第5話「近づいたはずの距離」
登場人物
水無月 晴人
高校1年生。本作の主人公。どこにでもいる普通の高校生。
ある雨の日、かつての幼馴染・零花と再会する。
久しぶりの再会に戸惑いながらも、少しずつ彼女との距離を取り戻していく。
霧咲 零花
高校2年生。晴人の幼馴染。長い時を経て、再び彼の前に現れる。
落ち着いた雰囲気と大人びた美しさを持つ少女。
どこか謎めいた言動を見せることもあり、その内面は容易には掴めない。
高瀬 陸
晴人のクラスメイトで、中学からの腐れ縁。
明るくノリの良い性格で、遠慮なく距離を詰めてくるタイプ。
軽口を叩くことも多いが、いざという時には頼りになる存在。
桜井 美咲
晴人と陸のクラスメイトで、中学からの腐れ縁。
明るく人懐っこい性格で、誰とでもすぐに打ち解ける。
場の空気を和ませる一方で、ふとした瞬間に核心を突くこともある。
あれから、数日が経ち、七月に入った。
止みそうにないと思っていた雨は、いつの間にかその勢いを弱めていて、
代わりに、じわりとした暑さが肌にまとわりつくようになっていた。
空は高くなり、雲の切れ間から差し込む日差しは、どこか強さを増している。
梅雨が終わるのも、きっともうすぐだ。
あの日――屋上へ続く扉の手前で、言葉を交わしてから。
俺と零花の距離は、少しだけ変わった。
劇的に、というわけじゃない。
何かが大きく動いたわけでもない。
けれど廊下ですれ違えば、軽く視線を交わすようになった。
「おはよう」とか、「じゃあな」とか。
そんな短い言葉を、ほんの一言だけ交わすこともある。
前だったら、それすらなかったのに。
放課後だってそうだ。
毎日一緒に帰るわけじゃない。
むしろ、会えない日の方が多いくらいだ。
けど、昇降口や校門で偶然会えば――どちらからともなく、足を止める。
「帰りか?」
「ええ」
それだけのやり取りで、気づけば並んで歩いている。
特別な約束なんてない。
でも、完全な偶然でもない。
そんな曖昧な距離が、今の俺達だった。
◇ ◇ ◇
昼休み。
弁当を食べ終えて、机に頬杖をつきながらぼんやりと窓の外を眺める。
強くなり始めた日差しが、校庭の端を白く照らしていた。
――なんとなく、暑い。
そんなことを考えていると、不意に背中を軽く叩かれた。
「よぉ、何ボーっとしてんだよ」
振り向くと、そこには見慣れた顔。
高瀬 陸が、にやりと口元を歪めて立っている。
その隣では、美咲が興味津々といった様子でこちらを覗き込んでいた。
「別に…」
「いやいや、別にじゃねぇだろ」
陸はそのまま俺の机に片手をつき、ぐっと顔を近づけてくる。
逃げ場を塞ぐような距離感に、嫌な予感が胸をよぎった。
「なぁ晴人」
「…なんだよ、改まって」
嫌な予感しかしない。
わざとらしく声を潜める陸に、思わず眉をひそめる。
「お前、零花先輩とどういう仲なんだ?」
「…は?」
間の抜けた声が漏れる。
その反応を見て、美咲がぱっと表情を明るくした。
「校内でちょっと話題になってるよ?零花先輩がうちのクラスの男子と一緒に帰ってるってさー」
「で、聞いて回ってたらその男子がお前だってわかったんだよ」
陸は口元を歪めて、くつくつと笑う。
「もう広まってんのか…」
思っていた以上に話が早い。
小さくため息をつくと、美咲がぐいっと身を乗り出してきた。
「ねぇねぇ!いつからそんな間柄になったの?」
距離が近い。近すぎる。
俺は思わず視線を逸らした。
「いつからって…」
言葉を探しながら、少しだけ考え込む。
――いつからだ?
