉にできなくて、曖昧に返す。

けど零花は、小さく首を横に振った。


「いいえ…きっと、私の方の問題ね」


「……?」


意味がよくわからず、眉をひそめる。

けど零花は、それ以上は何も言わなかった。


代わりに、もう一度窓の外へ視線を戻す。

沈みかけた太陽が、ゆっくりと景色の端へ消えていく。


「……こんなふうに過ごせるなんて、思っていなかったわ」


「……」


「……少しだけ、欲張りになってしまいそう」


その言葉は、風に紛れるくらいの声だった。

けど――なぜか、はっきりと耳に残る。


「欲張り?」


「ええ…もう少しだけ、このままでいたいって」


――その一言に。

なぜか、胸の奥が少しだけざわついた。


理由は、よくわからない。


「……まぁ、また来ればいいだろ」


とりあえず、そう返す。

深く考えないようにするみたいに。


「……そうね」


零花は、一瞬だけこちらを見て、小さく頷いた。

けれどその微笑みは、ほんのわずかに――どこか寂しげに見えた気がした。


電車は、変わらないリズムで走り続ける。

夕焼けは、ゆっくりと夜へと変わっていく。


あの時間は、確かにここにあったはずなのに――

夕焼けの向こうに、静かに溶けていくような気がした。

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