第9話:【悲報】走馬灯にマッマが出てきた件w 絶体絶命の淵で思い出した「あの言葉」www
アリシアは逃げた。なりふり構わず、泥を撥ね飛ばしながら。 だが、暗闇の中で足元に口を開けていた深い溝に気づくことはなかった。身体が宙を舞い、重力に従って底へと叩きつけられる。
「――ガッ……!?」
鈍い衝撃が脳を揺らした。頭を地面に強打し、視界が激しく明滅する。 這い上がろうとするが、手足に力が入らない。ぼやけた視界の先、溝の縁に数体の魔獣が姿を現した。輪郭が定かではない影たちが、獲物を追い詰めた喜びを分かち合うように、低く唸りながら降りてくる。
意識が急速に遠のき、世界が完全な闇に包まれ始めた。 そして、深い闇の底で、古い記憶が奔流となって溢れ出す。
【回想:男尊女卑の王国エングラム】
アリシアの生まれ育ったエングラム王国は、男尊女卑の思想が骨の髄まで染み付いた国であった。 女は家を繋ぐ道具であり、魔力を持たぬ女など、価値のない家畜同然。家族も、身内も、アリシアに注ぐ視線は一様に冷酷であった。
唯一の味方は、病弱な母親だけであった。 母は妃としての公務をこなす際も、己の命を削るようにして立ち居振る舞っていた。アリシアを守るための盾になることだけが、彼女をこの地獄に繋ぎ止めているようであった。
運命が大きく歪んだのは、アリシアが七歳の頃。 王族としての資質を測る「魔力検定」が行われたのである。 測定から二日後、その結果が言い渡された。
「……魔力総量、ゼロ」
その瞬間の、父親と親族たちの顔をアリシアは一生忘れない。 絶望は即座に怒りへと変わり、王宮内は彼女を罵倒する声で満たされた。 「エングラムの汚点」「ゴミ」「魔力なき女」 他貴族たちはこれを好機と捉え、アリシアを嘲笑う醜悪な噂を街中に流し始めた。
ある日、アリシアはその噂を面と向かって口にした貴族の息子と、激しい掴み合いの喧嘩を起こした。 「無能のくせに生意気だ」と嘲笑ったその少年の顔を、アリシアは己の拳で、再起不能なまでの大怪我を負わせて沈黙させたのである。 魔力がないにもかかわらず、その殺気と膂力は異常であった。
当然、報復は凄惨を極めた。 女の分際で貴族の嫡男を傷つけた罪として、アリシアは暗い部屋に閉じ込められ、食事も満足に与えられなかった。 それでも母だけは、その細い体で周囲の非難をすべて受け止め、アリシアの枕元に寄り添い続けた。
母がゆっくりと顔を近づける。 カサついた唇が、アリシアの耳元で何かを囁こうとした。 大切な、彼女のこれからの人生を左右するであろう「ある言葉」が、紡がれようとした、その時。
「――グル、ルゥ……ッ!!」
魔獣の鼻息。死の臭い。 喉元に迫る牙の気配が、強制的にアリシアを走馬灯から引きずり戻した。 母が何を言おうとしたのか。その核心に触れる寸前で、意識は冷たい泥の上へと叩きつけられる。
「……ぁ……」
視界は未だぼやけ、焦点は定まらない。 だが、眼前に迫る魔獣の輪郭だけが、殺意をもって鮮明に映り込んだ。 言葉は思い出せなかった。 しかし、母の細い手が自分の手を握っていた「熱」だけは、今も掌に残っている。
アリシアは、震える右拳をゆっくりと握りしめた。 走馬灯を邪魔された不快感と、理不尽を押し付けてきた世界への憎悪が、脳の震えを上書きしていく。
「……まだ、死んで……やりませんわ……っ」
目の前には、喉笛を食い破らんと飛びかかってくる魔獣の顎。 アリシアは泥にまみれた右拳を、これまで以上に強く、力強く握りしめた。
魔力がない? 結構なことですわ。 魔力で守られた軟弱な連中には、到底届かぬ境地を見せて差し上げましょう。