改めて問われると、はっきりとした境界が思い浮かばない。
「俺と零花はその、小学校の時の幼馴染っていうか」
口に出した瞬間、ほんのわずかに引っかかる。
間違ってはいないはずなのに。
どこか、言葉だけが先に出たような感覚。
「えっ、そんなの初耳なんだけど!?」
美咲は目を丸くして、驚いたように声を上げる。
「そりゃあ話してなかったからな」
「なんだよ水くせぇなぁ。そうなら早く言ってくれよな~」
陸は軽く笑いながら、俺の肩を小突いた。
「幼馴染ポジは強いわよね~」
美咲は腕を組みながら、どこか楽しそうにうんうんと頷いている。
「強いって、そんなんじゃ…」
曖昧に言葉を濁す。
自分でも、どういう関係なのかうまく言えない。
「だって、あの先輩って近寄りがたいじゃない?」
少し声を落として、美咲が言う。
「そうか?こないだクラスメイトと話してたぞ?」
「女子とはそれなりにね」
「そうそう、大半の男どもなんて遠巻きに眺めるくらいだぞ?」
陸は視線を外しながら、軽く鼻で笑う。
「そんなもんなんか」
そう返しながらも、胸の奥に小さな違和感が残る。
――確かに。
俺は、どうしてあんな風に普通に話せているんだろう。
「で?実際どうなのよ!」
美咲がぐっと顔を近づけてくる。
逃げ場を失って、思わず椅子を少し引いた。
「どうって…」
「実は毎日スマホでやりとりしてたりすんのか?」
その一言で、思考が止まる。
「……あ」
陸が目を細めてこちらを見ている。
美咲は「え?」と声を漏らし、次の言葉を待っている。
――違う。
そうじゃない。
それ以前の問題だ。
「え、まさか」
「連絡先交換してないの!?幼馴染なのに!?」
美咲が半ば呆れたように声を上げる。
「いや、その…」
言葉が続かない。
「それはさすがにどうなのよ~」
「むしろ今までどうやってたんだよ」
陸は頭の後ろで手を組みながら、天井を仰ぐように視線を上げた。
「いや、別に…会えば話すし」
「それ“偶然頼り”ってやつじゃねぇか」
「それでよく今まで成立してたね…」
美咲は目を丸くしたまま、感心したように息をついた。
「……」
何も言い返せない。
――偶然、会って。
――たまたま、一緒に帰って。
それだけで、今まで何も疑問に思わなかった。
……いや。
本当に、そうだったか?
――俺は、零花の連絡先、知らない。
今さらのはずなのに、なぜか、妙に気になった。
◇ ◇ ◇
午後の授業は、いつもより少しだけ長く感じられた。
ノートに視線を落としながらも、頭のどこかで別のことを考えている。
――連絡先。
ただそれだけのことのはずなのに、妙に引っかかって離れなかった。
放課後になると、教室がざわめき始める。
椅子を引く音や、鞄をまとめる音が重なり合う中で、俺はゆっくりと立ち上がった。
……どうする。
自分から聞くべきか。
いや、そもそも――そんなことを考えながら、気づけば昇降口まで来ていた。
靴を履き替えようとして、ふと手を止める。
視界の端に、見覚えのある後ろ姿が映った。
「……零花」
小さく名前を呼ぶ。
その声に反応するように、彼女がゆっくりと振り返った。
「……晴人君」
いつもと変わらない、落ち着いた声。
けれど、ほんの一瞬だけ、驚いたように目が揺れた気がした。
気のせいかもしれない。
……どうする。
ここで、言うか。
少しだけ迷ってから、口を開く。
「よかったらさ。一緒に帰らないか」
「……ええ。いいわよ」
その返事を聞いた瞬間、胸の奥にあった小さな引っかかりが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
靴を履き替え、並んで昇降口を出る。
