第2話「少し遠い、幼馴染との距離」
登場人物
水無月 晴人
高校1年生。本作の主人公。どこにでもいる普通の高校生。
ある雨の日、かつての幼馴染・零花と再会する。
久しぶりの再会に戸惑いながらも、少しずつ彼女との距離を取り戻していく。
霧咲 零花
高校2年生。晴人の幼馴染。長い時を経て、再び彼の前に現れる。
落ち着いた雰囲気と大人びた美しさを持つ少女。
どこか謎めいた言動を見せることもあり、その内面は容易には掴めない。
高瀬 陸
晴人のクラスメイトで、中学からの腐れ縁。
明るくノリの良い性格で、遠慮なく距離を詰めてくるタイプ。
軽口を叩くことも多いが、いざという時には頼りになる存在。
桜井 美咲
晴人と陸のクラスメイトで、中学からの腐れ縁。
明るく人懐っこい性格で、誰とでもすぐに打ち解ける。
場の空気を和ませる一方で、ふとした瞬間に核心を突くこともある。
翌朝。
昨日まで降り続いていた雨が嘘のように、空は澄み渡っていた。
雲ひとつない青が広がり、朝の光が街をやわらかく照らしている。
濡れていたアスファルトもすっかり乾いていて、通学路には、いつもと変わらない日常が戻っていた。
けれど、俺の中だけが、どこか落ち着かないままだった。
原因は、考えるまでもない。
霧咲零花。
小学三年のとき、転校していった幼馴染。
その名前を、昨日から何度も頭の中で繰り返している。
本当に、本人だったのか。
あの再会は、ただの偶然だったのか。
雨に煙る紫陽花の前で、俺の名前を呼んだあの声。
傘越しに見た、あの横顔。
思い返せば思い返すほど、現実だったはずの出来事が、どこか輪郭を失っていく。
夢でも見ていたんじゃないか――そんな考えが、何度も頭をよぎった。
……いや。
雨の匂いも、濡れた空気の重さも、はっきりと覚えている。
あれが現実じゃないはずがない。
それでもどこか現実味がなくて、胸の奥に小さな違和感だけが残り続けていた。
そんな曖昧な感覚を抱えたまま、俺はいつもの通学路を歩く。
見慣れているはずの景色が、ほんの少しだけ遠く感じた。
昨日と同じ場所を通っているはずなのに、何かがずれている気がする。
やがて、校門が見えてくる。
登校してくる生徒達のざわめき。
交わされる挨拶や笑い声が、朝の空気に溶けていく。
その中で、ひときわ目を引く姿があった。
長い黒髪が、朝の光を受けて静かに揺れている。
整った横顔と、どこか他人を寄せつけないような空気。
昨日、紫陽花の前で見た姿と、同じ。
俺の足が、わずかに止まった。
胸の奥が、ひとつ小さく波打つ。
視線が自然と引き寄せられる。
向こうもこちらに気づいたのか、ふと顔を上げた。
その目が、まっすぐに俺を捉える。
一瞬だけ、空気が止まったような気がした。
「おはよう、晴人君」
あまりにも自然な声音だった。
昨日の再会が、まるで特別な出来事ではなかったかのように。
「あ……ああ、おはよう」
わずかに返事が遅れる。
自分でもわかるくらい、ぎこちない声だった。
そんな俺の様子を見てか、零花はほんの少しだけ目を細める。
「まだ夢心地って感じね」
からかうようでもなく、ただ事実を述べるような口調。
「いや、そんなんじゃ……」
反射的に否定しかけて、言葉が詰まる。
「ただ……本当に零花がいるって思って」
口に出してから、妙に照れくさくなった。
けれど、零花は特に気にした様子もなく、わずかに視線を逸らす。
そのときだった。
「れーいか!おはよー!」
明るい声が、横から割って入る。
振り向くと、同じ制服を着た女生徒が数人、こちらへ駆け寄ってきていた。
「おはよう」
零花はごく自然に、そちらへ向き直る。
さっきまで俺に向けていた視線は、もうそこにはなかった。
「一緒に行こ!」
「ええ、いいわよ」
短く答えると、零花は一歩、俺から距離を取る。
「それじゃ、晴人君」
「えっ、あ、うん……」
零花のあっさりとした声音に、間の抜けた返事が口をつく。
気づけば、零花はもう友人達の中に溶け込んでいた。
楽しげに言葉を交わしながら、そのまま校舎の方へ歩いていく。
その背中を、しばらくの間、ただ見送ることしかできなかった。
昨日、確かに再会したはずなのに。
こうして見ると、まるで別の世界の人みたいだった。
その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けずにいた。
