第1話「再会、雨音に紛れて」
登場人物
水無月晴人
高校1年生。本作の主人公。どこにでもいる普通の高校生。
ある雨の日、かつての幼馴染・零花と再会する。
久しぶりの再会に戸惑いながらも、少しずつ彼女との距離を取り戻していく。
霧咲零花
高校2年生。晴人の幼馴染。長い時を経て、再び彼の前に現れる。
落ち着いた雰囲気と大人びた美しさを持つ少女。
どこか謎めいた言動を見せることもあり、その内面は容易には掴めない。
「あと、どれくらい残っているのかしらね」
その言葉の意味を――
あのときの俺は、理解していなかった。
ただ、どこか現実味のない声だと、そう思っただけだ。
それが、どれだけ取り返しのつかないものだったのかを、俺は――まだ知らなかった。
◇ ◇ ◇
雨の音が、やけに大きく聞こえる日だった。
校舎の中にいるはずなのに、屋根を叩く音が耳の奥に残る。
湿った空気が、廊下をゆっくりと流れていた。
靴箱の前に立ちながら、俺はぼんやりと外を眺める。
空は一面の灰色。
重たく垂れ込めた雲が、景色の輪郭を曖昧にしていた。
校庭には無数の水たまりができていて、
そこに落ちる雨粒が、静かに波紋を広げている。
「……こりゃ、止みそうにないな」
誰に向けるでもない言葉が、口をついて出た。
それくらい、この雨はしつこそうだった。
ため息をひとつついて、傘を手に取る。
下駄箱から靴を取り出し、履き替える。
「……もう慣れたか」
入学して、まだそれほど時間は経っていないはずなのに。
通学路も、教室も、この場所も。
気づけば当たり前みたいになっている。
傘を開いて、外へ出る。
ぱたぱたと、雨が傘を叩く音。
それがすぐに一定のリズムになって、耳に馴染んでいく。
この帰り道にも、もう迷うことはない。
足が勝手に進んでいく。
こういう天気の日は、体調を崩しやすいらしい。
気圧がどうとかで、頭が痛くなったり、気分が落ち込んだり。
クラスでも朝から「だるい」だの「眠い」だの言っているやつがいた。
まあ、気持ちは分からなくもない。
空は暗いし、外に出るのも億劫だし、
普通に考えれば、あまり好かれる天気じゃない。
けれど。
「俺は、嫌いじゃないけどな」
傘に当たる雨音。
少し湿った空気。
人通りの少ない帰り道。
世界が、少しだけ静かになる感じがして――悪くない。
ふと、道の端に誰かが立っているのが見えた。
傘を差していて、顔はよく見えない。
けど、その制服で分かる。
――うちの学校の生徒だ。
こんな雨の中、何をしているんだろう。
視線を向けると、道端には紫陽花が咲いていた。
雨に濡れた花弁が、淡く色を滲ませている。
ああ……あれを見てるのか。
なんとなく、そう思った。
だったら邪魔しない方がいい。
そう判断して、俺はそのまま歩みを止めず、女生徒の背後を通り過ぎる。
すれ違う、一瞬。
顔は見えないまま。
ただ――なぜか、少しだけ気になった。
数歩、進んだところで。
「……晴人君」
雨音に紛れて、かすかな声が耳に触れた気がした。
「……え?」
思わず足を止める。
今、呼ばれたか?
振り返るも、そこにいるのはさっき通り過ぎた女生徒だけだった。
相変わらず、紫陽花に視線を落としている。
――気のせいか。
そう思い、視線を前に戻し、一歩踏み出そうとした。
「水無月晴人君」
今度は、はっきりと。
雨音を越えて、名前が届いた。
背筋が、わずかに強張る。
ゆっくりと、振り向くと、女生徒が顔を上げる。
紫陽花から視線を離し、まっすぐに――俺の方へ。
雨に濡れた黒髪が、背中へと静かに流れている。
整った輪郭。
白い肌に落ちる水滴。
細く、切れ長の目が、こちらを見据えていた。
その目元に、小さな泣きぼくろがある。
一目見て、美人だと思った。
しばしの沈黙。
雨音だけが、二人の間に響いている。
この場には、俺と彼女しかいない。
なら、さっき俺の名を呼んだのは――彼女に他ならない。
俺を、知っている?