どちらからともなく、足並みが揃う。
夕方の空はまだ明るく、昼間の熱を残した空気が、ゆるやかに流れていた。
アスファルトから立ち上る熱気と、時折吹き抜ける風。
その合間に、どこか湿った匂いが混ざっている。
しばらく、言葉はなかった。
気まずいわけじゃない。
むしろ、この沈黙は嫌いじゃない。
隣を歩く零花の気配を感じながら、俺は言い出すタイミングを探していた。
「……今日さ、友達から色々言われてさ」
意識しないようにしていた言葉が、自然と口をついて出る。
零花は歩調を崩さないまま、わずかに視線だけをこちらへ向けた。
「何を?」
短く、落ち着いた声。
「その…俺達のこと」
言いながら、少しだけ視線を前へ逃がす。
「一緒に帰ってるって話、もう広まってるみたいでさ」
「そう」
それだけ。
余計な感情を乗せることもなく、ただ事実を受け取るような響きだった。
「で、聞かれたんだよ。どういう関係なんだって」
ほんの少し間を置いて、続ける。
零花の足が、ほんのわずかに緩んだ気がした。
「…それで?」
「いや、うまく答えられなくてさ」
我ながら苦笑が漏れる。
「幼馴染って言えばそれまでなんだけど、それだけじゃない気もするし…」
口に出しながら、自分でも曖昧だと思う。
その言葉に、しっくりくる感覚がない。
零花はすぐには答えなかった。
風が、二人の間をすり抜けていく。
足音だけが、一定のリズムで重なっていく。
「私は…どうしたいのかしらね」
不意に落ちてきた言葉に、思わず足が止まりかける。
「えっ?」
零花は少しだけ俯いた。
その横顔は、どこか考え込むようにも見える。
「…時折、晴人君に対する自分の気持ちがわからなくなるのよ」
静かな声。
けれど、その言葉は、思った以上に重く残った。
一度、言葉が途切れる。
そのまま終わるかと思った、その時。
零花はわずかに首を傾けた。
「“今の私”が、どう感じているのか」
――今の私。
その一言が、胸の奥に引っかかった。
「……どういう意味だよ、それ」
零花は一瞬だけこちらを見る。
けれど、その視線はすぐに前へと戻された。
「いいえ、気にしないで」
それ以上は、何も続かなかった。
風が吹き抜ける。
さっきよりも少しだけ強い風が、髪を揺らした。
――なんだ、それ。
言葉の意味を考えようとしても、うまく形にならない。
「……まぁ、いいか」
そう思うことにした。
小さく息を吐いて、無理矢理思考を切り替える。
これ以上考えても、答えが出る気がしなかった。
それに――俺は、もっと聞かなければならないことがあった。
「そういやさ」
さっきまでの空気を少しだけ切り替えるように、声をかける。
隣を歩く零花は、わずかに視線だけをこちらへ向けた。
「なにかしら」
「俺ら、連絡先知らなくね?」
零花は、一瞬だけきょとんとした表情を浮かべた。
ほんのわずかな、空白。
それから、ゆっくりと頷く。
「…そうね。確かに交換してなかったわ」
その言い方は、どこか確認するようでもあり、思い出したようでもあった。
「だよな。幼馴染なのに、そこ抜けてるのどうなんだって話だよな」
軽口のつもりで言ったはずなのに、どこか照れくさい。
「ふふっ、そうね」
小さく笑う。
その仕草は、記憶の中の零花と重なる気がした。
けれど――どこか、わずかに違うような。
「不思議ね。昔は、そんなものなくても困らなかったのに」
遠くを見るような声音。
過去をなぞるようでいて、どこか実感が薄い。
その言葉に、うまく返せずにいると、零花はほんの少しだけ間を置いた。
「……それで、どうすればいいのかしら」
その問いは、あまりにも自然で。
それでいて、どこか場違いにも感じられた。
「え?」
