W&WM 第二章前編【天使の落ちる世界】
「ここが別の世界」
ヴェレが辺りを見回す。
「森……か」
蛍月はよろよろと歩くと、石につまづき、前のめりに倒れる。
「う……」
ヴェレは横目で蛍月を見下ろすと、再び周囲の景色を観察した。
彼女は周囲の様子を言葉にし、蛍月へ伝える。
「木が空へ届くほど高く生え、森を形成している」
広い世界。隔離された部屋よりも遥かに奥行きのある感覚に、蛍月はたじろいだ。
「そうだ、これを」
ヴェレはそう言うと、蛍月の左腕をとる。
「あ」
驚いた蛍月が、右手で左腕に触れる。
そこには、赤い紐が結ばれ、その先端には鈴が付いている。蛍月の紺色の服に鮮烈な色が線を引く。
「贈り物だ」
魔女はそう言うと、指先で軽く鈴に触れる。カラリと、音が鳴る。
「これで手を離していても、見失うことはない」
――手放したくない、世界を渡る道具を。
蛍月は空気を吸い込む。森の木々、草と土の匂いの中に、甘い香りが混ざる。
「この匂い、お花?」
蛍月の問いに、ヴェレが答える。
「ここはちょうど木が生えていない。森に穴が空いたように空が開けて光が射し、私たちと足元の花畑を照らしている」
蛍月の肌を日の光が柔らかく暖める。
「白い花が日の当たる地面を覆っていて、所々に青い花も生えていて目を引く」
蛍月がそっとしゃがみこみ、手を慎重に下ろす。すると、手のひらに柔らかい、しっとりとした花弁の感触があった。
「わあ」
ヴェレが木々を観察すると、目印のような傷や、洞の中に溜まった石を見つけた。
「この世界にも、人間がいるかもしれないな」
「行くぞ」
ヴェレに声をかけられ、蛍月は慌てて立ち上がると、彼女の手首を掴む。
彼女のワインレッドの服が、白い花畑に血が滲むように、色を落としていた。
***
二人が木々の目印を頼りに歩き、森の出口に差し掛かると、そこには小さな家があった。
古い木造の建物で、中には一人の女性がテーブルの前に座っていた。
目は虚ろで、手には薄い青色の液体が入った容器が握られている。
「う、あ」
女性の纏う服は、高価そうな生地に美しい装飾が施されていたが、今は汚れて糸がほつれている。
「どうしたの? 誰かいるの?」
蛍月は様子がわからず、不安そうに首をすくめる。
「様子が異常だな」
ヴェレの掲げた右手から、エメラルド色の光が溢れ、彼女の瞳に色を宿す。
「少しは情報を持っているといいが」
魔女がにやりと笑みを浮かべ、その力を行使する。
「ふむ、どうやらこの世界には天使がいるようだ。そして、天使の血はこの世界で最も価値ある資源」
ヴェレが蔑むように、項垂れる女性を見下ろす。
「息子がいたようだな。だが、己の欲望に抗えず、子供を裏切った」
「その子供は、唯一の家族だったお前に裏切られて、どう感じたろうな」
ヴェレの鋭い瞳が女を射抜くように見る。
「お前の『豊かになりたい』欲望を叶えよう」
すると、目の前の女性の足元に、大量の金貨がジャラリと音を立てて現れる。
蛍月は、突然の金属音にびくりと震え、ヴェレの手首を掴み直す。
「代わりに、その金を稼ぐための『時間』そして手数料として、『この世界の知識』を徴収する」
エメラルド色の光が家に漂い、無慈悲に対価を支払わせる。女性の髪から艶が失われ、肌に皺が増えていく。
「ほら、その金貨を拾って、残りの時間を豊かに生きろ」
母親が、ヴェレを見ることなく、口をもごもごと動かす。
「デプラ…ごめん、なさい……」
「相手が違う」
魔女は一言そう言うと、幼い少女の手を引き、ゆっくりと家を出ていった。
***
「門と天使、断片的にしか情報を得られなかった。もっと地位の高い人間に会う必要がある」
「幸いなことに、あの女から天使を奪った男の情報を得られた――ドラヴィエル公爵というらしい。その男のいる街へ向かう」
***
「着いたの?」
蛍月とヴェレは、馬車から降りる。そこは天使の取引が最も盛んだった街。
数年前から、天使を解放するという勢力が現れ、各地が襲撃されていた。それにより、血の取引は自ずと減少し、価値は高まり続けていた。