けれど、俺はこんな美人の知り合いなんていない。
なのに――
胸の奥が、ざわつく。
どこかで、知っているような。
はっきりとは思い出せないのに、確かに何かが引っかかっている。
「……久しぶり、ね」
その一言で、思考が止まる。
久しぶり――?
「……私のこと、覚えてる?」
わずかに、確かめるような声。
その一言で――何かが、繋がった。
◇ ◇ ◇
頭の奥に、ひびが入るような感覚。
――笑い声。
――夕焼けの帰り道。
――小さな手。
――並んで歩く影。
断片的な記憶が、次々と浮かび上がる。
まとまりのないまま、ただ一方的に押し寄せてくる。
「……あ」
声にならない声が、漏れた。
そして一つの記憶が、はっきりと形を結ぶ。
雨の日だった。
今日みたいに、空が暗くて。
傘の下で、少女は少し俯いていた。
「……引っ越すの」
ぽつりと、少女が言った。
「……え?」
頭が追いつかないまま、聞き返す。
「もう、ここにはいられないの」
その声は、いつもより少しだけ小さかった。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
「……もう会えないの?」
気づけば、そう口にしていた。
情けないくらい、震えた声だった。
少女は、すぐには答えなかった。
ほんの少しだけ、間が空く。
雨音だけが、二人の間に落ちる。
「……会えるよ」
やがて少女は小さく、そう言って。
ゆっくりと顔を上げた。
「きっと――」
一度、言葉を区切って。
「ううん。絶対、会えるよ」
少しだけ、無理をしたような笑顔だった。
その言葉が、やけに強く残った。
――それが、最後だった。
◇ ◇ ◇
はっとして、意識が現実に引き戻される。
目の前に立つ女性と、記憶の中の少女の面影が、ゆっくりと重なっていく。
「……霧咲……零花?」
「思い出せたかしら」
どこか試すような声だった。
「……零花」
その名前を口にするだけで、胸の奥がざわつく。
「本当に……零花なのか?」
「そうよ。もしかして忘れてた?」
軽く言うその声音に、どこか引っかかりを覚える。
自然すぎるのに、どこかだけ違う。
「小学生の時以来だもの。仕方ないわ」
さらりとした言葉。
けれど、その距離がわずかに遠い。
雨は、変わらず降り続いている。
「なんで、ここにいるんだ?」
「晴人君と同じ学校だからよ」
迷いのない答え。
まるで最初から決まっていたみたいに。
「……なんで連絡くれなかったんだよ」
思わず、言ってしまう。
零花は、少しだけ視線を落とした。
ほんの一瞬。
それだけのはずなのに、やけに長く感じる。
「……会えるとは思ってなかったのよ」
静かな声だった。
「でも――」
言いかけた言葉を、
「そんなのは、今はいいでしょ?」
やわらかく、遮られる。
「こうして、また逢えたんですもの」
それだけで十分だと、そう言うように。
過去も、空白も、すべてを閉じるみたいに。
「……今日は、ここまでにしておきましょう」
唐突な言葉だった。
「また、学校で会いましょう」
それだけ言って、零花は背を向ける。
そのとき――
「……始まってしまったのね」
小さく、何かをこぼした気がした。
「えっ?」
思わず声を上げるけれど、零花は振り返らない。
雨の中に溶けていく、その姿を――
俺はただ、見送ることしかできなかった。
◇ ◇ ◇
家に帰り、自室のベッドに身を預ける。
濡れた制服のまま、天井をぼんやりと見上げた。
雨音は、まだ止んでいない。
「……零花」
名前を呟く。
あれは、本当に――霧咲零花だったのか。
確かに面影はあった。
けれど、どこか違う。
言葉にしづらい、わずかなズレ。
再会したはずなのに、どこか遠い。
――いや、考えすぎか。
そう思いながらも、違和感は消えない。
思い出そうとすると、記憶がうまく繋がらない。
まぶたが重くなる。
雨音が、遠ざかっていく。
答えの出ないまま――意識はゆっくりと沈んでいった。