「その…こういうのは、あまりやったことがなくて」
「マジで?」
思わず声が上ずる。
今どき、連絡先交換をしたことがないなんて。
零花は、小さく頷いた。
「特に必要性を感じなかったから…」
さらりと言われたその一言に、なぜか、うまく言葉が返せなかった。
必要性がなかった。
そう言われれば、それまでだ。
けれど、まるでその“必要”という感覚自体が、
自分達とは違う基準で測られているような。
「…じゃあ、これ」
気を取り直すように、スマホを取り出す。
画面を操作しながら、簡単に説明する。
「このコード読み取るか、ID入れれば出てくるから」
零花は、静かに画面を覗き込む。
その距離が、思ったより近いことに気づく。
ふわりと、甘い香りがした。
どこか懐かしくて――けれど、はっきりとは思い出せない。
「なるほど」
小さく呟きながら、画面に指を滑らせる。
その動きは、ぎこちないわけじゃない。
むしろ正確で、無駄がない。
……なのに。どこか、“慣れていない”ようにも見えた。
「……これで、いいのかしら」
「お、来た」
通知音が鳴る。
画面に表示された名前。
“霧咲 零花”
当たり前のはずの文字列なのに、なぜか、ほんの少しだけ現実感が薄かった。
◇ ◇ ◇
家に帰ると、外の熱気が嘘みたいに引いていった。
玄関の扉を閉めた瞬間、ふっと現実に戻されたような感覚になる。
靴を脱ぎ、部屋へと上がる。
いつもと変わらないはずの光景。
けれど、今日はどこか落ち着かない。
「……はぁ」
ベッドに腰を下ろし、軽く息を吐く。
ポケットからスマホを取り出す。
画面には、さっき追加されたばかりの名前。
“霧咲 零花”
指先が、ほんの少しだけ止まる。
……連絡先、交換したんだよな。
当たり前のことのはずなのに、妙に実感が薄い。
昼休みのやり取りを思い出す。
からかわれて、焦って、誤魔化して。
その流れのまま、こうして繋がった。
それだけのはずなのに――
「……送るか」
小さく呟いて、トーク画面を開く。
何を送るか、一瞬だけ迷う。
こういう時、なんて送るのが正解なんだ。
少し考えてから、無難な一文を打ち込む。
『今日はありがとな』
送信ボタンを押す。
既読は、すぐにはつかなかった。
当然だ。家に着いたばかりかもしれないし、手が離せないのかもしれない。
スマホをベッドの上に置き、軽く体を倒す。
ほっと、胸をなでおろす。
……なんだよ、これ。
どうしてこんなに安心してるんだ。
零花と繋がれたからか?
いや、そりゃ嬉しいけど。
なんていうか、一度離れていた距離が、少しだけ縮まったような気がした。
……そんなはず、ないのに。
自分でも、うまく説明できない。
気づけば、時計の針は一時間近く進んでいた。
ふと、スマホに視線を向けるとアプリの通知が来ていた。
差出人――霧咲 零花。
体を起こし、すぐに画面を開く。
『ごめんなさい、気が付かなかったわ』
その一文に、少しだけ肩の力が抜ける。
……まぁ、慣れてないって言ってたし、仕方ないよな。
『全然いいよ』
送信すると、少しして、既読がつく。
『ええ』
それだけだった。
画面を見つめたまま、指が止まる。
……何か、返した方がいいのか?
少し考えて、言葉を打ちかけて――やめた。
これ以上続けるような流れでもない気がした。
部屋の静けさが、やけに際立っていた。
……なんなんだよ。
小さく呟く。
ふと、あの言葉が頭をよぎる。
――“今の私”が、どう感じているのか。
「……今の俺が、どう感じているのか、か」
ぽつりと、呟く。
考えようとして、やめる。
うまく言葉にできる気がしなかった。
その違和感は、小さなまま、胸の奥に残り続けていた。