ついさっきまで、確かに目の前にいたはずなのに。
零花の姿は人の流れに溶けて、もう見えなくなっていた。
朝のざわめきだけが、変わらずそこにある。
笑い声や、挨拶を交わす声。
当たり前の光景が広がっているのに、
自分だけがそこから少し外れてしまったような、そんな感覚が残っていた。
――そのとき。
ドン、と背中に衝撃が走る。
「よっ!なーに突っ立ってんだぁ晴人!」
聞き慣れた声に振り向くと、高瀬陸がいつもの調子で立っていた。
その隣には、柔らかい笑みを浮かべた桜井美咲。
二人共、中学校からの付き合いで、言わば悪友だ。
「おはよう、晴人!」
「…陸、それに美咲」
名前を呼んだ瞬間、少しだけ肩の力が抜ける。
さっきまでの妙な感覚が、現実に引き戻されていくようだった。
「どうしたんだよ。心ここにあらずって顔してるぞ?」
「晴人って朝弱いもんねー」
「……」
言い返す気力もなく、視線を少しだけ逸らす。
いつもなら適当に返せるはずなのに、うまく言葉が出てこない。
「おいおい、俺の気合注入が足りなかったか~?」
もう一度背中を叩こうとする陸の手を、軽く避ける。
そのまま、少しだけ間を置いてから口を開いた。
「…なぁ、陸」
「ん?」
「お前、霧咲零花って生徒、知ってるか?」
自分でもわかるくらい、少しだけ声が低くなっていた。
陸と美咲の表情が、ほんのわずかに変わる。
「零花先輩か?そりゃ当然知ってるだろ」
即答だった。
「零花先輩、美人で有名だよ?」
美咲も当然のように頷く。
その言葉に、胸の奥がわずかにざわつく。
――やっぱり、そういう存在なんだな。
「俺…今まで知らなかったんだけど」
ぽつりとこぼすと、美咲が少し呆れたように肩をすくめた。
「それは、晴人が関心なさすぎるからだよ」
「そうそう。あん時だって、二年に超美人の先輩がいるから見に行こうぜって誘ったのに、お前断ったじゃねーか」
「あー…そうだったかな」
曖昧に返しながら、記憶を探る。
言われてみれば、そんなこともあった気がする。
けれど、そのときは本当にどうでもよかったんだろう。
――今とは違って。
「零花先輩、落ち着いてて大人びてて、ミステリアスっていうの?憧れちゃうな~」
美咲が少しだけ遠くを見るような目で言う。
「美咲じゃなれねーよ」
「失礼ね!そんなのわかんないでしょ!」
すぐさま言い返す美咲に、陸が肩をすくめて笑う。
軽口の応酬。
いつもの、変わらないやり取り。
“ミステリアス”。
その言葉が、妙に引っかかった。
俺の中にある零花の記憶とは、違う気がしたからだ。
「で、その零花先輩がどうしたんだよ」
陸が、少しだけ興味ありげに身を乗り出す。
その言葉に、すぐには答えられなかった。
頭の中に浮かぶのは、さっきの光景。
何事もなかったかのように、あっさりと離れていった背中。
昨日の再会が嘘みたいに、自然すぎる距離感。
あれが、本当に同じ零花なのか。
「……いや、なんでもない」
結局、そう言うしかなかった。
言葉にした瞬間、自分でも逃げたのがわかる。
陸と美咲が顔を見合わせる。
「なんだよそれ、気になるだろ」
「ねー、ちゃんと話しなよ」
軽口を叩かれながら、三人で校舎へ向かって歩き出す。
足音が重なり、会話が重なり、いつもの朝が戻っていた。
◇ ◇ ◇
昼休みの校内はやけに騒がしくて、あちこちから笑い声が聞こえてくる。
購買でパンを買って、俺は廊下を歩いていた。
教室に戻るか、それともどこかで食べるか。
そんなことをぼんやり考えながら、ふと窓の外に目をやった。
「……あれは」
中庭のベンチに、一人で座っている姿が見えた。
風に揺れる黒髪。
周りの喧騒から切り離されたみたいに、静かにそこにいる。
「零花……?」
思わず名前が口から漏れた。
昨日、雨の中で再会して、今朝も少し話して。
それだけのはずなのに――なんでか、目が離せなかった。
……どうする。声をかけるか?
いや、別に約束したわけでもないし、無視してもいいはずだ。
でも。
(……なんだろうな)
気づいたら、俺は階段を下りていた。
中庭に出ると、さっきまで聞こえていた騒ぎが少し遠くなる。
同じ昼休みなのに、ここだけ時間がゆっくり流れてるみたいだった。
零花はベンチに座ったまま、どこか遠くを見ていた。
膝の上には、小さな包み。
……昼飯、か?