「建物が密集している、大きな街」
「薄く青みがかった石造りと、灰色に淡い茶色の木造建築が主のようだ」
「空気が重い。街を歩く人の数は多いが、みな血色が良くないな。天使の血が原因か……」
「今向いている方向の先に、屋敷が見える。あれが例の公爵様の邸宅だろう」
彼女の視線が次の標的を捉え、その瞳が細められた。
***
「何者だ、貴様らは」
ドラヴィエルは、目の前に立つ二人を順に見やると、不愉快そうに口を開く。
過去にお気に入りの天使を盗まれ、天使を解放する勢力の台頭から、屋敷の警備は以前よりも強化されていた。それにもかかわらず、彼の前には怪しい女性と、視界を布で遮る少女が立っている。
「お前がドラヴィエルか?」
ドラヴィエルの質問を無視して、ヴェレが確認を行う。
「警備は何をしている」
公爵は苛立ちを隠さず口にする。
「少し取引したら、快く通してくれたよ」
ヴェレがにやりと笑う。
「取引だと?」
ドラヴィエルの問いに、ヴェレが魔法の発動で答える。エメラルド色の光が、彼女のかざした手から溢れた。
「天使への果てない欲望。血を、翼を奪い、価値を操作する」
「その欲望を叶えよう」
魔女の魔法が、対象の強い欲望を暴く。
「代わりに、元あったお前自身の知識と、『意思』を徴収する」
底のない欲望には、相応の対価が要求される。
「――っ!」
ドラヴィエルの背が盛り上がり、一対の翼が生える。彼の髪が透き通るような白へ、瞳が青く変わる。
「お前が求め、搾取し続けた、無垢な天使そのものだ」
「行くぞ、蛍月。こんな紛い物じゃなく、本物の天使たちは地下にいるらしい」
ヴェレは天使を一人、部屋へ残し、蛍月と共にその場を離れた。
遅れて駆けつけた兵士が天使を見つける。
「ドラヴィエル公爵……なのですか?」
天使は首を傾げ、答えない。
その様子を見た兵士の口角が、ゆっくりと持ち上がった。
二人は地下への階段を目指し、屋敷内を歩く。
「さっきの人は……どうなるの?」
「さあな、他の天使と同じように扱われるんじゃないか? 運が良ければ、解放軍とやらに助けて貰えるかもしれない」
蛍月が考え込むように下を向く。
「奴は天使については吐き気がするほど知っていたが、門についてはあまり良く知らない」
ヴェレは取引で得た情報を口にしながら、整理した。
「以前は天使や門について研究させていたらしいが、研究者の女が、一人の天使を逃してしまったことがあった。それからは、他の人間に自身の所有物を触らせたくないと、天使を檻に入れて研究を止めた」
〈収穫だったのは、必ず徴収可能な"知識"だ。難点は、対象が忘れている内容については、こちらもぼんやりとしか認識できない点だな〉
ヴェレが思考を巡らせていると、蛍月が足を止める。
「誰かくる!」
複数の足音――
屋敷の人間ではないだろう。武装した集団が素早く二人を取り囲んだ。
一人がヴェレの前に出る。
「何者だ、何故ここにいる」
低い声で声をかけて来たのは、髪を無造作に後ろで束ねた、白髪の男。
厚手の外套に、皮の手袋。体格が良く、傷が目立つ。彼の手にはナイフが握られ、背中には長剣が納められている。
〈こいつら、解放軍か〉
〈初めて魔法を使った時、複数人同時に取引が行えた。だが、この少女《蛍月》には上手く発動できなかった〉
ヴェレは表情を変えず、取り囲む侵入者たちを見る。
〈もし失敗すれば、殺されるだろう。奴らに近づかれるまで、全く気付かなかった。特に、目の前の男は危険だ〉
「質問に答えろ、屋敷の人間じゃないな」
男が衰えを感じさせない、鋭い眼光で二人を見る。
「魔女」
ヴェレが短く答える。
「魔女……だと」
男が空いた手で顎を触ると、はっと表情を変える。
「お前、"どこから"来た?」
天使を解放する組織の筆頭――コルヴ。彼のナイフを握る手に、一層強く、力が込められた。
『GateFragments』
第四巻『World and World Magic』
——Angelblood編——