けど、それを食べている様子はなかった。
少しだけ立ち止まる。
声をかけるかどうか、迷う。
朝も会ったばっかりだしな。
……でも。
「……隣、いいか?」
気づけば、そう言っていた。
零花がゆっくりとこっちを見る。
「晴人君…ええ、いいわよ」
相変わらず落ち着いた声だ。
俺は軽く息を吐いて、隣に腰を下ろした。
手に持っていたパンの袋が、かさりと音を立てる。
「昼飯、食べないのか?」
なんとなく、そんなことを聞いてみる。
「……もう済ませたわ」
「早くない?」
「……昔から、あまり食べないの」
ちらりと、膝の上の包みへ目をやる。
だがそれは、ほとんど手が付けられていないように見えた。
「そうだっけ?」
「そうだったのよ」
ほんのわずかに間が空く。
「……私は」
その言葉だけが、どこか少しだけ浮いて聞こえた。
風が吹き抜け、零花の髪が、ふわりと揺れる。
「休み時間、いつも一人なのか?」
ふと、そんな疑問が口をついて出た。
「……ええ」
「友達と過ごしたりしないのか?」
「友達……ね」
その言葉を、零花は小さく繰り返す。
「ほら、朝一緒にいたやつらとか」
「彼女達は、クラスメイトよ」
「……それって、違うのか?」
「どうかしら」
零花は少しだけ首を傾ける。
その仕草は自然なのに、どこか違和感が残る。
「零花、もしかして友達いないのか?」
「……わからないわ」
半分冗談のつもりだったが、零花は否定しなかった。
「どういう関係が“友達”なのかしらね」
「前は、わかっていたはずなのだけれど」
「えっ?」
思わず聞き返す。
その言い方に、わずかな引っかかりを覚えた。
「晴人君は、わかる?」
「えっ?…うーん」
急に聞き返されて、思考が止まる。
友達、か。
改めて聞かれると、意外と説明できない。
「クラスでよく話したり、とか?」
曖昧なまま答えると、零花は小さく頷いた。
「なら、彼女達は“友達”と呼べるわね」
そう言って、また前を向く。
風が吹いて、黒髪が揺れた。
俺もつられて、視線を前に戻す。
……まぁ、そういうもんか。
なんとなく納得したような、してないようなまま、それ以上は考えなかった。
しばらく、言葉は続かなかった。
中庭を抜ける風の音と、遠くから聞こえてくる昼休みのざわめき。
同じ学校の中にいるはずなのに、ここだけ少しだけ切り離されているような、そんな感覚があった。
隣にいる零花は、相変わらずどこか遠くを見ている。
……何を考えているのかは、よくわからない。
けど、不思議とその沈黙は嫌じゃなかった。
――そのとき。
「……ねえ、晴人君」
「ん?」
零花が、ゆっくりとこちらを見た。
その視線は、まっすぐで。
けれどどこか、“俺を見ている”というより、“俺を通して何かを確かめている”ように見えた。
「私、ちゃんとここにいるように見える?」
「……は?」
思わず、間の抜けた声が出る。
何を言っているのか、一瞬わからなかった。
「いや、いるだろ。目の前に」
そう答えると、零花はほんのわずかに目を細めた。
「……そう」
それだけ言って、また前を向く。
ほんのわずかに、安堵したようにも見えた。
――今の、なんだったんだ?
言葉の意味を考えようとしても、うまく掴めない。
「……私、そろそろ戻るわ」
ぽつりと、零花が言う。
その声で、ふっと時間が動き出した気がした。
零花はゆっくりと立ち上がる。
スカートの裾がわずかに揺れて、足音はほとんどしなかった。
「あ、悪い。邪魔だったか?」
思わず口をついて出る。
別に、追い払われたわけでもないのに。
なんとなく、そんなことを聞いてしまった。
「そんなことないわ」
振り返ることもなく、短く返される。
それだけなのに、どこか安心している自分がいる。
そのまま歩き出すのかと思った、そのとき。
「……晴人君」
「ん?」
振り返った零花の表情は、いつもと変わらないはずなのに――
ほんのわずかに、何かを確かめるような間があった。
「今日の放課後、空いているかしら?」
「えっ?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
放課後?なんで、急に。
頭の中で言葉を反芻して、ようやく意味が追いつく。
「あ……うん、空いてるけど」
少し遅れて返事をすると、零花はわずかに頷いた。
「なら、校門前で逢いましょう」
それだけ言うと、今度こそ振り返らずに歩き出す。
その背中は、すぐに中庭の景色に溶け込んでいった。
残されたのは、さっきと同じはずの昼休みの音。
けど、さっきまでとは少しだけ違って聞こえた。
(……放課後、か)
手に持ったままのパンを見下ろす。
結局、まだ一口も食べていない。
小さく息を吐いて、俺は立ち上がった。
――胸の奥に、言葉にできない何かを残したまま。




